円空をあるく
天狼星
序 ~僧・円空について~ (改稿済み)
江戸時代前期に円空(圓空)という僧侶がいた。
寛永九年(一六三二)に美濃国に生まれ、元禄八年(一六九五)に自坊の弥勒寺(岐阜県関市池尻)で入寂した。
尾張国(愛知県)や美濃国(岐阜県)を基点に、北は北海道・松前や洞爺湖周辺の道南地方、南は奈良県・天川村までを廻国した修験僧であり、生涯に一説では十二万体もの仏像、神像などの木像を彫り上げたと言われる。
また、千六百種以上の和歌や漢詩を詠み、仏画や墨画を描いたことでも知られる。
円空の彫り残した木像は、鑿や細工刀を用いて粗く彫られたもので、そのデザイン性の高さや多くの木像が口の両端が上がり微笑みを浮かべている様にも見えることから、昭和三十年代から「微笑仏」や「円空仏」などと称されるようにもなった。
ここでは、円空は、神像や人物像も彫っていることから「円空像」と称することをお許し願いたい。
因みにこれまでに円空像は、約5400体が確認されている。(円空学会調べ、二〇二二年六月現在)
円空の生年、没年月日、生国は、自筆の文書や墓碑から判明しているが、前半生の三十二歳までは一切のことが分かっていない。
それには、様々な要因が挙げられるが、明治初期の廃仏毀釈や大正九年(一九二〇)の弥勒寺の全焼で数百体あったと言われる円空像や自筆の経典類、書付など一切が灰燼に帰したというのが最たるものではないか。
現在、円空の生涯のことで多くの学者や研究家が喧々諤々の論争を交わす。
しかし、それらの説はあくまで説でしかなく、論拠の証拠が無ければ正しい説とは言えない。特に出生地や前半生に関わることは全てである。
例を挙げるのであれば、「円空の母親は、長良川の洪水で亡くなった」である。
円空のことを全国に知らしめた「近世畸人伝」(伴蒿蹊・寛政二年(一七九〇))などの江戸時代後期の資料にはそのような記事は見当たらない。
母親が長良川の洪水で亡くなったとする説は、昭和四十年代に一人の研究家が挙げた説に基づくものである。
やがて、それが通説化してしまい、昭和六三年(一九八八)に放映されたNHKのドラマ「円空」(主演・丹波哲郎)で視覚的、衝撃的に放映されることにより定説として人々の心に定着してしまった。
偉い先生、高名な学者が仰られたから、それらが証拠が無くても正しいのではなく、やはり証拠があって初めてそれが正しいのである。
円空や円空像を研究、顕彰するものの一人として、常に気にしていたい。
円空のことをざっとまとめると、こんな形になるのであろう。
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