第5話 史料の伝える『ヤダの石のまじない』2(金幼孜の北征録)

 今回は2編目ということで、明代の金幼孜きんようしの北征録です。やはり、那珂の『成吉思汗實錄』に引用してあるものを訳します。これは、明朝の第3代永楽帝(在位1402~24)がモンゴル高原へなした侵攻を記録したものです。


 この時は、チンギスの血筋が皇帝カアンの位にあるも、傀儡かいらいに近く、有力家臣の後押しがあってようやくその地位に留まるを得る状況でした。家臣の力が強く、中でもオイラトが強盛であり、また、家臣同士の争いが激しく、内紛の時代でもあります。


 この時の永楽帝は、皇帝カアンと対立するオイラト勢と同盟し、モンゴルを討たんとしました。


(皇帝の呼称は、ウイグルの時はカガンでしたが、モンゴルの時代にはなまってカアンとなりました)




【永楽8年(西暦1410年)5月28日、双清源を発し、午[の刻:字義としては、『正午前後の2時間』とも、『正午以降の2時間』ともされますが、ここは朝出発して、昼頃といったものでしょう]に河に至り、いかだを縛り、水[=河]を渡る。


 1木板を得て、上にりょ[異民族に対する蔑称。ここはモンゴルを指す]の字有り。


 訳史[翻訳官]は之を読みて、

「乃ち祈雨の語なり。虜語は之を札達ジャタと謂い、華言[=漢語]にて云えば、『風雨をのろう』。けだし、虜の中に此の術の有るならん」】


[]内はひとしずくの鯨により補足。




 ところで、先話にて紹介した如くヤダ(モンゴル語でジャダ)とは、石のまじないであり、木ではありません。つまり、この訳史は、ジャダについて知ってはおっても、詳細は知らず、また木に記された文の意味が判然としなかったのでしょう。そして、ついついその場をとりつくろって、答えたのでしょう。


 訳史ゆえ、いわば専門家です。ゆえに、答えられねば、その沽券こけんに関わるとでも想ったのでしょうか。


 もちろん、己以上に詳しい者などいませんから、これがバレてどうこうなどということもありません。通常なら、まあ、何の問題も無いよとなるのでしょうが。


 漢人に馴染み深い道教では、紙に文字を書いて水に浸し、これを符水ふすいとして霊験有りとします。そうしたところからの連想もあるのでしょう。


 見慣れぬ文字を記した板がドンブラコと流れて来て、それが訳史の下に持ち込まれての、この顛末となった訳です。


 まさに史料として残り、後世において読まれることになるなどとは想いもよらなかったでしょう。




 そして、壮大な誤解とでも呼ぶべきものもまた伝えることになります。


 それは1つには、このまじないが何を目的としてなされる類いのものとみなされておるかに関わり、もう1つにはこれの霊験を信じるゆえなのですが。


 そう。いかだに乗って渡るほどの河自体が、ヤダのまじないによる雨が原因とみなされているのです。そして無論、それは明朝の進軍を阻止するためになされたと。




 おまけ

 クビライが開いた元朝は、1368年、明の初代皇帝たる朱元璋しゅげんしょうにより漢地を追われ、滅んだとされますが、さにあらず。


 北宋が華北を失い南宋として続いた如く、元朝はこの後もモンゴル高原にて存続します。必ずしもクビライの後裔が皇帝位に就いた訳ではないという点では、モンゴルとして存続したとする方が適切かもしれませんが。


 ただ、この後、ダヤン皇帝カアン(生1464~没1524)がモンゴル皇帝カアンの威信をその武力にて取り戻しますが、そのダヤンとは大元のこととされます。ゆえに元朝を引き継いでいるとの意識があるのも確かです。ダヤンもそうですが、クビライの後裔に限ってとはなりましょうが。


 そして、南遷後の宋(南宋)と金の間に戦争が続いたように、北帰後の元と明の間にも戦争が継続されます。この永楽帝の遠征は、その流れにあるのです。

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