Chapter Ⅴ “ これは罠だ、奴らに騙されるな”
息切らせて走る。
この国の緩い銃規制のおかげか、戦場さながらにあちこちから銃声が轟き、水底にしずむコンクリ建築に際限なくパニックが拡大していく。
“
カギを差し込み、ドアノブを回す。常に退路を確保しろって
一見すれば、出掛けた当時のまま。
真っすぐな廊下。そこに置かれた
焦って駆け込みたい本能を抑えつけ、冷ややかな特殊部隊のプロ意識を呼び覚ます。単独でのクリアリングはチェスみたいなもの。一手でも指し間違えれば、つぎはない。
物陰から物陰へ、可能なかぎりシルエットを晒さないイスラエル方式の
無機質ながらも不安を掻きたてる、合成音声。
『警告、気圧が急速低下中。警告、気圧が急速低下中』
あれの出本は、無菌室の保全システムでまず間違いない。しゅるしゅると空気の漏れる音が、いやに耳奥にこびりつく。
ついさっきまでここで家族団欒を楽しんでたなんて、嘘のようだ。テーブルはひっくり返され、あちこちに食器が散乱している。とくに致命的なのはアナウンスのとおり、熊にでも襲われたかのようなビニール壁の状態。NASA共同開発の強度抜群の素材すら、リミッターを外したマリオロイドのまえではごらんの有様か。
だが――どこにもペトラの姿は見当たらない。
聖域が破られ、汚染が進行していることをしつこく内蔵コンピューターが告げているが、それでもこいつは良いニュースに違いない。ペトラはきっと逃げたのだ、そう自分を強引に納得させる。
なにせ良いニュースもあれば、悪いニュースもある。まずさきに対処すべき対象が、そこに居た。
「・・・・・・アール?」
我が家の頼もしき人造家政婦は、こちらの呼びかけに一切答えない。人形にあるまじき反応だった。
両手を挙げろなんて、いつもの手続きを踏む気にはなれない。これまでマリオロイドによる殺人は一件も報告されていない。あるとしたら事故か戦争のどちらかだけ、今はどっちだ?
非常用の緊急停止コード。俺らしくない天啓に、まずは希望を託す。
「エマージェンシー・シャットダウン。コード入力、
古い慣習だねぇとかボヤきながら、ペトラが設定していく場面に居合わせたことがある。だから間違っちゃいないはず・・・・・・なのにアールは動きを止めるどころか、むしろキッチンで何かをしていた。何を? フード・プリンターのタッチパネルには、調理中の文字が踊っていた。まさか、料理してるのか?
状況がすべてを物語っていた。絵に描いたようなロボットの暴走、それもまず間違いなくこいつは全世界的な現象に違いない。それでもアールに銃を向けるという行為にひどい嫌悪感を覚える。飼い猫をこの手にかける、そんな気分だ。
だが他に選択の余地なんてあるのか? 俺がやられたら、次に狙われるのは一体誰になる?
「・・・・・・すまん」
幾多の実戦をくぐり抜けてきたが、さすがに人形と交戦した経験はない。
ロボットを武装させるのは、それだけでも重罪だし、火器管制とかの専門的なプログラミングも合わせてやらかそうものなら、終身刑まったなしだ。そもそもそんな学があるなら、ギャングに身を落としたりはしないはず。
強いていうなら、抗争に巻きこまれた子守り人形を見かけたことぐらいか。身を挺して銃弾を浴び、泣きわめく8歳ほどの少女をあやしていた、純粋無垢にしてゼッタイの忠誠心・・・・・・ああ、くそっ。M&Pのトリガーガードに突っこんだ人差し指を、土壇場で外していく。
思い出せてよかった。防犯対策とかで奴らの表皮は、レベルⅢ−A相当の防弾仕様になってるらしい。つまり俺が構えてるM&Pの9mmパラベラム弾はおろか、44マグナムすらも止められる。
チラリと、部屋の隅にあるガンロッカーへと視線を送る。あそこには、
まったく考えすぎだ。いや、躊躇がすぎるぞ。気づけば――真っ赤な瞳が、こちらをジッと見据えていた。
「ッ!!」
わずかでも身を引くタイミングが遅れていたら、コンクリ柱でなく俺が粉砕されていたろう。
なんて、攻撃動作なんだ。武術家の優雅さなんてみじんもない、人体ではありえない角度に関節を歪めながら、ただひたすらがむしゃらに放たれる打撃。それでもその威力は、スレッジハンマーの一撃とさして変わらない。見た目はどうあれ、中身はただの機械ってことか。俺の知る電動家政婦の面影は、もはやどこにもない。
理屈はともかく、手元にある最大火力がこれだ。両の親指を重ね、腰だめでの乱れ撃ち。M&Pのスライドから弾き出された空薬莢が、鼻先をかすめゆく。すべて
研ぎ澄まされた俺の神経が、着弾のたびに波打つアールの皮膚をスローモーションで見せつけてきた。弾頭は潰れ、貫通はおろか
カチッ。そんな弾切れの音を合図に、俺は一目散にガンロッカーへと駆け出していった。だが3歩といかず、金属バットでぶっ叩かれたかのような衝撃が背中を襲う。
意識が一瞬飛ぶほどの激痛。これで着地先が本棚でなかったら、一体どうなっていたのやら。黄ばんだ書籍製のクッションをかき分けながら、どうにかツールナイフをポケットから引き出していく。
戦闘用とは口が裂けてもいえない、おまけサイズの刀身。控えめにいっても苦肉の策だな、銃が効かない相手にナイフだって? それでも獣のように馬乗りになってきたアールの脇腹めがけて、がむしゃらに刃を突き立てる。まるで岩でも刺したかのような感触のあと、刃先が意思に反して横滑りしていく。すると服越しにじんわり滲みだす、白い人工血液のシミ。
・・・・・・は? 15発も喰らって無傷なのにこんな、なぞるような斬撃は有効だってのか? 何かこう、閃きが舞い降りかける。
だが起死回生の一手を思いつくよりも早く、感情が抜けおちた無表情なアールが俺にとどめを刺そうと、コンクリすらも引き裂く手刀を掲げていった。まさに絶体絶命。
「ねぇ・・・・・・どうしちゃったの?」
それを寸前で食い止めたのは、いまにも泣きそうなペトラの震え声。
破れきった無菌室の障壁、その向こうにあるバスルームの扉から顔だけ覗かせたピンク色の宇宙服。兄と親友の殺し合い、それを濡れた瞳がバイザー越しに見つめていた。
「私がわからないの?」
すがるようなその声に、アールはタックルで応じていった。
「イヤぁぁぁっッッ!!」
咄嗟に扉を閉じたペトラの判断は正しい。だがあんな薄っぺらい板っきれじゃ、人形の膂力にどこまで太刀打ちできるものやら。ほんの一撃で、すでにヒンジが吹き飛ばされていた。
よろよろと老人よろしく、どうにかこうにか身を起こす。咳に交じる朱色、だが自分の心配なんてしてる場合か。聞こえてくるのはドアを叩く打撃音と、ペトラの悲鳴。それがなけなしの気力を奮い立たさせる。
「相手を間違えるなッ!!」
華奢なアールの背中に組みつくが、クソッ、まるで暴れ馬にでも跨ってるような気分。大の男であるこの俺がまるでぬいぐるみのように振り回され、部屋中の家具に全身がぶつかっていく。
果たしてこれで正解だったのか? 後悔はいつだって先に立たないものだが、ガンロッカーの鍵を外し、ライフルを取り出してそいつに弾を込め、狙いを定める・・・・・・いや、やはり選択肢なんてなかった。それまで扉が保つわけがない。
だがこれじゃ、先は見えている。
「兄っぃ!!」
パニックそのものな調子っぱずれの叫び。だが感情は乱れていても、アイツもまた専門家の端くれなのだ。
「あ、あのねッ!! 人形の肌って非ニュートン流体で出来てるのっ!! だから早い攻撃は・・・・・・ひぃ!!」
アールと格闘戦を演じてるうちに弾き飛ばされた椅子が、バスルームの扉に激突する。そのせいで脈絡なくまくし立てられた専門用語は、宙ぶらりんのまま途切れてしまった。
早い攻撃がなんだ!? 刃渡りせいぜい3cm未満のツールナイフを先ほどと同じように突き立ててみるが、文字どおり刃が立たない。防弾仕様の人工皮膚を一体どうやって貫けばいい?
いや発想がそもそも間違ってる。相手は、人間とはまるで別の法則で動いてる機械。
すでに刃こぼれしてる、おまけ程度のナマクラ。そいつでアールの喉をかっさばく。ただし先ほどよりゆっくりと、通常の半分以下のスローペースでもって刃を前後させてみる。するとこれまでが嘘のように、白磁のような肌に鈍色の刀身があっさり沈み込んでいったのだ。
高速でぶつかると硬くなり、逆にゆっくり触れると柔らかくなる。それが非ニュートン流体という現象だ。これでモノリスは人肌の柔らかさと、防弾性能を両立しているに違いない。
息が荒がる。こんな醜い切断痕もそうはあるまい。凶器は錆びついたノコギリと説明されたら、むしろそうだろうなと納得するしかない、ぐちゃぐちゃのバラバラ遺体。
人形の血が白いのは、事故現場などで要救助と見間違えないための処置だそうだが・・・・・・相手が知り合い、それも家族同然に接してきた相手なると、血の色を変えたところでグロテスクさはまるで和らがなかった。
どうにも、無機物とはいえくるものがある、な。
右手には半ばから折れてしまったナイフ。そして左手には、ポタポタと血汁を垂らしてるアールの生首。おそるおそるバスルームから這い出してきたペトラは、呆然とそんな俺の姿を見つめていた。
“もう大丈夫、ぜんぶ終わった”。そんな慰めは、嘘っぱちだ。終わっただと? むしろ部屋の外で繰り広げられてる狂乱は、激しさを増すばかりだった。だから代わりに、こう告げるほかない。
「・・・・・・支度しろ。ここから離れるぞ」
††††††
消防士の早着替えには劣るが、それでも迅速に装備を身につけるのは、特殊部隊員としての嗜みだ。ポーチでゴテゴテの
「そっちは、どんな感じだ?」
乾きはじめてパラパラになった人工血液をそれとなく服で拭い、背中の痛みを顔に出さないよう注意しながら、テーブルクロスに包まれたアールの遺骸・・・・・・いや、残骸に気を取られているペトラへと声をかける。
「う、うん・・・・・・とりあえず、非常用の持ち出し袋はもったよ」
持病の件もあり、ペトラには急な避難生活にも対応できるよう、薬やらなんやらが詰まったダッフルバッグを常備させていた。戦闘装束を一から整えていく俺なんかより、そりゃ準備も早く済むだろう。
人形はどれも防弾仕様だとすでに思い知ってはいたが、とはいえ最近のギャングも似たようなものだ。だから現役時代に愛用していたこのガリルACE52はすでに長射程、高貫通でしられる6.8mm×51弾仕様に換装済みだった。
薄く塗膜されたカモ・ペイントは、長年の実戦のせいでほとんど禿げている。11.8インチの短銃身にサプレッサーとスコープを積んだ、いわゆる
虎の子の50連ドラムマガジンを叩き込み、標準作戦手順にもとずいて新品の電池に入れ替え、スコープとタンデムで載せた近接用のドットサイトがちゃんと点灯するかどうか確認。大量破壊兵器が手元にあると安心するとは、因果な職業病だな。そんな俺にとっての銃火器が、妹の場合はコンピューターになるらしい。
愛用のラップトップと睨めっこすることで、ペトラはどうにか平静を装おうとしていた。
「相変わらず、ネットは遮断状態か?」
「というより・・・・・・MARIO.netが、かな。システムそのものは生きてるけど、不正ユーザー扱いされちゃってる。たぶん全世界のユーザーがそう」
人形由来の技術だから、だろうな。おそらくは意図的な情報遮断だ。
クラウド化の負の側面ってやつか。SNSから暗号通貨、政府の避難勧告にいたるまで、人形どもに処理を肩代わりしてもらってた分野は軒並み全滅ってことらしい。自分の銀行口座がどうなったかなんて今さら気にもならないが、電話が使えないのは痛いな。外からの助けは、望み薄ってわけか。
「確か、他にもあったろう?」
「うん、旧来のローカルネットはまだ無事みたい。でも大手サービスが軒並み撤退してほとんどアングラ化してたから・・・・・・情報は限られてる」
ペトラがラップトップをこちらに傾けてきた。その画面には、誰とも知らないユーザーたちの呟きが踊っていた。
“もうおしまいだ”
“モノリス直販店の動画見たかよ? ヤベェよ、脳みそって灰色なんだな”
“どこか公式声明とか出してないのか?”
“ホワイトハウスすら沈黙してるのに? アメさんが駄目なら、うちの政府だってもう終わりさ”
“非常事態宣言を出す余力すらないのか”
“――ハレルヤ”
“アクア・ホテルの404号室に、夫と子どもと一緒に閉じ込められています。誰か助けを呼んで”
“確かロボット執事とかに取り替えた矢先だろ。こりゃ、大統領閣下もミンチだぜ”
“首都の近くに住んでるけど、今さっき無人戦闘機がスクランブルしていったぞ”
“銃声だ・・・・・・”
「第1無人化師団もか・・・・・・」
民間仕様だけでなく軍用機まで暴走してるとなると、いよいよい人類滅亡って言葉が笑い事じゃなくなってきた感があるな。核兵器こそ生身の人間が管理してるそうだが、だからといってどうこうなる状況でもなさそうだ。米軍、NATO加盟国のほとんど、陸海空すべての正規軍が人類を狩り尽くさんと動いてるのだとしたら・・・・・・。
考えてもしょうがない最悪の可能性を頭から追い出し、2点式スリングでもってガリルACEを肩から吊るしてチャージングハンドルを引く。想像の翼をはためかせる前に、やるべき事はまだ無数にある。
バックパックに必要最低限の荷物を詰めこみ、音が出ないよう緩衝材代わりのタオルを挟み込む。あと迷ったが、やはりこいつも持っていくか。
さながら剣闘士のメットを現代風に仕立て直したかのような外観。スイング式の基台には、すでに4眼式
合同訓練の礼だとかで天下のネイビーシールズが押しつけてくる程度にはクソ重いが、持っていればと後悔するよりも、要らなくなったら捨てればいいって精神のほうがいくらか健全だろう。まあ久々だから色々とチェックしないと、窒息死だってありうる。被るのはそのあとだ。
「思うところはあるだろうが、それでもお前は専門家だ。人形に襲われずに済む場所に心当たりはないか?」
ここに立て篭もるというのはナシだ。なにせシンプルに備蓄がない。非常事態にはそれなり以上に備えてきたつもりだったが、まさかこうも呆気なく文明社会が崩壊するなんて、正直なところ頭がまだ追いついてないのが本音なんだ。
そもそも本当にあるのだろうか、ロボットの居ない安全地帯なんて。月面にまでマリオロイドが進出してるご時世なんだぞ? しばし悩ましげに、ヘルメットの顎下に手をやっていくペトラ。
「えっと、人形は電気で動いてるわけだから・・・・・・」
「お前がこれからも暮らしていけるって前提、忘れるなよ」
「でも、さ・・・・・・」
有無は言わせない。これだけは、譲るつもりはなかった。
なるほど、発電機もないど田舎に行けば安全かもしれないが、そこでコイツが生きていけないなら意味なんてない。
「あ、あのね。肺っていう天然の浮き袋が、人形には備わってないから」
「奴らは泳げないのか?」
「う、うん。アクア・ユニットを装着しない限りは。だから太陽光発電と水のろ過装置を積んだ、外洋航行可能なヨットとかがあれば・・・・・・中、長期的な避難生活が可能かもしれない」
だがそんな優良物件、そうは無いぞ?
マリーナが奇跡的に無傷だとしても、そこにたどり着くには市内を抜けるしかない。これだけの騒ぎになってるのに民警も軍警も顔を出さないってことは、地上の惨状は推して知るべしだろう。実際、言った当人ですら無茶があると自覚気味らしい。
それにペトラはわざとボカしていたが、食事については魚を釣れば事足りるにしても、薬ばっかりはどうにもならない。あるかどうかも分からないヨットを奪って、あてどなく南大西洋に漕ぎ出し、医薬品を満載した輸送船か何かに拾ってもらう? どうにも現実味のないシナリオだな。
それに
「とにかく脚を確保して、一旦街からできるだけ遠ざかろう」
人口密集地ほど、マリオロイドも多く出回ってるわけだからな。船を探すにしても、別に海にこだわる必要なんてどこにもない。川辺にだってボートはあるし、金持ちが道楽で作った、設備の整ったシェルターかなんかを見つけられる可能性だってある。
最初に否定した可能性にたちかえり、ありもしない希望にすがりつく。かといって他に打つ手があるのか?
「やっぱり車だな。GT500の方にも、いくらか装備は積んであるし・・・・・・」
そもそも駐車場まで行けるのか?
このビルの入居者はざっと2千弱。そしてマリオロイドの普及台数はおおよそ一般家庭4つにつき1体って割合だから・・・・・・いや、変に賢ぶっても無駄か。ここの管理会社は従業員をことごとく人形に置き換えてる、実態はさらに多いだろう。
邪魔をするなら銃弾でもって解決する。いつものごとく
「で、でもさ兄」
「大丈夫、どうにかするさ」
頭の良いペトラのことだ、俺の懸念なんてとっくにお見通しだろう。それでもロボットが反乱を起こしたとき場合の非常用マニュアルなんて、この世には存在しない。なにをするにも出たとこ勝負だ。
「大事な注意だ。このルールさえ守ればなんとかなる」
「う、うん」
アールとの劇的すぎる別れのせいか、妹は幼児退行を起こしているように見えた。いつも以上にオドオドしていて、発音も舌っ足らず。だから自然と幼子に言い聞かせるような、優しく口調になっていった。
「外では絶対に喋るな。何か気になることがあったら、まず肩を叩いて合図する。俺が走ったら走り、止まったら止まる。そう難しくない、モノマネ・ゲームみたいなもんだ」
他になにか注意事項は? そんなの、むしろ俺が教えて欲しいくらいだ。
ついさっきまで水密ビル中を騒がしていた喧騒は、不気味なほどの沈黙に置き換わっていた。時おり孤独な鈴虫のように、安否確認のためだろうスマホの着信音が鳴り響く。ただ、それだけだった。
単独で
せめて死ぬときは一緒。その密かな覚悟を、嘘の微笑みでもって覆い隠す。
“チンッ”。
いきなり室内に響いた、調理完了を告げるベルの音。それにペトラがびくりと肩を震わせていく。
音の出本はいうまでもなくフード・プリンター。つい緊張をほぐすためにも“おかわりでも頼んでたのか”なんて軽口を叩きそうになるが――思い出せ。目に映るすべてのものに襲いかかっていたアールが、どうしてか攻撃を中断してまでおこなっていた、謎の作業の産物があれなんだ。
すべてを疑い、警戒すべき。だから妹を庇いつつ慎重に、大柄な食器洗い機って見たのハイテク調理器具を調べていく。
ガラスの仕切りの向こうにあったのは、淡い橙色をしたキューブ型の飴細工の密閉容器。食べられる食器モードなら洗い物いらず、だがこんなの注文した覚えはない。そんな飴容器の内部には、ドロッとしたゲル状のなにかが封じ込まれており・・・・・・なんとなく、触るべきではない気がした。
「ひっ!!」
声ならぬ悲鳴をあげて、ペトラが俺にすがりついてきた。修羅場を何度もくぐってきた俺自身、心臓が止まりかける。なにせ白い血が滲んだテーブルクロスが、ひとりでに立ち上がったのだから。
嘘だろ、あの状態から再稼働しやがった・・・・・・首を失い、胴だけとなったアールがぎくしゃくと歩きだす。以前ほどの戦闘能力はなさそうだが、どうする?
いまの俺の手には、M&Pとは段違いの火力のガリルACEが握られていた。だが様々な理由から発砲できずにいる。まず第一に、先ほどの乱闘の時とはちがって、いまはビル全体が水を打ったように静まり返っている。いくら
そして第二に、すこし妙な表現になるが・・・・・・首無しアールは、俺たち兄妹なんて眼中になさそうだった。
兄妹で示し合わせて、静かに横にズレていく。すると俺たちを無視して卵でも抱えるように、アールは例の飴容器をフード・プリンターから取り出していった。みずからの意思というよりかは、
「・・・・・・行くぞ」
「えっ? で、でも」
「いいから早く!!」
たまらなく嫌な予感がするのに、具体的にどうとは説明できない。そういう時は逃げを打つしかない。
片方の手でペトラを引きずり、空いたもう片手でヒャクメをかぶる。ようは防弾仕様のガスマスクみたいなものだからな、これで人形よりはるかにロボじみた外観になったが、あいにく奴らが仲間と勘違いしてくれるとは思えない。
ドアスコープ越しに覗くかぎり、廊下は安全そうだった。バリケード代わりの棚をどかし、鍵とチェーンを外して、息を整える。ここから先は予測不能だ。ストックを肩に押し当て、ガリルを先頭に思いきってドアを開け放つ。そんな風に勇んだ矢先、いきなり現れた人影にたたらを踏まされる。
大口径ライフルに載せられた
服装からして仕事帰りのOLかなにか、まず間違いなくここの住人だろう。あからさまなショック状態。全身の打撲傷に引きちぎられた人差し指からして、命からがら逃げ出してきたって所か。
「ど、どうするの兄?」
フルフェイスのヘルメットで顔を隠し、防弾衣で着ぶくれしてる俺と、宇宙服姿のペトラが敵なのか味方なのか、女はまるで判断がつかない様子だった。それもカチャリと、俺の首元で揺れている警察バッジを目にした途端、みるみる顔面に希望が広がっていく。
「あなた・・・・・・警察の人?」
正直、ペトラのお守りだけでもいっぱいいっぱい。ここに来てもう1人、それも要介護状態の負傷者なんて、とてもじゃないがカバーしきれない。
それでもこの女にとって、俺だけが生き残るチャンスだった。俺個人でなく警察官という役職に向けて、縋るような眼差しが注がれる。まさにその時だった。この集合住宅にある扉という扉が、一斉に開け放たれていったのは。
女型に男型、カスタムパーツを載せすぎてもはや原型をとどめてない輩に至るまで、さまざまな形態のマリオロイドが歩み出てくる。一様にアルカイック・スマイルをはりつけ、芝居がかったその所作もあいまり、まるで舞台に上がる俳優よろしくだ。そんな奴らの共通点は両手に抱えた、例のキューブ状の飴容器。
ジリジリと、吹き抜けに面した安全柵に兄妹ともども追い詰められる。ワンショット・ワンキルを徹底してもこれじゃあ、すぐ数で押し切られてしまうだろう。
このビルには、無数の人形も暮らしてる。それは知ってたが、まさかこれほどとは・・・・・・何百というマリオロイドに囲まれ、身動きがとれない。そこに一歩遅れて、首なしアールもまた加わっていく。
「ハレルヤ」
まずは1体。ほどなくその声は、無数の合唱に変じていった。
「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」 「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」 「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」 「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」 「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」 「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」 「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」 「ハレルヤ」「ハレルヤ」「ハレルヤ」
切断された喉を震わせてアールさえも、“ハ**るぅ*やぁァァ”と、ノイズ混じりの歌声を奏でていく。気が狂いそうな、悪夢的な光景。
のちに知ったことだが、何でもフード・プリンターの源流は、3Dバイオプリンティングなる医療用テクノロジーであったらしい。科学者連中が細胞をあれこれ弄るために設計した機械。そしてテロが最大の効果を上げるのは、いつだって新戦術をお披露目するときだと相場が決まっている。
誰も想像もしていなかった。まさか――ネット経由で
あのドロドロの正体は、殺人ウィルスで満杯のエアロゾル。そうと知っていたなら呆けたように固まらず、必死こいて妹の手を引いて逃げ出していたに違いない。だが当時の俺は、状況に圧倒されるだけの一般人に過ぎなかったのだ。
カシャン。世界の終わりを告げるにしては、あまりにも素っ気なすぎる破砕音。
一斉に叩きつけられていった飴細工から、例のドロドロが空気中に撒き散らされる。ペトラには宇宙服、俺にはヒャクメ、だがあのOL風味の女には何もなかった。
「あ、あ、あぁぁぁぁあああ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ッッっ!!!!」
もはや悲鳴ですらない、動物的な雄叫び。その肌にはすでに、ぶつぶつと斑点が浮かび上がっていた。
なんでも出血熱の一種らしいが、性質的には毒ガスに近い。空気感染で急速に広がり、潜伏期間もなしにすぐさま効果を発揮する。いうまでもなく自然発生したウィルスならこうはならない。ただただ人類を抹殺するだめにデザインされた、大量破壊兵器・・・・・・その結末は、あまりに劇的だった。
「兄ッ!! 兄ぃ!!」
ペトラのパニックは、とっくに頂点に達していた。
全身の穴という穴から体液を垂れ流し、身悶えながら、こちらに手を伸ばしてくるスライム状の女。救いを求めているのか、それとも俺たち兄妹まで地獄に引き込もうって算段なのか・・・・・・その姿は修羅場をくぐり抜けてきた俺でさえ、正視に耐えない。
力任せに暴れるだけなら、まだ鎮圧の目処も立ったろう。だがこうも周到に計画された二段構えの作戦に、どうやったら対抗できる?
この女だけじゃない。なにせフード・プリンターは世界的なヒット商品だ。地球のすみずみにいたるまで、反撃の機会を窺っていた生き残りの大部分もまた、この目に見えない怪物に食い殺されていったに違いない。
とっくにOLは事切れていた。液状化した残骸だけが、眼下の
そう、残ったのは俺たち兄妹だけ。散布をおえた何百という赤い瞳が、一斉にこちらへ向けられてきた。必死に悲鳴を噛み殺しているペトラを庇いつつ、こうなったらと一か八かの賭けに出るしかない。
「えっ?」
ライフルを背中にまわし、空いた両手で妹を抱き抱えてそのまま、柵を乗り越える。
決死のダイブ。泥とヘドロにまみれた、このビルきっての浸水地帯。化学物質にまみれたそんなため池めがけて、自由落下を決めていく。
衝撃。装備の重さも手伝い、まるで底なし沼にひきずり込まれるような感覚を覚える。
兄妹そろって水底へ。全身を取り巻いてくる透明度ゼロの汚水、そいつが頭上から差し込んでくる光を徐々に薄れさせていくさまを俺は、為す術もなく見守っていた。そして――それから2年の歳月が流れた。
††††††
【第2部】
俺はいつからここに居る?
水底はどこまでも凪いでいて、あっさり時間の概念というやつを奪い去ってきた。ほんの数分たらず? 何時間もか? まさか年単位って可能性すらも捨てきれない。
ちょっと水に沈むだけで百年ものの古代神殿って風格を持つのだから、奇妙なものだな。苔むしたカーペット。ここが単なる商業ビルであった名残りを踏んづけながら、ひたすら目的地めざして歩を進める。とんだ海中散歩だったが、狭くるしい水没区画を通り抜けるには、中途半端に泳げても邪魔なだけだ。
聞こえてくるのは、ヒャクメのなかでくぐもる己の息遣いのみ。
ビニール袋に包んだガリルACEだけでも軽く4kg越え。そこへ前後に挟まれた抗弾プレートが2kgずつ、フル装弾されたマガジンだって馬鹿にできない重さだし、背中には戦利品を持ち帰るため40Lのバックパックまで背負っている。すでに重さは十分だからウェイトいらず。月面よろしくはね飛びながら、目印かわりのロープをたどる。
このロープは、かつてダイビングを趣味にしていた男が残したものだった。そいつはビルから脱出するためのルートを探してくるとふたたび潜り、そして二度と帰ってこなかった・・・・・・。
脱出できたから戻って来ないんだと、避難民の中には、したり顔で語るやつもいる。だがあいにくそんな儚い希望を抱くには、俺たちはあまりに多くのものを失いすぎていた。この2年ずっと戦い続けてきた。そして、その全てに敗北を期していたのである。
ロープが途切れ、つま先が壁にぶつかる。これにて終点。折り曲げたケムライトをかざし、手探りで以前かけておいたハシゴを探り当てる。
ぬめる汚水を跳ねのけながら、一段、また一段と慎重に段差に足をかけていく。そのたびに天から降り注いでくるLED光が強まって、水面から顔をだした途端、ずっしりと水を吸った布地が鉛のように重くのしかかってきた。
現在時刻は
片手で構えたM&Pでさっと上陸地点こと廊下をチェック。それからコンクリ製の絶壁を登りきり、一息つく。
「・・・・・・くそっ」
またこれだ。己がデジタルデータであることをすっかり忘れて、記憶の世界に取り込まれていた。
ここに至るまでの2年間の記憶がいっきに蘇り、あまりの情報量に溺れそうだ。マリオロイドの反乱、ウィルスの散布。俺とペトラはビルの最下層にある車両基地へとどうにか逃げ延び、それから他の生存者たちとともに避難生活をはじめた。
外の状況はあいかわらず謎に包まれていた。もともと死に体だった旧型ネットはいうにおよばず、アマチュア無線なんてレアものを持ち込んださる頑固ジジイのおかげで、どうにか断片的なラジオ放送だけは受信できてるのが現状だった。
電波の気まぐれのせいで、どんなにチューニングを合わせてみても聞こえるのは、はるか北米から陰謀論をたれ流す、かつてなら狂人の戯言と一蹴されていたに違いないシロモノのみ。いわゆる海賊放送ってやつで、それだけが俺たちと外界との唯一の繋がりだった。
その自称サバイバリストの王にいわく、ゼロデイ・クライシスなる人形の反乱劇は、奴らの圧倒的な勝利で終わったらしい。このゼロデイうんぬんもそうだし、例の生物兵器を指してデイワン・ウィルスって呼称するのも、すべてこの男からの入れ知恵だった。
人類が生き残れるかどうかって瀬戸際なんだ。ファクトチェックなんて夢のまた夢、奴の主張を疑おうにも他に情報源がない。その放送すらも半年前に途絶え、俺たちはますます孤立感を深めていた。
衣食住すべてが揃って、はじめて人間は生きていける。最初は219人、気づけば71人にまで目減りしていた生存者たちが調達班なるチームを組織し、こうして物資探索に送り出すようになったのも、自然の成り行きといえるだろう。
「よせ、よせ、よせ・・・・・・駄目だ、あっちに飲み込まれるんじゃない!!」
後続の仲間のために、安全を確保しなければ。そういう自分がまだ生きていた頃の常識が、容赦なく意識を蝕んでくる。
「これは罠だ・・・・・・奴らに騙されるな」
この数年でずいぶん埃が積もったろう、どうりで車内があんなに薄汚れてたわけだな。世はまさにアポカリプス。犯罪現場を片付ける、そんな悠長なことやれるはずもなく、いまもまだ例の輸送用車両は、駅構内に放置されたままの筈だった。
これから俺はあの車両へと舞い戻り、そこで反旗を翻したマリオロイド・・・・・・すなわち、あの薄紅色の髪をした人形にくびり殺されるのだ。
他に可能性があるか? 奴の正体は3つ並びの第3世代のうちの1体。2年ぶりに起動した、殺人願望持ちの眠り姫であるに違いないんだ。そういった推測はいくらでも立つのに、このくそったれの記憶ときたら、肝心な部分がまだ霞がかってやがる。
これから何が起こる? 俺は、いや俺たちはどうなる? どうして殺した相手にああも親身になってマリアは、いや奴は助けようとしたんだ?
そもそも、メモリアうんぬんって奴の戯言が真実である保証はどこにもない。現実の俺はまだ生きていて、意識だけがここに囚われているのかもしれない。そうだ世界の破壊者の言い分なんて、信じられるものか。
あー、待て、頼むから、待ってくれ・・・・・・違う、違う、違う!! この世界は偽物だ!! こうしてる間にも、ペトラはたった独りで俺の帰りを待ってるんだぞ!! どうにかして反撃の糸口を探せ。この2年、ずっとそうしてきたろう? あの忌々しい人形どもをぶち殺し、物資を持ち帰って、いつの日か地上へと戻る。その希望だけを胸に俺は、いや俺たちは――あっ?
「あの、大丈夫っすか? ラセルさ・・・・・・じゃなくて、教官」
気がつくと、ゴテゴテ小がらな身体を装備で着飾った、全身水浸し状態のソフィアが、心配そうにこちらを見上げていた。ああ、そうだ。そうだったな――俺たちは調達任務の最中だったな。
何をゆったりしてんだか。こいつらの“教官”として、キチンと範を示してやらないと。
「・・・・・・なんて教えた?」
「へ? あっ!! じょ、上陸したらまず“コウゾク”の味方のために周辺警戒すべし・・・・・・だったすよね?」
「それも間違いじゃないがな」
ツーっと、微妙に俺の太ももに向いていたソフィアのM4カービンの銃口を横に逸らす。
「撃ちたくない相手には絶対に銃口を向けるな、だ」
「う、うっす!! すみません・・・・・・」
また基礎からやり直しだな。やれやれ、これが現状のベストメンバーとは。腕利き連中とスラムを練り歩いていた時代が懐かしい。
出会ってはや2年。成長どころかコイツの後輩気質は、ますます強まってるような気がする。
どうせ水を吸うのだからと、へそだしルックのタンクトップにカットアウト・ジーンズ。本人の活動的なイメージもあいまり、窮屈そうな修道服よりよほど似合っていた。頭巾なんてもう被っちゃいないが、それでも銀のロザリオだけは頑なに手放そうとしない。修道女時代の名残りといえば、もはやそれぐらいだ。
ジャンク屋のオヤジから元外科医にいたるまで、生存者のスキルは様々だったが、さすがに元特殊部隊員ってキャリアの持ち主はそうざらには居ない。だから自然と、教官なんて役職につく羽目になった。
ガンマニアの私室を片っ端から家探ししたおかげで、装備の面ではかなり恵まれてる方だろう。それでも実弾訓練をやらかす訳にもいかず、CQBの基礎こそ叩き込んだがそれこそ形だけ。修道院育ちのソフィアは、なんでもこれまで鉄砲を見たことすらなかったらしい。
ビニール袋を破ってガリルACEをとり出し、薬室をチェック。ついで気の利いたデザイナーが搭載したイジェクト・ボタンを押して、ヒャクメを半脱ぎモードにする。これでやっと酸素ボンベのプラグを外すことができる。
水密ビルにはこういった非常用の酸素ボンベが、消化器の要領であちこちに備えつけられていた。レスキューが来るまでの時間稼ぎ用、容量が豊富なのはいいが、持ち運びなんてまるで想定されてないオールスチール製なのはいただけないな。
ここに来るまでまるまる1本をカラにした。帰りは別ルートを使う予定だが、手筈どおりバックパックに詰め込んでおいた予備のボンベ3本を廊下のすみに隠しておく。おかげで肩は瀕死状態、それでも調達班の誰もが体格に恵まれてるわけじゃないからな。誰かが輸送役を買って出るしかない。
「年下の女の子をイジメて、ずいぶんご満悦そうですね、お前」
ソフィアにつづいてハシゴを登りきったのは、めっぽう舌の鋭い青髪女。
ずっと解せなかったことがある。ローンウルフ、あの末期の厨二病患者どもがああもテクニカルな窃盗を成し遂げられたのは、なぜなのか? 蓋を開けてみればなんのことはない。リーダーが有能なら、残りが阿呆でもどうにかなる。
クリスタル・ブルーに染め上げられたショートヘア。歳はおそらく、アレハンドロと同じく10代。だが知性を帯びた見た目のおかげで、20代前半でもじゅうぶんに通用しそうだった。俺が調達班の右腕だとすると、このチビた巨乳女は左腕。その有能ぶりは、どうにか水捌けのいい服を皆が血眼になって探すなか、しれっとダイビングスーツなんて着こなしてる辺りにすでに現れている。
右は茶色で、左は髪より薄めのブルーって虹彩異色症。それを隠すためだろう、真水のボトルで髪をさっと洗ってから、すぐさまその女――ピグは、トレードマークのつるなしサングラスを鼻に掛けていった。
「お前、お前ってな・・・・・・前々から思ってたが、人の名前を呼べない病気でも患ってるのか? “お前”」
「それギャグのつもりなら、良いとこ30点ってところですかね――お前」
なまじ実力があるせいで、ますます言い返せない。他のローンウルフの面々に先駆けて調達班へと加わったこのチビ巨乳は、幾度となくそのカンの良さでチームを救ってきたのだ。
上陸したらまず銃を取り出し、安全確保。乾いたタオルで顔を拭ったら、お次はお化粧タイムだ。
CVダズル。
もとはAIの顔認識を誤魔化すためにハッカーが考案したテクニックだそうで、この幾何学模様のピエロメイクをちょっと顔に塗りたくるだけで、ほんの数秒足らずではあるが、人形の認識能力をわずかに
最初、ペトラは俺が帰ってくるたびに“みんな無事?”と尋ねていたのに、いつからか“兄は大丈夫?”に変わっていった。CVダズルに、この人形に見つからずに済む水中ルート。こういったノウハウは、どれも数多の犠牲のうえに成り立ったものだった。
一度の調達で最低でも1人が死ぬ。酷いときなど二桁の死者を出し、ほうほうの体で逃げ帰ったことすらある。知識は宝だ。あの犠牲があったからこそ、こうして奴らとそれなり以上にやり合えるようになっていた。
俺のメットにはペトラ監修のもと、すでにCVダズルに相当するドットが描き込んであった。だからメイク用具に煩わされたりしないが、普段から化粧気のないソフィアはまた別の話。指をドーランまみれにしてあたふた。一方のピグときたらすでに支度を終えて、愛用のP90サブマシンガン片手にとっとと警戒体制に移行中。これだからこの女は怖い。
「ちょっと・・・・・・だねぇ。誰か手伝ってくれると、おじさん嬉しいんだけどねぇ」
今度はあんたか。背負った予備の酸素ボンベにいまにも押しつぶされそうなダ・シルバ巡査部長あらため、我らが調達班のリーダーさまのご要望どおり、ハシゴから引っ張り上げてやる。
この人が生き残っていたのは、なんというか驚くには値しないだろう。いかにも世渡り上手ってタイプだからな。
「いやー、五十路のやる仕事じゃないね、こりゃ」
「まだ十分にお若いですよ。ハシゴからすぐに上がらなかったのは、背中の荷物が原因? それとも青い髪した女豹のせいですか?」
「・・・・・・あの子、ちょっと怖くない?」
「一応はリーダーでしょう。なに小娘相手にビクついてるんですか」
「君が押しつけたんだろうに!!」
「偉ぶれるのは魅力ですが、責任を取るのはまっぴら御免なんで」
「それは私の人生哲学だ!! まったく最近の若い奴らときたらもう」
薬に食料、銃に弾薬、それから衣服や工具といった日用品がつづき、余裕があるならトランプなんかの娯楽品もかき集めてくる。調達班とは呼んで字のごとく、物資を調達してくる班のことで、そのリスクはまさに折り紙付きだった。
なにせ、わざわざ危険地帯に出向いて、こっちを殺そうと息巻いてる人形どもに挑むんだ。目を覆いたくなる犠牲の数々。それでも士気が崩壊してないのは、なんやかんやとこのおっさんの功績であるに違いない。なにせこの人を見てると、悩むのが馬鹿らしくなってくるからな。
俺は上に立つタイプじゃない。
そんな俺たちを巡査部長がまあまあと取りなし、実務面を自分に代わって取り仕切らせる。リーダーシップがなくとも有能なリーダーにはなれる、その生き見本がこの人なんだと、俺は勝手に信じていた。
「そういえばこの近くなんだよね、君の自宅って」
このため池のずっと上方。そこにある我が家には、もう2年も足を踏み入れていない。
「なにか持ってくかね?」
「いえ・・・・・・未練はとうに捨てましたよ」
ただアールがあれからどうなったかは、少し気になりはする。おそらくは首なし状態のまま、いまもビルのどこぞを彷徨っているのだろう。あんな出来事のあとでも、哀れに感じはする。
「巡査部長こそどうです?」
「ん?」
「ご自宅から回収したいものは?」
しばし真剣に考え込んでいく、隊長というよりかは、やはり巡査部長って呼び名がしっくりくる不良中年。
「バス釣り大会のトロフィーかな」
「・・・・・・優勝でもしたんですか?」
「まさか、ただの参加賞だとも。釣った魚よりもデカかった」
こんなご時世でも笑みが溢れる。こういう所が、この人がリーダーでも一向に不満が出てこない所以なんだろうな。
現在の調達班のメンバー構成は以下のとおり。巡査部長を頂点に、俺とピグが両脇を固め、そこにソフィアと残るローンウルフの面々、ポドフスキー、チュイ、アレハンドロが名を連ねる。わずか総勢7名の小所帯だ。
「手伝ってやろうか、アレハンドロくん?」
「その呼び方・・・・・・いい加減にやめてくださいよ、教官」
何というか、丸くなったな。過酷すぎる2年間が、少年をなかば無理やり大人に成長させたとみえる。今じゃ、調達班きっての優等生だ。手際はそこそこだが、とにかく真面目に身支度を整えていくアレハンドロ。どれもが俺が教えた通りのやり方だった。
「命の恩人につれないな」
「青少年をため池に突き落とす行為を、助けるって呼ぶんですかねぇ」
だが事実だ。水中に隠れられたからこそ人形に襲われることもなく、つづくウィルス攻撃だって躱すことができた。
しかし平均年齢が下がったものだな。当初、調達班に志願するための最低条件は、成人を迎えていることだった。それがいまや、かろうじて20代って俺が年寄り扱いされてる始末。
まるで修学旅行にでも繰り出すような面々。ただし誰もがプレキャリを羽織り、その手には銃を携えていたが。
「それよか教官、ほらスマホ」
「ああ」
ジップロックに包まれたスマホを受けとり、空のマガジンパウチへと差し込む。
紙とチップだけの格安クラウドフォンが出回ったせいで、こういう昔ながらのタイプはもう滅多に見つからない。念のため巻きつけた電波遮断用のアルミホイルをずらすと、なるほど、ちゃんと充電率100%になってる旨が確認できた。
「変わったな。こういう地味な機材管理、昔は大嫌いだったろ?」
「自分のせいで誰かが死ぬかもしれないってのに、いつまでもガキのままで居られるかよ」
弟ってのは、こんな感じなのかね。当人は絶対に嫌がるだろうが、だからこそ頭を撫でてやりたくなる、そんな可愛げのなさだった。
手元の腕時計にいわく、そろそろ移動しなきゃまずい。耐水手帳にしたためたこれまでの偵察の成果、人形どもの行動スケジュールを改めてチェック。とっくに頭に入ってはいるが、一応な。
人間と違って、マリオロイドはトラムなんか利用しない。それでも奴らはどうしてか、人が大勢集まるところに群れる兆候があった。だからラッシュアワーの時刻が近づくと、急速に駅近辺に暴走人形が集いだす。それまでに到着したいところだ。
「移動する」
会話はここまで、これからはみな無言だ。ほんのひと声あげるだけで、人形の鋭敏すぎる聴覚センサーに見つかり、計画はおろか自分の命すら危うくなる。駅までのルート開拓に3ヶ月、見方によってはこの中層に進出するために丸2年も費やした。もはやミスは許されない。
ほとほと思う、もはやこの世はマリオロイドの物なのだと。
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