わたしたちの夏らしさを終えて

もり ひろ

わたしたちの夏らしさを終えて

 竜二から連絡があったのは今朝のことで、昼過ぎには着くと言っていたのに時刻は午後の二時をまわった。彼が時間を守れないのは、今日に始まったことではない。わたしたちがまだ、恋人という肩書でくくられていた頃にはすでにそういう人だった。わたしも特段、時間を気にするタイプの人間ではないので、彼がデートに遅れて来ようとも怒ることはなかった。待ち合わせ場所が見えるカフェで彼を待ちながら、人の流れを眺めている時間も嫌いじゃなかったなあ、と思い返す。

 同い年の彼と同棲を始めたのは、わたしたちが二十二歳の頃。あれから八年を経て、わたしたちは肩書を捨てた。先月のことだ。

 同棲したての頃は、まわりが「結婚」というワードを意識していたのも気付いている。彼の両親は露骨で、何かにつけてわたしの両親と顔を合わせたがった。あの手この手で両家の面会を避けているうちに、義母の要求は落ち着いていき、周囲に囁かれる「結婚」というワードも減少していったように感じる。

 先月、彼が出て行って以来、特に彼の荷物を片づけることもなかった。彼の置いていったショートホープの箱には、彼が手を付けなかった六本がまだ入っている。わたしは彼と別れてから禁煙し始めたので、強い誘惑だった。久しぶりに、と思って手を伸ばしたところでキッチンに面した玄関が開き、彼が帰宅した時と変わらぬ所作で入って来た。

「わりい、合鍵持ったままだったわ」

「いいよ、帰りに置いておいて」

 彼は、忘れないうちにと言いながら、キーホルダーから外した合鍵を調理台に置いた。金属同士が冷たい音を立てる。無機質な響きが耳触りだった。

「けっこう道が混んでて疲れたし、一服しようぜ」

「わたし禁煙中だし、先に始めてるね」

「手伝ってくれんの?」

「誰かさん、遅刻してくるから間に合わないと思ってね」

 サンキュ、と短く言って、彼は再び玄関の外へ消えていった。


   ◇


 荷造りはあっという間に終わった。五時をまわったって、夏の日はまだ長い。早とちりなヒグラシが遠くで一人の叫びを響かせるも、この時間の喧騒では途切れ途切れにしか聞こえない。

 彼だけが出て行くというのに、なんだか二人で引っ越しをしているようだった。初めて同棲をしたアパートから、今のメゾネットに引っ越したあの日を髣髴とさせる。

 まわりから見れば、わたしたちの関係は終わってなどいないように見えるだろう。でも、いくらそう見えたって、気持ちがそこになければ関係は破綻している。気持ちが繋がらなくなってからは、身体が繋がることもなかった。手を繋ぐことも、唇を併せることも、身体を重ねることもなくなったのはいつ頃だったかな。

 今日みたいに暑い日だって、冷房が壊れて暑苦しい部屋でお互いを求めていた時期もあった。まだ青かった。汗だくな身体を彼の舌が這うと、なんだか恥ずかしかった。その次の年の夏は冷房も直っていた。涼しい風に渦巻いた煙を思い出す。暑くて外でタバコを吸うなんてできないねって笑っていて、それはそれで、わたしたちにとっての『夏らしさ』になっていたんだ。

「自販機、行こうぜ」

 ふいに彼が言う。

 二人でいつも行く自販機は、近所のスーパーの駐車場にあって、そこには喫煙所もある。

 彼からの提案に込み上げてきた懐かしさに負けて、わたしもショートホープの箱を持って彼に続いて歩いた。

 自宅から自販機までは西日に向かって歩く。五時を回っても明るくたって、日中のそれとは違う日差しは目に優しくない。眩しくて、彼の後ろに隠れるように歩くと、思いのほか近付き過ぎたようで、いつかの記憶が思い起こされる。

「いつも俺の後ろに隠れるよな」

「だって、ちょうどいいんだもん」

 彼もいつかの記憶を辿っていたようで、彼の手がわたしに触れようとしてくる。じめっとした熱を感じて、距離を取る。距離を取ると、吸い寄せられたようにじわりと彼が近付く。

 このままでは、わたしもいつかの記憶に飲まれてしまいそうで、駆けだした。自販機はもう、すぐそこだった。


   ◇


 冷房、タバコの煙、西日、気怠さ、ドクターペッパー。もう三〇歳だっていうのに、あの頃みたいな風情が漂う。手を伸ばせば触れられそうな距離で、それぞれが視線を交わらせずにタバコをふかした。

「涼、いつもドクペ飲んでるよな」

 突然、耳に差し込まれた自分の名前に、ハッと息が詰まった。ゆっくりと吐き出して、強く打った脈を落ち着かせる。

「竜くん、やっと名前呼んでくれたね」

 わたしは、仕返しのつもりで彼の名前を口にした。それは、結果として自分の胸を刺す。どうしようもなくて、次の言葉を絞り出した。

「わたしのこと、どう思ってるの?」

 そんな陳腐でしょうもない質問。別に知りたいわけではないし、むしろ知りたくもない。なのに、口から出てしまったものは取り返しがつかない。当たり前だけれど、彼はわたしの質問に答えた。

「俺にもよくわからないんだけど、まだ好きなんだと思う」

 聞いた自分が悪い。されど、そんな答えを出した彼はもっと悪い。

 そんなズルい答え、今さら聞いたって、わたしを呪って、縛るものになるだけなのに。

 わたしたちの関係を破綻させたのは、何が原因だったっけ。大きな喧嘩をしたわけでもないし、どちらかの不貞があったわけでもなかった。二人の日々は穏やかで平坦で、落ち着いていたように思える。

 むしろ、平らでまっすぐ過ぎたのかもしれない。

 二人で何か大きな困難を乗り越えたこともない。真剣に二人で腹を割って、感情をさらけだして話あったこともない。

 地を固めるには、雨が降らなすぎたのだ。

 そうやってお互いの熱が冷めていき、肩書だけの関係性になって、そうして肩書も捨てた。

 なのに、彼はまだ気持ちが残っていて、その言葉に揺らいでいる自分が嫌だ。

 わたしは、前を向いていきたい。彼との平穏で退屈な日々も悪くなかった。けれど、それだけだった。

 わたしは、彼からの呪いを祓うように汚れてもいないズボンを掃い、ベンチから立ち上がった。


   ◇


 もう荷物は彼の車に積み込んであるし、二人で揃って室内へ入る必要もなかった。だけれど、自販機からの帰りのルーティンが染みついて、当たり前のように二人分のサンダルが玄関に散乱する。

「じゃ、気を付けて帰ってね」

「おう、じゃあ、またな」

 そう言葉を交わしたくせに彼は動かないし、わたしも送り出す素振りもしない。久しぶりに会ってしまったことで、お互いのこころに刺さった何かが抜けなくなっている。「未練」なんて言葉で表現される「カエシ」が引っ掛かっているのだ。

 ずっと合わせないようにしていた目が、合った。

 彼の目はまっすぐわたしの両目を見ていて、逸らしたいのに逸らせない。

「なあ、涼」

「なに」

 彼がわたしの肩に手をかけ、そのまま壁に押し付けられた。身体が密着させられる。耳を彼の熱い吐息が何度も何度も撫でる。湿り気と汗の臭いが脳に届く。

「ダメ、かな」

 彼が強い目でこちらを見、そして目をゆっくり閉じながら迫って来た。彼の唇とわたしの唇がそのまま触れてしまう。それを受け入れてしまいそうになる自分をこころの中で罵倒しながら顔をそむけた。

「久しぶりに、ダメかな」

「ダメ」

「俺、もう我慢できねえよ」

 彼はわたしに呪いをかけたんだ。今度はわたしが彼に呪いをかける番。その呪いを抱えて生きて欲しい。勝手に誰かと幸せになってくれたってかまわない。だけど、その幸せの中で、時々、呪いにに苛まれればいい。それがわたしにできる精一杯の仕返し。

「抱いた女は忘れても、抱けなかった女なら忘れられないでしょ?」

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