第4話 ソフィア
赤のミニクーパーが別荘のガレージの前に停まると、中から小柄な女性が降りてきた。
小麦色の肌に黒い瞳と黒髪、鼻筋が通っており眉は太い。Tシャツとジーンズのラフなファッションが、しなやかな肢体を包んでいる。美しい女性だが、記憶に留まる印象は何故か薄かった。
彼女は二十九人兄妹の末妹だった。
「お久しぶり。タツヤ兄さん」
「待っていたよ。ソフィア」
タツヤはミニクーパーのルーフラックからトランクを降ろすと、ソフィアを別荘の中に案内した。客用寝室にトランクを運び入れると、ソフィアが耐えかねたように抱き着いて来る。
「会いたかったわ。タツヤ」
「俺もだよ。ソフィア」
Tシャツ越しに、ソフィアの小振りだが弾力のある胸がタツヤの腹筋に押し当てられている。タツヤはソフィアの頭を優しく撫でた。
「もう、いつまでの子供扱いして」
ソフィアが少し拗ねたような口調でタツヤを引き離した。
「お茶を入れてあげる」
そう言って無邪気な笑顔を向けるソフィアが愛しかった。
ソフィアはスミス夫妻が養子にした最後の子供だ。
フィリピンで生まれ、マニラでストリートチルドレンとして生きていた子供を、スミス夫妻が引き取ったのだ。
タツヤが七歳の時に五歳のソフィアが僧院にやってきた。兄姉ばかりだったタツヤにとって初めての妹だ。
急な環境の変化に怯え僧院の隅で膝を抱えているソフィアに、タツヤは何やかやと世話を焼いたものだった。
ソフィアにも両親の記憶が無かった。
娼婦だった母親は生まれたばかりのソフィアを祖母に預けたまま行方不明となり、父親はそもそも誰かも分からなかった。
やがて、貧困の中で祖母が無くなると、ソフィアはスラム街の中でゴミを拾いながら生きていた。教会のボランティアがソフィアを発見した時、五歳の少女は垢にまみれ、骨と皮だけの状態だったと言う。
そんなソフィアをスミス夫妻が引き取って来たのだ。
やがて、僧院の生活に慣れたソフィアは、刷り込みをされたひな鳥のようにタツヤの後を付いて回った。
それはタツヤにとって、守らなくてはならないものが出来た初めての経験だった。
お湯を沸かし、茶器を温め、茶葉をジャンピングさせる。丁寧に茶葉を漉し、洗練された手技でソフィアが紅茶を用意する。
「さすがだね。ソフィアの淹れる紅茶は絶品だよ」
「だって本職だもの」
ソフィアは僧院を巣立った後フィリピンに戻り、専門学校に入ってメイドの国家資格を取った。
フィリピンでは、国家資格を持つ技量の高いメイドが世界各国に派遣され、それは一つの産業になっていた。ソフィアもそんなメイドの一人となったのだ。
勿論、それはスミス家の家業に関係していた。世界各国の重要人物の邸宅に潜り込み、家業に必要となる情報を収集するのがソフィアの役割だった。
この二年ほどは、中国丹東市にある新興財閥の女主人に雇われ、メイド兼秘書として働いている。
その新興財閥は中朝貿易で成り上がった財閥で、北朝鮮に太いパイプを持っていた。スミス家にとって、北朝鮮は重要なターゲットのひとつだ。
独裁国家である北朝鮮では、国民は洗脳され、情報は完全に統制されており、通常のスパイ活動が全く出来なかった。
女主人に付き添って平壌と丹東を行き来することもあるソフィアは、タツヤたちにとって重要な情報源となっていた。
「ソフィア、疲れているだろう。今日はゆっくりして、仕事は明日から取り掛かろう」
「そうね。たまには兄さんとイチャイチャするご褒美を貰わなくっちゃね。今日は私が飛び切りの夕食を作ってあげるわ」
そう言って、ソフィアは茶器をカウンターキッチンに片付けると、奥にある大型冷蔵庫の扉を開けた。
「兄さん、これはどういう事? お酒しか入ってないじゃない」
「ああ、食器戸棚に保存食が、、、」
「ちゃんと栄養を考えて食事しなきゃダメって、いつも言ってるわよネ」
「ソフィア、、、最近の保存食はけっこう栄養も味もしっかりしててね、、、」
リビングに戻って来たソフィアはタツヤの前に仁王立ちになった。
「もう、これだから兄さんは。これから一週間は私がしっかりと栄養管理するわ。ちょっと麓まで買出しに行ってくるから、兄さんは大人しく待ってなさい」
「いや、、、どうもありがとう、、、」
しどろもどろになるタツヤを残し、ソフィアを載せた赤いミニクーパーは、登って来たばかりの林道を麓の大型スーパーマーケットに向けて降りて行った。
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