第3話 記憶

 都心から車を飛ばして一時間、まだ暗いうちに山中湖の別荘に到着したタツヤは、軽くシャワーを浴びると仮眠をとった。

 数時間後に目覚めると日は既に高く昇っており、タツヤは冷凍のロールパンを温め、粉末のコーンスープで軽いブランチを取った。

 ヘッジファンドの代表から暗殺者へと変身する。それはタツヤにとって時差ボケを解消するような行為だった。

 別荘は二十畳のリビングダイニングと寝室が二カ所、温泉を引いたジャグジーが広いバルコニーに設置されている。

 リビングの窓からは山中湖越しに富士山を一望でき、傾斜地に立てられた別荘の周辺には森が拡がり人家は無い。

 日本に戻って来た二年前に購入し、それ以降、本業の拠点とするために手を加え続けている。

 今日は、この拠点に人がやってくる。

 タツヤは締め切っていた窓を解放し、カビっぽい空気を追い出すと室内の掃除を始めた。

 ふと目を外に向けると、真っ青な空に雄大な富士山が聳え立っている。その風景は幼かった頃の記憶を思い起こさせた。

 勿論、タツヤにある記憶は五歳以降のものだ。

 タツヤを引き取ったスミス夫妻は、タツヤを連れてネパールに向かった。

 ネパールにはスミス夫妻のセーフハウスとなっている僧院があり、そこに住むチベッド密教僧にタツヤを預けるためだ。

 その僧院は、スミス夫妻の養子たちを暗殺者に仕立て上げるための訓練施設でもあった。

 その僧院の窓からは、青い空に聳え立つヒマラヤ山脈が見えた。富士山を見てタツヤはその頃の記憶を思い出したのだ。

 僧院には出身も年齢も違う子供たちが十人程で暮らしていた。

 スミス夫妻の養子は二十九人居る。タツヤは二十九人兄妹の末弟だった。年齢の高い兄姉たちは既に僧院を離れていたが、僧院には五歳から十五歳までの子供たちが残っていた。

 それはタツヤが短期間暮らしていた児童保護施設と変わらない環境だったが、家族の記憶の無いタツヤは、それが家族というものだと長い間思い込んでいた。

 スミス夫妻は世界各国を飛び回っており、子供たちの面倒は僧院に住むチベッド密教僧が見ていた。

 白髪で白い髭を生やしたその僧侶が、タツヤにとっての祖父のようなものだ。

「呼吸が大事なんじゃ」

 それがアルジュンの口癖だった。タツヤたちの面倒を見ていたチベッド密教僧の名前はアルジュンだった。

 僧院で暮らしていた頃、アルジュンがタツヤたちに教え込んだものは、暗殺術では無く特殊な呼吸法だった。

 その呼吸法はアルジュンが独自に編み出したものだった。

 ヨガや気功の鍛錬をし、ひたすら呼吸法を身に着けていく。

 それが子供たちの日常だった。

 細く長く呼吸を繰り返すと、腹の奥底に熱い塊が生まれてくる。

 その熱い塊は気だ。

 更に深く緩やかに呼吸を繰り返す。

 やがて、熱い塊が体内を回り始める。

 更に呼吸を繰り返すと、気が体内を駆け巡り脈拍が乱れ始めるが、それを呼吸で押さえつける。

 やがて、意識と無意識の境界が曖昧になり、時間と空間についての知覚が無限に広がるように感じる。

 タツヤは、そんな訓練を繰り返していた。

 その呼吸法は集中力を高めるためのものだった。

 呼吸法を習得するにつれ、十五分、四十五分、九十分、二時間と集中力の持続時間が伸びていった。

 人間の集中力の限界は九十分とされるが、五歳から十五歳までの十年間に渡ってアルジュンから呼吸法の訓練を受け続け、今では、タツヤは七十二時間まで集中力を持続できるようになっていた。

 その超人的な集中力こそが、現在のタツヤを作っている。

 暗殺技術も、ヘッジファンドを運営するための知識も、十五歳で僧院を離れた後に身に着けたものだ。超人的な集中力によって、普通の人間ならば長期間を掛けて習得するものを、タツヤは短期間のうちに習得出来てしまうのだ。

 アルジュンはタツヤたちに良く語っていた。

「精神と肉体はコインの裏表のようなもの。一体のものであると同時に別のものでもあるんじゃ。呼吸法は、そのコインを薄く引き伸ばした上で、メビウスの輪のように繋ぎ直すようなものじゃ。そうすることで精神と肉体が真に合一し、人間が本来持つ完全な能力を引き出すことが出来るのじゃ」

 子供の頃のタツヤにとって、アルジュンの言葉は理解出来るものでは無かったが、僧院を出て十五年が経ち、様々な修羅場を潜り抜けてみて、タツヤは経験としてアルジュンの言葉を理解出来るようになっていた。

「呼吸が大事か」

 タツヤは久しく会っていないアルジュンの事を思い出していた。

 掃除の手を休めていたタツヤの耳に、近づいて来る車のエンジン音が聞こえてきた。バルコニーから見下ろすと、林道を赤いミニクーパーが登ってくる。

 待ち人が漸くやって来たようだ。

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