第2話 ヘッジファンド
六本木、高層オフィスビル。
深夜を回っても、東京、ニューヨーク、ロンドンを繋ぐリモート会議は続いていた。
「マイク、アストラ社は敵対的買収で行け。時間を掛けてる余裕はない」
「ボス、アシド王子が一枚噛ませろと煩く言って来てるんですが」
「第三王子か。あそこのお家騒動は終わったのか?」
「いや、真っ最中ですよ。まだまだ軍資金が必要みたいです」
「オイルマネーに恩を売っておくことは必要だからな。ポジションの一割までは認めよう。俺が確認しておくことはこれだけか?」
「ボスはまた旅に出るんですか?」
「ああ、フィールドワークだと言ってくれ。美味しい仕事を土産に持って帰ってくるよ」
「ボス、お帰りはいつになりますか?」
「三か月後、次の四半期報告会でまた会おう」
「お気をつけて、タツヤ」
「ありがとう、アン」
「いい旅を、ボス」
「ああ、お休みマイク」
タツヤはパソコンの電源を切るとデスクチェアで大きく伸びをした。
タツヤが二十五歳で「文殊キャピタル」を立ち上げて五年。世界各地を転々と渡り歩いていたが、この二年ほどは東京に拠点を設けている。
文殊キャピタルは、業界内ではアグレッシブな投資スタイルで知られるヘッジファンドだ。
独自のコネクションで怪しげな情報にビットするスタイルは、行儀の良い投資家からは敬遠されるが、自己資金を投入し投資家とセイムボートでリスクを取り高い収益率を維持していることから、一部の訳アリの投資家たちからは絶大な信用を得ている。
そして、それらの怪しげな投資家たちとのコネクションが新たな収益機会を生み出し続けている。
タツヤが極東の斜陽の国に拠点を構えている理由は、スパイ天国であるこの国には、各国のアンダーグラウンドな情報が飛び交っているからだった。
色々な意味で情報はタツヤにとって生命線だった。情報を糧にタツヤのファンドは成功していたが、この仕事はタツヤの本業では無かった。
タツヤは冷めた珈琲を飲み干すと、紙コップを握り潰してゴミ箱に投げ入れる。
オフィスの窓にはタツヤの姿が写っていた。ポロシャツとチノパン姿の細身の長身、ちょっと癖のある黒い髪、色白で中性的な容姿は印象が薄く、いざという時にタツヤが纏うオーラの凄まじさを知る人は少ない。
電気を消すと東京の夜景が輝いて見えた。
深夜を回っても灯のついているオフィスビルが多い。無駄な残業だと知りつつ真夜中まで働いている者も多いのだろう。
ブラック労働と自らを揶揄しつつも、それを変えようとはせず、しがみ付いて離れない。
諦念というぬるま湯に浸かり切った社会が、この斜陽の国の景色を作り上げているのだ。
実に平和な光景だ。
その平和な日常のなかに無為に漂っていることは幸福だ。
お前達はそのままで良い。
他人が聞けば傲慢とも思える考え方だったが、それがタツヤという人間なのだ。
そして、そのぬるま湯に浸りきった平和を守ることが、タツヤにとっての使命だった。
オフィスを後にしたタツヤは、地下駐車場から愛車を引き出すと、そのまま首都高に乗り入れた。
ベントレー・ミュルザンヌ、六千七百五十ccのエンジンが深夜の首都高に咆哮をあげる。
環境に優しくなく、狭い日本の道路には似つかわしく無い傍若無人な車だ。
その傍若無人な車を御していく時間が、タツヤの日常を塗り替え上書きしていった。それはタツヤにとって必要な儀式だった。
カーステレオからショパンの「革命のエチュード」が流れる。激しい左手の動きが紡ぎ出す旋律が、不完全な世界に対するタツヤの苛立ちと共鳴する。
車は東名高速に入り御殿場に向けて疾走する。
向かう先は山中湖畔にあるタツヤの別荘だ。その場所がタツヤの本業を行うための拠点となっていた。
国連暗殺機関、数十年前に設立された組織の記録は抹消され、今では国連職員にも知るものは居ない。
核の発射ボタンに手を掛けた国家指導者を秘密裏に暗殺する。
その仕事をタツヤは家業として受け継いでいた。
タツヤには五歳までの記憶が無かった。
家族三人で出掛けた旅行先で交通事故に巻き込まれ、タツヤだけが生き残った。意識が回復した時にはそれまでの記憶が失われていた。亡くなった両親のことも覚えていない。それ故に悲しいという感情も湧いてこなかった。
タツヤの面倒を見てくれる係累も無く、児童保護施設に保護されていたタツヤを引き取ったのは、スミス夫妻と言う老夫婦だった。
そのスミス夫妻が国連暗殺機関の創設メンバーだったのだ。
夫であるジョン・スミスはCIAの元諜報員、妻であるナターシャ・スミスはKGBの元諜報員だった。
東西冷戦下のベルリンで恋に落ちた二人は、もと居た組織を裏切り逃亡する。その後、彼らはプロの暗殺者となって国連暗殺機関の立ち上げに関与した。
元の組織から追われていたスミス夫妻は、逃亡の足枷となる子供を作らなかった。その代わり、世界各国から養子となる子供を集め育てていた。
そして、暗殺の仕事は家業として養子たちに受け継がれていった。
足枷となることを恐れて実子を作らなかったスミス夫妻のことだ、タツヤたち養子に対して一般的な親子の情愛などは持っていなかっただろう。
スミス夫妻とその養子たちの関係は、家族と言うよりも、ひとつの使命で繋がった共同体、或いは、同じ宿命を背負った部族と言った方が良いかもしれない。
国連暗殺機関はスミス一家の家業となり、形を変え存続していった。国連内の正式組織であったならば、大国の干渉により今頃は存続していなかっただろう。スミス夫妻が自らの身分を隠すために国家の干渉を避け、暗殺を家業としたことで、この使命が受け継がれていくことになったのだ。
それがタツヤの本業だった。
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