1-8 教皇の声  ……エル

 神の光が輝く。


 冬の終わり、光の大聖堂ホワイトチャペルに降り注ぐ陽射しは暖かかったが、しかし空気は暗く、重かった。


 光の大聖堂ホワイトチャペルの礼拝所に、聖女たちの歌声が響く。礼拝には高位聖職者を中心として、政権閣僚、都市の行政官僚、王侯貴族、地元の有力者らが何百と集まっていたが、エルら三人の聖女と合唱隊に続くその歌声はお世辞にもまとまりがあるとは言えなかった。


 聖歌の合唱が終わる。戦乙女たちの会戦の敗北から二日後という切迫した状況下ながら、礼拝は滞りなく進み、教皇による最後の演説を迎えた。


 荘厳なる装飾に彩られた〈神の依り代たる十字架〉のもと、一人の男が壇上に立つ。

 光の大聖堂ホワイトチャペルに白金が光り輝く。神の代理人にのみ与えられる冠、〈教会〉の最高位を示す聖なるローブが、偉大なる信仰の証である〈神の依り代たる十字架〉の前に姿を現す。

 優しげな瞳が、聖堂内を睥睨する。

 齢六十となる老人は、しかし全く衰えていなかった。その姿は、エルが初めて対面した十年前からほとんど変わっていないように見えた。


 静まり返る光の大聖堂ホワイトチャペルに、鼓動が息づく。

「皇帝クリスティーナが率いる帝国軍が侵攻を開始してからというもの、誰もが言いました。信仰生存圏を突破されれば、この戦争は一週間で終わる、〈教会〉は一週間で滅びる、と。現実に、我々はその事態に直面しています」

 教皇の声──優しく落ち着いた声が、聖堂内に響く。

 教皇の一挙手一投足に、全ての視線が注がれる。その視線はどれも俯き、沈んでいる。

「けれども、私はここにいます。私たちはここにいます。我らの神は、ここにいます」

 たった一言だった。静かなその声に、エルは思わず顔を上げた。横にいるシャーロットとソニアは目を輝かせていた。たった一言、その一言で、聖堂内の全ての視線は息を吹き返していた。

「みんな、ここにいます。二百年前、〈東の覇王プレスター・ジョン〉によってもたらされた〈東からの災厄タタール〉を退けたときと同じように、古き伝承と同じように、私たちは故郷を守っています。これからもそれは変わりません」

 〈教会〉の信仰生存圏を巡る決戦──戦乙女たちの会戦──に教会軍は敗れた。両国の雌雄を決する戦い、両国の首脳と主力が居並び、動員兵力も両軍合わせて十万を超える大会戦に〈教会〉は敗北した。しかし、戦争はまだ終わってはないし、日々は今もこうして続いている。

 十年前、雄弁家ながら数ある教皇候補者の一人に過ぎなかった男は、教皇ユーロニモス三世となり、信仰生存圏の戦いで〈帝国〉の先帝を敗死に追い込み、信仰の守護者となった。その事実には不思議な安心感があった。

「我らが故郷を守る人々のために、祈りを。偉大なる務めに殉ずる〈教会七聖女〉に、人々のために戦う最後の騎士に、祈りを」

 最後、人々を激励すると同時に、戦乙女として人々の導き手となった〈教会七聖女〉と、教会軍の元帥として戦乙女たちの会戦の総指揮を執ったアンダース・ロートリンゲンに向け、ユーロニモス教皇は言葉を添えた。ほんの些細な言葉ではあったが、だからこそ言葉は強く印象に残った。


 演説は終わった。決して多くを語らないその言葉は、しかしあらゆる感情に満ち溢れていた。


 言葉が終わると、拍手喝采が湧き起こった。そして静かな高揚を帯びたまま、鐘の音とともに定時礼拝は終了した。


 ユーロニモス教皇の演説は見事としか形容できなかった。エル自身も、感動していた──ただ一言、最後の騎士という言葉以外には。


 最後の騎士──あれが騎士などであるものか──エルは自身の叔父であるアンダース・ロートリンゲンを思い出し、吐き気を催した。しかしエルはユーロニモス教皇に歩み寄り、頭を下げた。

「猊下。アンダース・ロートリンゲン元帥へのご配慮、感謝いたします。どうかこれからもロートリンゲン家が戦い続けられるよう、ご支援をお願いいたします」

「もちろんだよ、エル。ロートリンゲン家は〈教会〉の建国以来、〈教会五大家〉の筆頭として、神と国家、そして人々に忠節と献身を尽くしてきた一門だからね。信頼している」

 最後の騎士は信頼に値する人物ではない──エルは思ったが、言葉を吞み込んだ。恐らく、教皇自身もそれは承知しているはずである。しかし、エルに対してはいつも信頼を口にした。そして元帥の続投を示した。

「負けたとはいえ、主力はまだ健在だ。彼ならば戦線を立て直し、主導権を取り戻すことができるだろう」

 最後の騎士──その表情なき鉄仮面を思い出すたび、エルは悍ましい嫌悪感に震えた。

 戦傷により体中に障害を負った鉄仮面の騎士……。十二年前、実兄であったエルの父親を見捨て、ロートリンゲン家の私設騎士団であった月盾騎士団ムーンシールズを崩壊に追い込んだ唾棄すべき男……。没落してなお家名に縋り続け、ロートリンゲン家を〈教会五大家〉の一角たらしめる不屈の男……。エルの弟のトマスの後見人として、実質的にロートリンゲン家を取り仕切る叔父……。

「トマスくんも元気なようだ。今回の戦いでも、軍を指揮して勇敢に戦ったと聞いているよ。今必要なのは、彼のような勇気ある騎士だ。私も心強く感じている」

 そして、そんな叔父の傀儡として生きることを余儀なくされた弟を思うたび、エルは神を呪った。

 小さな月盾の騎士……。形としては生き別れとなった弟……。両親の顔さえ知らぬまま叔父の傀儡としてロートリンゲン家の行く末を託された家長……。確かに血の繋がった、ほとんど知らない他人……。


 エルは〈教会五大家〉の筆頭貴族であるロートリンゲン家に生まれた。十二年前、エルが四歳のとき、権勢を誇っていたロートリンゲン家は突如その地位から転がり落ちた。冬、父と祖父は軍を率いて〈帝国〉との戦争に赴き、そして帰らなかった。その年の春に弟は生まれた。母はトマスを産んで死んだ。

 あらゆる人々から敗北の責任を押しつけられ、残る親類縁者たちが右往左往する中、叔父のアンダースが帰還した。開戦初期のその戦役をただ独り生き残った叔父は、のちにユーロニモス三世となる男を通じて一族のために〈教会七聖女〉になるようエルに言った。

 エルは家族と離れたくなどなかった。しかし幼いエルに選択権などなく、事は勝手に進み、気付けばエルは〈教会七聖女〉の第四席となっていた。

 孤児院出身者が列席されるという慣例を破り、エルは貴族出身者として初めて〈教会七聖女〉となった。

 経緯がどうであれ、エルにしてみれば身売りも同じだった。エルが聖女に列席されたことでロートリンゲン家は国家への献身を評価され、のちにユーロニモス教皇とその政権の後ろ盾を得て、没落してなお何とか〈教会五大家〉の地位に踏み止まることができた。そしてエルを売ったアンダース・ロートリンゲンは今、決戦に敗北し、あらゆる人々から口汚く責任を追及されながらも、教会軍の元帥としてのさばっている。


 エルとロートリンゲン家の運命を大きく変えた戦争が始まって十二年が経過していた。

 時の流れはあっという間だった。気付けば、エルは十六歳に、弟のトマスは十二歳になっていた。

 二週間前、帝国軍の侵攻に対して急遽行われた出陣前のパレードで、弟はロートリンゲン家の軍勢の先頭を進んだ。その姿はまだ少年ではあったが、確かに一人の騎士となっていた。

 たまに見るたび大きくなるその男の子と職務で顔を合わせるのは何だかむず痒かった。それでも日増しに精悍さを増す少年の姿は、同じロートリンゲン家の血縁者として誇らしかった。同じ青い瞳と金色の髪は、家族ということを思い出させた。


 聖堂内の人々が解散していく中、エルはユーロニモス教皇に再び頭を下げた。

「教皇猊下。しつこいようですがお願いします。どうか、ロートリンゲン家の者たちに……、彼らを率いる最後の騎士に……、これからもご助力を……」

「お前は優しい娘だね、エル」

 そう言って、教皇はエルの髪を撫でた。エルは顔を上げ、教皇に向かって笑顔を作った。

「わかっているよ。それと、あとで使いを出すから、それに従うように」

 ユーロニモス教皇はそう言い残し、礼拝所から去っていった。


 月の盾の紋章──去っていく教皇の後ろ姿に、なぜか弟の姿が重なった。

 これが自らの務めである──エルは教皇を見送りながら、自らにそう言い聞かせた。

 二百年前、〈東からの災厄タタール〉によって大陸が滅びの危機に直面したとき、古き七人の少女たちは神の名の許に立ち上がり、今では秘匿とされる失われた大魔法、〈神の奇跡ソウル・ライク〉をもって〈東の覇王プレスター・ジョン〉を退け、〈神の依り代たる十字架〉とその信徒たちを守った。その後、〈教会七聖女〉は神の代理人たる教皇の名代として、その手足となって民衆に信仰を説き、導く者となった。

 今のエルは聖女に値する者ではなかった。与えられた二つ名──最も勇敢なる者──も、意味を持たぬ言葉に過ぎない。しかし今、そんなことはどうでもよかった。


 ロートリンゲン家の月の盾の紋章が、聖堂に射し込む陽に浮かぶ。


 今、弟のトマスは戦場にいる。敗勢の中、死地に立って戦っている。


 エルはユーロニモス教皇の全てを知っているわけではないが、その性格や傾向、体や性癖も含め、それなりには知っていた。だから自らが何を求められ、何を求めるかもわかっていた。

 こうして〈教会七聖女〉としての役割に殉じることで生家であるロートリンゲン家が命脈を保てるなら、弟のトマスが生き続けられるなら、本望である──エルはそう自分に言い聞かせ、見たこともない戦場に思いを馳せた。

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