1-9 ロートリンゲン ……トマス
冬の終わりのどこかで、銃声が鳴り響く。
トマスは馬車の中から外を見た。〈教会〉の十字架旗は、ロートリンゲン家の月の盾の紋章が描かれた軍旗は、いつも何かしらで汚れているような気がした。
嵐の日々だった。トマスはこれまでの戦いを思い返した。この二週間とちょっとで、様々なことが起こっては過ぎ去っていった。
数年間の休戦のあと、いつものように両国の緊張は高まっていた。誰もが戦闘再開は近いと感じていたし、当然準備もされていた。
二週間前、大方が春の開戦を予想する状況下で、〈帝国〉のクリスティーナ一世は突如として〈教会〉領内への冬季攻勢を開始した。それはまさに
トマスは一万名からなるロートリンゲン家の軍団の指揮官として戦乙女たちの会戦に参戦した。十歳で初陣は経験していたが、両軍合わせて十万を超える規模の大戦は初めてだった。気持ちは否応なしに高ぶっていた。しかしトマスは後方に残され、そして気付いたときには戦いは終わっていた。
それから二日が経過した。雌雄が決したのちも帝国軍の進軍は止まらなかったし、教会軍の退却も止まらなかった。
もはや大勢ははっきりしていた。しかし今後はまだ何も確定していなかった。教会軍は最終防衛戦である信仰生存圏を突破され、旗印とした三人の〈教会七聖女〉も全員失ったが、しかしアンダース・ロートリンゲン元帥の指揮のもと、六万近い戦力はまだ維持できていた。
ただ、退却の日々は淡々としていた。会敵、交戦、後退……。部下からの報告は淡々としていた。まとまった規模の交戦はおろか、偶発的なただの撃ち合いでさえ、最初から勝敗ははっきりしていた。
トマスはまだ十二歳にしかならないが、教会軍が勝ったという報せをろくに聞いたことがなかった。もちろん、〈帝国〉の先帝を敗死させた十年前の信仰生存圏の戦いのように〈教会〉側が勝った事例は確実にあるのだが、しかし印象としてはとにかく負けていた。実際、南征を開始したクリスティーナ一世率いる帝国軍の前に教会軍は連戦連敗だった。
兵士たちはみな惨めな表情をしていた。一万のロートリンゲン軍の主体を構成する傭兵たちはやる気がないどころか露骨に不満そうだった。士官階級であるロートリンゲン家の騎士たちは士気こそ保っていたが、疲労感は隠せていなかった。
トマス自身、泥の中にいるような気分だった。それでも戦いの準備は怠らないよう心掛けた。どんなに無力感に苛まれようともできることは自分でやった。ロートリンゲン家の紋章である月の盾が描かれた徽章は常に綺麗にした。そうしなければ惨めさに身を引き裂かれてしまいそうだった。
窓の外を見ていても気は滅入るばかりだった。耐え切れず、トマスは馬車に同乗する騎士をちらりと見た。対面に座る叔父のアンダースは、ずっと本を読んでいた。
最後の騎士──教会軍の元帥であり、トマスの後見人である叔父のアンダース・ロートリンゲン──は、いつ見ても生きているのが不思議なほどの体だった。年齢は三十歳らしいが、鉄仮面の隙間から覗く青い瞳は澱み濁っており、フードの隙間から見える金色の髪ははげ散らかっており、見た目はほとんど埋葬前の死体であった。左手首の義手、左足の膝から下の義足、その他の身体の細かい欠損や障害などは死にかけの見た目に比べれば些細なものだった。そしてそんな身体に対して、ロートリンゲン家の家宝である古めかしい直剣、月盾の家紋と
最後の騎士の姿は、ロートリンゲン家の現状を端的に表していた。敗北し、没落し、罵倒され、嘲笑され、口汚く責任を追及されながら、それでもなお権力にしがみつき生き長らえる……。それがロートリンゲン家の現状であった。
「汚れてるぞ」
トマスの視線に気付いたのか、叔父は顔を上げると、トマスの首に提げる月盾の徽章を指差した。
「申し訳ありません」
表情なき鉄仮面に見られ、トマスは反射的に謝った。
叔父の言い方は高圧的だった──あるいは、鉄仮面で表情が読めないからそう受け取ってしまうのかもしれない──汚れているようには見えなかったが、トマスは謝り、月盾の徽章を布で拭いた。
「どんなときでも
「わかってます」
「わかってない。いつまでしかめっ面してるんだ。笑え、ほら」
トマスは叔父から受け取った手鏡に顔を映した──耳元で切り揃えられた金色の髪、大人らしさのない大きな青い瞳、髭の一本も生える気配のない頬──笑うような気分でも状況でもなかったが、トマスは無理矢理に笑顔を作った。
表情なき鉄仮面はずっとトマスを見ていた。叔父の視線にトマスは思わずムッとした。したが、それを恥じた。確かに見た目こそ悍ましいが、それでもこの叔父はトマスの後見人であり、没落した一族で唯一そばにいてくれる人間なのは間違いなかった。
トマスは申し訳ないという目で叔父の表情を窺ったが、その鉄仮面の奥はまるで読めなかった。
トマスはまた窓の外に視線を向けた。
道端からは民衆が行軍を見ていた。多くは戦火に追われた女子供だった。その視線は冷たく、無言だった。
トマスはそれらを直視することができなかった。クリスティーナ一世の南征により、北部の〈帝国〉と国境を接する中央平原のロートリンゲン家はその領地の大半を喪失していた。今、ロートリンゲン軍は何の期待もされていないのは明らかだった。
トマスは十二歳にしかならぬ己の非力さを呪った。大人たちが跋扈する戦場においてトマスは一人だけ子供であり、周りもただの子供としか扱ってくれなかった。
馬車が揺れるたび、月盾の徽章が力ない音を奏でた。装具は小さな体に対し少し大きかった──早く大きくなりたかった。早く大人になりたかった──そんなことでさえ自覚してしまう自分が、いつもいつも惨めで仕方なかった。
馬車の外からは断続的に銃声が聞こえた。音は遠いが、今もどこかで確実に戦闘は続いている。
「叔父上。これから……、これから我々はどうすればいいのでしょうか?」
トマスは叔父に訊ねた。我ながら子供染みた質問だとは思ったが、今は二人だけの沈黙に耐え切れなかった。
「いつも通りだ。いつでも戦えるように準備しておけ」
叔父の反応はいつも通りだった。教会軍の元帥たる叔父は決戦に敗北してなお、潔く負けを認める気も、観念して戦いを止める気も、さらさらなさそうだった。
「それはもちろんですが……。戦闘後交渉は再開されていますし、外交での解決は無理なのでしょうか? クリスティーナはともかく、講和派の筆頭であるオクセンシェルナ殿が従軍している今なら、何かしら進展が期待できるのでは?」
「オクセンシェルナが講和派だぁ? 笑わせんな。暴君呼ばわりされてるクリスティーナの方がまだ話し合いになるだろうよ」
トマスの発言を叔父は鼻で笑った。自身の発言を否定され、トマスはまた叔父に反感を抱いた。
「戦闘中の話し合いなんぞ意味をなさん。教皇もオクセンシェルナも裏でいろいろやってるみたいだが、話し合いの内容が戦場に反映されるわけじゃない。戦場の状況が話し合いに反映されるんだ。そもそも今の戦況で〈帝国〉がこっちの条件を呑むわけねぇだろ」
「負けている我らに交渉の余地はない、ということでしょうか……」
負ければ全てが終わる──それだけはわかる。長きに渡る流血によって蓄積された憎悪と不信感は、互いの生存を許さぬ絶滅戦争の域に達している。
「だとしたら……、我々はどうやったらこの戦争に勝てるのでしょうか?」
そもそも戦争の勝利とは何なのか。勝利したとして戦争は終わるのか──戦争と敗北の中で生きてきたトマスにはそれがよくわからなかった。
「一週間。ここをしのげば潮目は変わる」
叔父は断言した。その鉄仮面の奥の青い瞳は、底無し沼のように澱んでいた。
「ふん。どいつもこいつも、信仰生存圏を突破すれば一週間で戦争が終わるだの、〈教会〉が滅びるだのと言ってやがる。お笑いだ。十年前も同じことを言ってやがった」
叔父はまた鼻で笑い、吐き捨てた。十二年間も続くこの戦争をずっと戦ってきた叔父の言葉には妙な説得力があった。
「平和ボケしたアホどもが。戦争がそんな簡単に終わるわけねぇだろ」
かみ締めるその言葉は憎悪に満ち溢れていた。しかしそれが誰に対しての、何に対しての憎悪なのか、表情なき鉄仮面からはようとして窺い知れなかった。
この叔父にどういう感情を抱くべきか、トマスはずっと判断できないでいた。
全てはロートリンゲン家のため──その一心は疑いようがない。叔父がいなければ、父母の顔さえ知らぬトマスは没落貴族と嘲られる前に野垂れ死んでいただろう。
しかし、そのやり方はいつも他人を顧みなかった。表情なき鉄仮面は、当時四歳だった姉のエルをユーロニモス教皇との取引に利用し、〈教会七聖女〉に列席させることで、ロートリンゲン家を〈教会五大家〉として存続させ権勢を保った。そしてつい先日行われた戦乙女たちの会戦では、形勢が不利と見るや、戦力を維持するという名目で三人の聖女を捨て駒とし、早々に撤退した。結果、教会軍は兵力を八万から六万に減らしても軍としての態勢は保てていた。
全ては、しかしそれは誰のためなのか──十二年前、自らの兄、つまりエルとトマスの父を見殺しにし、
なぜ戦うのか──いくら考えても叔父の真意はわからなかった。
なぜ戦うのか──国のため、家のため、神のため──そもそも、トマス自身がその理由を見つけられていなかった。
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