嵐に揺れる十字架旗
1-7 教皇府の聖女たち ……エル
風が騒いでいた。
風はまだ冷たかった。しかし確かに暖かい陽射しは、春の訪れを感じさせた。
〈教会〉の首都、教皇府の宮廷都市群に掲げられた十字架旗が風にそよぐ。広々とした街路、巨大な城壁、居並ぶ塔、そして
大通りを馬車が進む。〈教会七聖女〉を示す天使の錦旗を掲げた馬車が、護衛の白騎士たちを連れ、教皇府の官庁街を進む。
馬車の中、第四聖女エルは従者から鏡を受け取り、顔を映した──束ねた金色の髪に、鮮やかな青い瞳──緊張のせいか、陽射しの暖かさのせいか、肌はうっすらと汗ばんでいたが、化粧崩れはなかった。
窓辺から射し込む光は眩しかった。エルは鏡を返すと、窓を開け、そよぐ風に身を任せた。
春の風に街が騒ぐ。張り巡らされた街路には、数え切れない人影が行き交っている。
戦乙女たちの会戦の敗北から二日が経過した。大陸中で最大の人口を抱える〈教会〉の首都は、教会軍の敗北と帝国軍の信仰生存圏突破の報せが広まる中でも、表面的にはいつもと変わらぬ活気に溢れていた。
しばらくすると、雑多な喧騒が消え、風が澄んでいく。馬車が官庁街を抜け、聖堂街へと入っていく。整然と敷かれた石畳に沿って正門を潜り、芽吹きを待つ庭園を抜けしばらくすると、聖堂街の中心、芸術的装飾に彩られた
「お二人とも、お務めご苦労様です」
エルは〈教会七聖女〉の同僚である第五聖女シャーロットと第七聖女ソニアに挨拶した。三人とも、午前中はそれぞれ任された地区で演説を行い、午後からはユーロニモス教皇の定期礼拝に同席するために集まっている。
シャーロットの笑顔はいつもと変わらず明るかった。一方、ソニアは最初こそ笑顔を見せたが、頬はやつれており、目の色は暗かった。
教皇府に残った〈教会七聖女〉の四人のうち、唯一の二十代と年長であるシャーロットは自然とまとめ役となってくれた。最も可憐なる者と称されるように、誰からも人気のある彼女は常にそれに相応しくあろうと努めていた。一方、十歳と最年少のソニアは日に日に情緒不安定になっていた。最も無垢なる者、幼すぎる彼女には、この状況は荷が重すぎるのは誰の目にも明らかだった。
教皇からの案内を待つ間、三人は
「エルちゃん、そっちは無事に終わった?」
「えぇ、多分……。ただ、こちらはお役人様が中心でしたので、いまいち反応が薄いというか……。正直なところ、緊張していたので反応までは覚えていません。猊下からいただいた原稿を読めたことは間違いないのですが……」
官庁街で向けられた視線を思い出し、エルは独り落ち込んだ。〈教会七聖女〉は人前に立つことが仕事だが、苦手意識は未だに拭えない。
「お役人様たちはこの国難を誰よりも理解してるでしょうし、きっと大丈夫よ。ところで、どんなことを話したの? 教えて」
三人はそれぞれの演説内容をかいつまんで話した。三人とも演説の内容は違っていた。シャーロットは民を慰撫する表現が、ソニアは戦場の痛ましさを誇張する表現が、エルは士気を鼓舞する表現が用いられていた。雄弁家で知られるユーロニモス教皇が起草し編集してるだけあって、さすがに芸が細かいとエルは思った。
ただ、演説には共通する内容もあった──可能性の継続──現時点で、国家元首であるユーロニモス教皇は〈帝国〉に対してのあらゆる選択肢をぼかしていたが、しかしその言葉だけは明確に強調されていた。事実、両国の外交使節団が今後についての交渉を再開する傍ら、両軍の戦闘は依然継続されていた。
降伏か、戦争継続か……。条件交渉か、無条件降伏か……。遷都か、籠城か……。殉じるか、裏切るか……。信仰生存圏を突破されれば、この戦争は一週間で終わると、〈教会〉は一週間で滅びると、誰もが噂していた。そして今、それは現実となりつつある。
戦争の話になると、三人とも表情は暗くなってしまった。明るく振る舞っていたシャーロットも俯きがちになり、その口数も減っていった。ソニアの目には涙が浮かんでいた。
「これから戦争はどうなるんでしょうか? 戦場へ行ったお姉様たちは……、本当に死んでしまったのでしょうか……?」
ソニアはほとんど泣いていた。これからの運命を考えれば、三人とも気持ちは同じだった。
戦乙女たちの会戦後、軍の旗印となった三人──第一聖女リリアンヌ、第二聖女サラ、第三聖女フィア──の生死は伏せられていた。噂では三人とも死亡だとか、リリアンヌとサラは生きて捕虜になったとか、三人とも無事だとか、情報は錯綜していた。
「お姉様たちは大役を果たされたのよ。祈りましょう」
エルはソニアの涙をハンカチで拭った。しかし、涙は止めどなく溢れた。
「でも、黒竜の遺児と呼ばれるクリスティーナ一世は恐ろしい暴君で、帝国軍は血に飢えた冒涜的殺戮者の集まりだと誰もが言っています。そんな敵がここまで来たら、私たちはどうすれば……」
「元気を出して。苦しいときだからこそ、私たちがみんなの支えにならないと。戦場で血を流す兵士たちと、戦火に苦しむ民の心を癒すことができるのは、聖女たる我らにしかできないことなのよ」
今度はシャーロットがソニアを励ました。気丈に振る舞う彼女の言葉に、エルもソニアも頷いた。しかし、ソニアの涙が止まることはなく、三人の表情が晴れることもなかった。
誰もが路頭に迷っていた──残された時間は多くない──そうして会話が途切れかけたそのとき、使者がユーロニモス教皇の到着を告げた。
静まり返る室内に足音が響く。
ユーロニモス教皇の到着に、シャーロットとソニアの表情が明るくなる。エルも姿勢を正し、それを迎える。
「三人とも、よく来てくれたね」
優しく響く男の声に、シャーロットとソニアの笑顔が弾けた。エルも深々と頭を下げ、それに応えた。
ユーロニモス三世に従い、三人は
安心感──それがユーロニモス三世には確かにあった。
エルが四歳で〈教会七聖女〉となってから十二年、ユーロニモス三世が教皇となる以前を合わせれば、ほぼ生まれたときからの付き合いとなる。開戦初期、病死した前任者から教皇位を継いだユーロニモス三世は、蛇蝎の如き権謀術数の渦の中で、〈帝国〉との戦争が続く中で、十年に渡り〈教会〉を導いてきた。その間、世界は何も変わらなかったが、しかし確かに安定はしていた。
エルを含め様々な思惑を持つ有象無象の全てを教皇は受け入れてきた。敵対する〈帝国〉でさえ、ある意味では利用していたのかもしれない──信仰の守護者、卓越した雄弁家、十年前の信仰生存圏の戦いで〈帝国〉の先帝を敗死に追い込んだ大戦略家──そうして自らを利用しようとする者たちを利用しながら、ユーロニモス教皇の権勢は今も続いている。
今、確固たるその権勢に並ぶ者はいない。大陸を二分するもう片方の長、父親の仇敵を討つべく挑んできた〈帝国〉の若き黒竜の女王、クリスティーナ一世を除いては……。
「三人とも、いつものように素晴らしい歌声を添えておくれ」
礼拝所の色鮮やかな輝きを眺めながら、ユーロニモス三世は言った。
追い詰められた状況下でも、ユーロニモス三世に動揺は見られなかった。その表情はいつも通り自信に満ち溢れていた。それが信仰心によるものなのか、軍への信頼感によるものなのか、あるいは根拠のないものなのか、エルには掴めなかった。
いずれにしても、この国に残された選択肢は多くはない。そもそもどんな選択が最良かもわからないが、それでも最良の選択をしてもらうことをエルは願うしかなかった。
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