2-2 ただ前に進むのみ  ……ペトリ

 春の風は静かだった。しかし時は動き出していた。


 春は泥に塗れていた。塹壕に沿って並ぶ〈帝国〉の黒竜旗と〈教会〉の十字架旗はどれも土埃で汚れていた。黒を基調とした帝国軍第三軍団の兵士たちも、軍旗と同様に汚れていた。


 戦乙女たちの会戦後、〈教会〉の首都である教皇府を目指した帝国軍の侵攻は頓挫し、全ての戦線が膠着状態に陥った。教皇府への最短経路、鉄の川の岸辺ラインメタルの町を巡り〈教会〉のロートリンゲン軍とぶつかった帝国軍第三軍団もそれは例外ではなかった。

 一カ月間、両軍は攻撃から身を守るため穴を掘り続けた。向かい合う塹壕で戦闘は続いたが、戦線はほとんど動かなかった。

 しかし今、〈旅団〉の全面介入と〈教会五大家〉ヴァイヒェルト家の降伏により、戦線は再び動き出した。


 ペトリは自軍の塹壕を越えると、無人地帯を抜け、教会軍の塹壕線へと馬を進めた。塹壕線の先、遠く地平線を埋める宮廷都市群の影は、春の風に彩られ、以前よりも色鮮やかに見えた。

 教会軍の塹壕に敵兵の姿はなかった。〈教会〉の十字架旗、そしてロートリンゲン軍の月盾の軍旗は掲げられていたが、全ては偽装だった。対峙していたロートリンゲン軍は一夜のうちに塹壕から消えていた。

 敵ながら見事な撤収ぶりだった。ただ、感心してばかりもいられなかった。塹壕戦は終わり、追撃戦が始まった。塹壕戦では騎兵の出番はなかった。満を持しての出撃である。


 黒騎兵オールブラックスは塹壕線を越えた先での威力偵察を開始した。兵は三千騎全てを動員しており、主要街道だけでなく、側道からあぜ道に至るまで、考えつく全てに派遣されている。

「必ず行きと同じ人数で帰ってこいよ! 俺たちは黒騎兵オールブラックスだ! 死んだからって仲間を戦場に残すマネは絶対にすんじゃねーぞ!」

 千騎の軽騎兵隊を指揮する小闘士ウォーハートのコッコは誰よりも燃えていた。その言葉に応える声もまた熱かった。コッコは男たちの気勢とともに前線へと駆けて行った。

 小闘士ウォーハートのコッコはペトリと同じ騎馬民出身者だが、その二つ名の通り、戦士としては小柄だった。しかし、ペトリよりも二つ年上の、死んだ兄と同い年のこの部下は、並外れた胆力と勇気を兼ね備え、そして自らで道を切り拓こうとする強靭な意志を持っていた。それはかつては滅んでしまった部族のためであり、今は編入された黒騎兵オールブラックスのためであった。


 まず、騎馬民出身者主体で構成された軽騎兵隊が最前線を担い、次いで帝国人を中核に構成されたユングストロムの胸甲騎兵隊がその支援に当たった。ペトリ率いる本隊は基本は前線中央に陣取り、必要に応じて部隊を出撃させた。

「敵の戦意を侮るな! 相手は恐るべき不屈の意志の持ち主であり、それを率いるアンダース・ロートリンゲンは決して騎士などではない! 各自、心してかかれ!」

 細かい指揮は副官のイエロッテが仕切った。黒騎兵オールブラックスの前身部隊から仕える歴戦の騎兵は、ロートリンゲン軍とは何度も干戈を交えた間柄であり、相手のことをよく理解していた。

「正直、ロートリンゲンの連中がここまで粘り強いとは思っていませんでした。十二年前の敗戦で没落したときは、そのまま消えていくと思ってましたから」

 イエロッテは懐かしそうに過去を振り返った。ロートリンゲンを語る言葉はほとんど昔馴染みを語る口調であった。


 黒騎兵オールブラックスの将兵はみな頼もしい男たちばかりだった。個々の武勇はもちろん、彼らには軍人としての規律と統制、そして仲間への献身があった。彼らがいるからこそ、ペトリはこうして黒騎兵オールブラックスの指揮官であることができた。


 風が吹くたび、戦いの音が聞こえてくる。


 戦闘は始まっている。もちろん、敵はこちらを待ち伏せている。自国の領土を守る教会軍に対し、侵攻する帝国軍には地の利もない。損害もすでに報告されている。しかし止まるわけにはいかない。今、再びの膠着は避けねばならない。戦局が流動しているうちに、できる限り迅速に敵情を探る必要がある。再び主導権を握るため、多少の犠牲は覚悟しなければならない。


 昼過ぎより始めた威力偵察は日没前には一旦全て完了させた。効果と損害は想定の範囲内だった。


 戦闘終了後の点呼中、後方から数十騎の騎馬が駆けてきた。黒を基調とした軍装は第三軍団の者だったが、一部は東方風の小片鎧スケイルアーマーを着ていた。集団の先頭には、黒騎兵オールブラックスと同じ軍装の胸甲騎兵がいた。

「よぉペトリ。敵はどんな感じだった?」

 気さくな言葉をかけてきたのは、第三軍団の指揮官であるストロムブラード将軍だった。その黒い瞳はいつものような峻厳な眼光ではなく、まるで物見遊山にでも来たかのような色をしていた。

「軍団長閣下。まだ周辺の制圧はできていません。危険です」

「ずっと後ろにいると息が詰まる。たまには前線を見させてくれよ」

「ですが軍団の指揮は……」

 ペトリは懸念を言いかけ、止めた。指揮官不在となった場合は次席が引き継ぐ。いつも通り、第三軍団全体の指揮は幕僚長のニクラス・リーヴァに任せたのだろう。二人の関係性は黒騎兵オールブラックスの隊長と副官だった頃から変わらない。

「まぁ、今回は前線を見たいって人間がもう一人いてな。それで来た」

 そう言うと、ストロムブラード将軍はすぐ隣に目をやった。黒騎士の隣には乞食のような身なりをした人相の悪い男がいた。

「〈旅団〉から派遣された将軍、破壊者イコノクラストのヴォルク殿だ。近々、彼の傭兵隊である個別の狼党ローンウルフズが第三軍団の指揮下に入る。部隊の到着はまだ先だが、一足先に挨拶に来てくれたんだ」

 紹介された破壊者イコノクラストのヴォルクはぶっきらぼうな東の古語で挨拶した。どうやら大陸共通語は話せないようだった。


 挨拶もそこそこに、ヴォルクは別の場所を見に行くと言ってどこかへ行ってしまった。


「大丈夫なんすか、アレ?」

 みなの疑問をコッコが代弁した。〈旅団〉の介入により戦局が動いたのは確かだが、しかし共に戦うとなると話は別である。

 灰燼に帰した大陸東部の勢力が〈旅団〉として全面介入をする以前から、〈帝国〉と〈教会〉の両国とも、傭兵産業と奴隷売買を生業とする〈旅団〉とは付き合いはあった。ゆえに内情はそれなりに把握していた。

「それなりに実績のある傭兵らしいですけど、でも〈旅団〉の中でも相当な変人ですよね? 全員童貞で独り身、酒も薬も女もやらない、かといって男色ってわけでもなく、宗教的な戒律に従ってるわけでもない、何で戦ってんのかよくわからん連中ですし」

 事情通のコッコの言葉に全員が怪訝な顔をした。単純に兵力だけ増やされても、規律がなければ足手まといになるのは目に見えている。何より、得体の知れない相手に命を預けることなど到底できない。

「お偉方が占領統治がどうたらこうたら言って飲んでる間、現場の下っ端は略奪も宴会も女遊びも我慢してんですよ。あいつらがそんなお行儀よくできるとは思えねぇんすけどねぇ」

「彼らの噂話に一喜一憂しても仕方ない。ヴォルク殿と個別の狼党ローンウルフズがどんな連中であれ、俺たちはできることを粛々と進めるだけだ」

 夕焼けに染まる宮廷都市群を眺めながら黒騎士は言葉を引き締めた。その言葉に、みなが表情を引き締めた。ペトリも自然と姿勢を正して聞き入っていた。

「忘れるな。この戦争は俺たちのものだ。〈旅団〉の連中はあくまで部外者で、第三極ではない。奴らは〈帝国〉の駒として戦うだけ、手綱は常に俺たちが握る」

 黒騎士の言葉には力があった。その言葉に向けられる視線は一つにまとまっていた。

「時はまた動き出した。〈帝国〉の勝利のため、我らはただ前に進むのみ。各自、務めを果たすことを期待している」

 黒竜の旗のもと、遥かなる地平線に血の雨を──ストロムブラード将軍が第三軍団の標語モットーで言葉を締めると、黒騎兵オールブラックスの将官たちもそれに続いた。

「ペトリ、これからも頼むぞ」

 そして最後に、黒騎士はペトリの肩を叩いた。ペトリは敬礼でそれに応えた。しかし劣等感は拭えなかった。


 黒き吹雪──ペトリが黒騎兵オールブラックスの隊長に就任する際、その二つ名を付けてくれたのはストロムブラード将軍だった。しかしペトリは何かを成したわけではなく、その名も与えられたものでしかなかった。


 ペトリと違い、ストロムブラード将軍の人生は栄光と悪評に血塗られていた。ただの下級貴族でしかなかった男は、あらゆる敵と戦い続けた末に騎士殺しの黒騎士となり、そして聖女狩りの黒騎士としてクリスティーナ一世の政敵を誅殺し、成り上がりの騎兵隊長から第三軍団の軍団長へと昇格した。その生き様は間違いなく自らで切り拓き築いたものであった。


 かつての部下と、かつての同僚と談笑する黒騎士を見るたび、ペトリはその差を感じた──黒騎兵オールブラックスの指揮官はこの人だ──その思いはどれだけ経っても消えなかった。

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