第二章 沈黙する春

〈帝国〉の思惑

2-1 劇薬  ……ヴィヴィカ

 花が咲き、散っていく。


 軍靴と鼓笛が響く。春風にはためく〈帝国〉の黒竜旗が、春の野を踏み鳴らし進軍する。


 冬が終わり、春が来た。クリスティーナ一世による南征が始まって二カ月、戦乙女たちの会戦から一カ月弱が経過した。信仰生存圏を突破すれば一週間で終わるとされた戦争はまだ続いていた。

 〈教会〉の首都である教皇府攻略を目指した帝国軍の侵攻は、アンダース・ロートリンゲン元帥による反攻作戦により頓挫し、その後は一カ月近く膠着状態が続いた。しかし停滞していた戦局は、春の息吹とともに新たな局面を迎えていた。


 この日、教会軍の一翼を担っていた〈教会五大家〉の一角、ヴァイヒェルト家が〈帝国〉に降伏した。


 向かい合う黒竜旗と黄金像ベヒモスの軍旗のもと、クリスティーナとヴァイヒェルト家の当主カールはこれまでの互いの健闘を讃え、握手を交わした。進軍する黒竜旗の横に設けられた講和の席で、両軍の首脳部は和やかに酒を酌み交わしていた。しかし未だ血と硝煙の臭いが残る場の空気は不穏極まりなかった。

 今このとき、笑っている者は誰一人としていなかった。喪装のドレスに身を包むクリスティーナをはじめ、多くは甲冑をまとったままだった。話し合いに帯同する青骸布せいがいふの近衛兵とヴァイヒャルト家の護衛に至っては完全武装で睨み合っていた。

 護衛として帯同するヴィヴィカは、クリスティーナの背後からカール・ヴァイヒェルトを見た。贅を尽くした黄金の鎧がまるで似合わぬ文人貴族といった風体の黄金像ベヒモスは、極めて紳士的であったが、しかし誰が見ても不遜極まりなかった。


 〈教会五大家〉の一角、〈教会〉の国家財政を一手に握る財閥ヴァイヒェルト家は〈帝国〉に降伏した。しかし当主のカール──家紋である黄金像ベヒモスの名を冠する男──は決して膝を着くことはしなかった。


「あれは劇薬ですよ」

 カール・ヴァイヒェルトは通り過ぎる喧騒を横目にワインを飲んだ。その視線の先には、大陸東部からやってきた多種多様な人種──土着化した騎馬民、亡命貴族、東部入植者の生き残り、そして狂信者──がいた。


 二百年前の〈東からの災厄タタール〉により灰燼に帰した地──人々はずっとその地を忘れていた。東の騎馬民の末裔であるヴィヴィカでさえ、忘れかけていた。しかし確かにそこに人は生きていた。やがて彼らは共同体となり、自らを〈旅団〉と称するようになった。

 大陸を二分する〈帝国〉と〈教会〉が十二年にも渡る戦争で疲弊していく間、〈旅団〉は東の地で着実に力を付けていた。その実態は単なる寄り合い所帯でしかないのだが、しかし今や彼らは〈帝国〉と〈教会〉に並ぶ存在になりつつあった。


 一週間前、〈帝国〉の宰相オクセンシェルナ、軍元帥のフレデリック・ブローデンらの手引きにより、大陸東部で勢力を築いていた〈旅団〉が〈帝国〉側の味方としてこの戦争に参戦した。その結果、〈教会〉の東部方面領、〈旅団〉と国境を接するヴァイヒェルト家は大した抵抗もなく降伏した。


「先帝陛下であれば、どんな状況であれ、あんな連中を使うようなことはなかったでしょう」

 カール・ヴァイヒェルトは十年前を知っていた。つまり、先帝の死を知る当事者であった。事あるごとにクリスティーナの父親の名を口にするヴァイヒェルトは、わざと煽っているとしか思えなかった。ヴィヴィカをはじめ、青骸布せいがいふの騎士たちは完全に殺気立っていた。講和の席を取りまとめる宰相のオクセンシェルナですら、嫌悪と憎悪を隠そうとしなかった。

 話し合いはいつ殺傷沙汰になってもおかしくなかった。そうならないのは、長であるクリスティーナが終始笑顔を崩さないからであった。

「あれを使うぐらいなら、まだ二国間で戦っていた方が荒れずに済んだと思いますよ」

「そうかもしれません。しかしそれではこの戦争はいつまで経っても終わりません。ならば劇薬とはいえ、私は使うことを躊躇いません」

「なるほど。流石は北部人たちの王だ。血の気の多い連中を束ねるだけのことはある」

 ヴァイヒェルトは血塗れの行軍を横目にまたワインを飲んだ。〈帝国〉の黒竜旗とともに進む〈旅団〉の兵は、討ち取ったヴァイヒェルト家の兵の首を軍旗に括り付けていた。赤黒い血糊に塗れる〈旅団〉の軍旗は、いずれも判別不能なまでに汚れていた。

「とはいえ、あれをどう戦後秩序に抱え込むおつもりですか? 烏合の衆なりに目的はあるでしょうし、まとまれば大陸における第三極にはなるのでしょうが、しかしただ壊すことしかできぬ破壊者が国家として立つことなどありえない。それは二百年前に〈東の覇王プレスター・ジョン〉が身を以って証明している」

 そう言って、カール・ヴァイヒェルトはヴィヴィカを見た。ヴィヴィカは睨んだが、ヴァイヒェルトは目を逸らすことなく鼻で笑った。

 ヴィヴィカはほとんど剣を抜きそうになっていた。もし上官のホルン兵長が足を踏んでいなければ、部下のスヴェンが横から青骸布せいがいふを引っ張っていなければ、クリスティーナが許すのであれば、斬りかかっていたかもしれなかった。

「そうかもしれません。ですが、私は前に進むと決めました。たとえ今の秩序を破壊することになっても、大陸の真の平和のために犠牲を払う覚悟を決めました」

 凛とした声が下卑た薄ら笑いをかき消す。クリスティーナの声でヴィヴィカは冷静さを取り戻すことができた。


「素晴らしい志だ。やはり、あなたは亡きお父上と同じく英雄であられる」

「……十年前、我が父の前でも、貴殿は今と同じことを言ったのですか?」

 しかし、空気はまだひりついていた。それまでは慇懃無礼な態度を崩さなかったクリスティーナが、少しだけ声色を変えた。まだ横顔は笑っていたが、このときばかりは口調に棘が滲んでいた。

「そうしなければ、燃える心臓の男から我が領土と領民を守ることはできませんでしたから」

「そうして降伏しておきながら、我が父の死後は元鞘に戻り、そして今また〈教会〉を裏切った。〈教会五大家〉に名を連ねながら、その変節は目に余る。正直に言えば、私は貴殿を全く信用できない。ゆえに、ユーロニモスと同じく父の仇である貴殿とどうすれば共に未来を歩めるか、今ここで腹を割って話がしたい」

 問い詰める女王の言葉に春風が凍りつく。刺すような緊張の糸が瞬時に張り詰める。一触即発の空気は、一歩間違えば爆発する。

 クリスティーナの言葉はオクセンシェルナら〈帝国〉首脳部の思いを代弁していた。しかしそれに向き合うカール・ヴァイヒェルトは苦笑こそすれ、追い詰められている様子はなかった。

「ならば〈教会〉に忠義を尽くし、あのイカれた東の蛮人どもと破滅するまで戦うべきだったと? もし我が領地が灰燼に帰していたら、陛下はここにいる〈帝国〉の子らをどうやって食わせていくつもりだったのですか?」

 カール・ヴァイヒェルトはまた煽ってきた──この男はどこまで太々しいのか──ヴィヴィカはまた憤慨した。しかし、張り詰める緊張の糸は切れる寸前でまだ保たれていた。


 〈旅団〉の全面的な軍事介入により、〈教会〉東部を所領とするヴァイヒャルト家は〈帝国〉に降伏した。とはいえ、帝国軍七万、〈旅団〉三万、その他傭兵隊や捕虜を含めれば十万をゆうに超える規模となった遠征軍を支える体力は〈帝国〉にはなく、ヴァイヒャルト家の支援なしに戦力の維持は不可能であった。当主のカールをはじめヴァイヒャルト家の者たちはそれをわかっているためか、〈帝国〉に対してはあくまで対等な関係であることを強調した。


「『富は文明なり』。それがこの黄金像ベヒモスの紋章に込められた我が家の思いです」


 ヴァイヒェルト家の家訓モットーを口にしながら、カール・ヴァイヒェルトは自身の黄金像ベヒモスの紋章を指差した。

「人は富を生む。その富を生み出す人々の生活の安定なくして、文明の発展はありえない。『黒竜の血は燃えている』と言って富国強兵に励んだ〈帝国〉と同じように、我が家も自らの家訓モットーに従ってここまで繁栄してきました」

 臨界点を迎える殺気に向かい、カール・ヴァイヒェルトは自慢げに答えた。

「国家にとっては私は不忠者です。しかし民草に与えられた日常を守ることができるのであれば、飯の種にならぬ崇高な志で破滅するよりはいいと考えます」

 カール・ヴァイヒェルトは不遜ながらも、終始余裕ある紳士的な態度を崩さなかった。


 黄金像ベヒモスの言葉が終わると、一瞬の沈黙が流れた。風はまだ冷たかったが、しかし刺すような痛みはなかった。


「民のことを第一に考える貴殿の思い、深く感銘を受けました。合わせて、答え辛いことを訊ねてしまった非礼をお詫びいたします」

「お気になさらず。こちらこそ、陛下の志に今後も協力できれば光栄です」

 緊張の糸はほぐれていた。女王と黄金像ベヒモスは笑顔だった。二人は互いに一礼すると、再び握手を交わした。


 講和が終わり、それぞれが自陣に戻る際、ヴィヴィカはクリスティーナに名を呼ばれた。クリスティーナは普段使う大陸共通語ではなく、〈東の覇王プレスター・ジョン〉が広めた騎馬民族の言葉である東の古語で話しかけてきた。

 時が来たら、奴らを皆殺しにして──クリスティーナは流暢な東の古語でそう続けた。その声は怒りに震えていた。

 奴らが誰を指しているかはわかっていた──もちろんです──ヴィヴィカは黒竜旗と並ぶ黄金像ベヒモスの軍旗を横目に、東の古語で答えた。

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