1-3 黒き吹雪 ……ペトリ
大地が揺れている。
馬上、手綱を握るペトリの手は震えていた。ペトリは部下たちにそれを悟られぬよう、白い羽飾りの付いた騎兵帽を被り直すと、黒竜旗に目をやり、心の中で〈神の依り代たる十字架〉に祈った。
ペトリは背後を振り返った。幸い、黒い群れは泰然自若としていた。帝国軍第三軍団騎兵隊の三千騎はみな落ち着いており、戦意に満ち溢れていた。
戦いが始まっている。冬の終わり。空は晴れているが、風は冷たい。地面もまだ凍てついている。
軍靴と鼓笛が大地を震わす──戦いの音──信仰生存圏を巡る戦線の最左翼を任された第三軍団の一万名が、同じく一万名ほどの教会軍とぶつかり合う。
マスケット銃兵、長槍兵、野戦砲兵を主体とした帝国軍第三軍団の歩兵戦列が、勇壮なる行進曲に合わせ平原を進む。
戦列前衛に展開する両軍の野戦砲が戦いの火蓋を切る。大地を跳ね飛ぶ鉄球が人馬をすり潰し、人壁に無数の穴を穿つ。
穿たれた点を後続の兵で埋めながら、両軍の歩兵戦列が距離を縮める。互いの視線が交錯する距離で、
もうもうと立ち込める白煙の中、マスケット銃兵に代わって前線に出る長槍兵が、
交錯する火と鉄が戦場を支配する。前列の兵が倒れるたび、後続の兵が戦列の隙間を埋め陣形を維持する。間断ない銃砲火と隙間ない
最初の砲声と同時に、ペトリの指揮する第三軍団騎兵隊からも一隊が駆け出す。
力押しの突撃を仕掛けてくる敵騎兵に対し、コッコは巧みに兵を動かし、その圧力をいなす。押せば退き、退けば押す。弓矢による騎射とサーベルによる白兵戦を組み合わせて間合いを計り、隙を探る。そして隙あらば、鋭い一撃を見舞おうと試みる。
しかし、相手もよく動きを見ている。安易な誘いには乗らないが、攻撃の手は決して緩めない。コッコが軽騎兵の機動力で翻弄しようとするのに対し、相手はより重装な胸甲騎兵の利点を活かし、真正面からの殴り合いに持ち込もうとする。
均衡が続く。依然、主導権はどちらにもない。他の戦線の状況は立ち込める白煙のせいでわからない。
息詰まる緊張の中、第三軍団司令部から伝令がやってくる。
ペトリは伝令の指示に従い、追加の千騎を前線に投入した。マスケット
互いが主導権を握るべく、仕掛ける。帝国軍の動きに対し、教会軍も予備隊を投入してくる。
火と鉄の嵐が吹き荒れる。〈帝国〉の黒竜旗と〈教会〉の十字架旗がぶつかり合うたび、風は血帯び、野は死の色に染まっていく。
今、戦況はほぼ互角、見方によっては教会軍が優勢かもしれなかった。
アンダース・ロートリンゲン元帥率いる教会軍は強かった。その強さは、精強と名高い大陸北部の兵と何ら遜色なく、〈
しかし、弱点もあった。それは国家の中枢を担う〈教会五大家〉の力が依然として強すぎることであった。〈教会五大家〉はそれぞれが軍事や政治に権力を持つがゆえに、全くまとまりがなかった。没落してなお権力に縋る者、自らの権益のみを追い求める者、〈帝国〉に内通する者、宗教的権威を利用する者、そもそも戦争に無関心な者……。ロートリンゲン元帥を始めとして今この戦場に集う〈教会五大家〉の諸家も、教皇ユーロニモス三世を国家元首とし、〈教会七聖女〉を戦場の旗印としながらも、それぞれがそれぞれの思惑に従ってずっと動いてきた。皇帝集権体制を築いた〈帝国〉と違い、結局のところ〈教会〉という国家はずっと寄せ集めの構造であった。
まとまり、それが教会軍の運命を分ける──ペトリの上官、帝国軍第三軍団を率いる聖女狩りの黒騎士は、部下たちにそう語った。
寄せ集めの戦線の間隙、そこを喰い破り致命傷とする──
交錯する黒竜旗と十字架旗が、倒れてはまた翻る。激しさを増す均衡の中、兵士たちが血を流し、命を削り合う。しかし両軍の軍靴と鼓笛はその歩みを止めない。どちらかが心折れるまで……。
ペトリは
前進──ペトリはサーベルを抜くと、号令とともに馬腹を蹴った。
風が逆巻き、唸る。教会軍の戦線に僅かに生まれた亀裂に、
鬨の声──女王陛下のために、遥かなる地平線に血の雨を──ぶつかり合いの狭間に血飛沫が舞い散る。馬群が風となり、刃となり、あらゆる声色を引き裂き、戦場に吹き荒れる。
この戦いに勝てば、この戦争は一週間で終結する──ペトリはクリスティーナ一世の言葉を胸に、馬腹を蹴った。
ただ一撃でこの戦争は終わる──自らの半生、十二年にも及んだ戦争はこれで終わる──ペトリは誰かが言った言葉を胸に、サーベルを振るった。
黒き風が血をまとい、吹雪となる──黒き吹雪──その先頭をペトリは駆けた。
やがて、穿たれた空白に黒竜旗が翻る。
戦列を突破すると、視界が開けた。南に広がる地平線は、どこまでも青く見えた。
突破口は開かれた。あとは、どこへでも駆けていける──白煙の向こう、遥かなる地平線には、〈教会七聖女〉の天使の錦旗がはためいていた。ペトリはサーベルの血を拭うと、その切っ先を天使の錦旗へと向けた。
後ろは振り返らなかった。均衡は崩れた。今、〈帝国〉を称える鬨の声は、完全に戦場を覆っている。
教会軍の戦列は完全に混乱していた。敵兵の大半は硬直しているか恐慌状態に陥っており、戦意はほとんど見られない。天使の錦旗も明らかに動揺している。
しかし、未だ踏み止まる者たちもいた。
名乗りを上げる声が虚空に響く。天使の錦旗を目指すペトリらの行く手に、数十騎の教会騎士たちが立ち塞がる。
騎士──かつての戦場の支配者であり、〈
ただ一個の武勇が勝敗を決する時代はすでに終わっている。殺し合いはすでに体系化している。いくら華美な武具で身を着飾り、古今無双の武勇を誇ろうとも、規律ある軍隊の前でそれは無力である。
ペトリは弓を手に取ると、馬を狙い、矢を放った。
最前列を担う左右の者たち──騎馬民の血を引く同胞たち──も、ペトリに続き一斉に矢を放つ。
矢雨が騎士たちを貫く。全員が落馬したが、しかしまだ半分ほどは立ち上がり、剣を握っている。
ペトリは雄叫びを上げ、突っ込み、踏み潰した。一瞬、鉄と肉と骨が潰れ砕ける音がしたが、すぐに後続の馬蹄の隅に消えていった。
女王陛下のために、遥かなる地平線に血の雨を──吹き荒れる北風に、また鬨の声が響く。
ペトリはサーベルの切っ先を再び天使の錦旗へと向けた。風は冷たかった。手は血に濡れてなお、まだ震えている。
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