第一章 冬の終わりに流れる血

北風をまとう黒竜旗

1-1 王の声  ……ヴィヴィカ

 夜が光る。


 光輝く夜に、北風が吹く。冬は終わろうとしているが、空は重暗く、平原にはまだ雪がちらついている。

 風の吹く先、〈帝国〉の黒竜旗がはためく野営地の一角に、松明を持った兵士たちが何千と集まり始める。無数の光は道となり、そこに訪れた燃える心臓の黒竜旗を夜の闇に照らし出す。


 夜の光に照らされた〈帝国〉の皇帝旗のもと、一人の女が道を進む。

 王冠を模した兜がその身分を表す。喪装のドレスに華美な意匠の儀礼用甲冑パレードアーマーを組み合わせた軍装は唯一無二のものであり、無骨な甲冑の群れの中で圧倒的な異彩を放っている。

 燃えるように赤い女の瞳が、夜を睥睨する。

 青骸布せいがいふをまとう近衛兵を引き連れ進むその姿は、物々しい男たちの中でも全く見劣りしなかった。まだ少女の面影を残す十九歳は、しかしすでに王者の風格を備えていた。


 戦いの前夜、〈帝国〉の皇帝クリスティーナ一世は従軍する諸軍団を視察していた。皇帝近衛兵のヴィヴィカは、近衛兵長のホルンら皇帝の最側近らとともに、そのすぐ後ろに従い歩いた。


 クリスティーナは整列する兵士一人一人の顔を眺めながら、ゆっくりと、光る道を歩いた。彼女は笑顔を振り撒きながら、まるで友人と接するかのように兵士たちと話した。

 兵士たちはみな、いい顔をしていた。自らの君主、若き黒竜の女王を前に、兵士たちは興奮していた。黒竜の遺児と称されるクリスティーナへの歓待は、地を覆い、雪をかき消し、濁った夜空を晴らさんばかりに轟いていた。それを見るクリスティーナの横顔は、とても嬉しそうな色をしていた。


 しかし、いつまでも鳴り止まぬ歓声をヴィヴィカは目で制した──皇帝陛下がみなに語りかけようとしている──ヴィヴィカと目が合うと、大抵の者はギョッとして黙った。

 容姿端麗かつ意匠を凝らした最新の甲冑で着飾る青骸布せいがいふの近衛兵の中で唯一、ヴィヴィカは口元をマスクで覆い隠し、騎馬民を出自とする軍装をしていた。毛皮の兜、軽装の革鎧、そして弓と矢は、帝国人から見れば〈東からの災厄タタール〉で大陸を蹂躙した蛮族の軍装だった。

 一人が黙ると、連鎖的に声は静まっていった。ヴィヴィカがさらに目をやると、兵士たちは一人また一人と姿勢を正していった。


 ヴィヴィカはクリスティーナに目配せし、頭を下げた。静まった場を前に、クリスティーナは深く息を吸うと、声を上げた。


「今夜はよく集まってくれた! 黒竜の軍旗の一翼を担う〈帝国〉の子らよ!」

 王の声──美しく威厳に満ちた声が、夜に響く。

 若き女王の一挙手一投足に、全ての視線が注がれる。その視線はどれも熱く、強い。

「〈帝国〉の勝利のため、我が父の仇を討つため、そして大陸に真の平和を取り戻すために戦う勇者たちよ! 忠実な兵士であり、屈強な戦士であり、誇り高き騎士であるお前たちとここまで来れたことを、明日、共に戦場に立てる幸運を、私は誇りに思っている!」

 戦争初期、燃える心臓の黒竜旗とともに戦場を駆け、〈教会〉の十字架旗を震撼させた〈帝国〉の英雄の一人娘は、その跡を継いで皇帝となった。そして二週間前、十九歳になった〈帝国〉の若き女王は、戦死した先帝の仇を討ち、十二年に渡る戦争を終結させ、大陸に真の平和を取り戻すという大義名分を掲げ、〈教会〉への軍事侵攻を開始した。

「今、我らの行く手には三人の聖女が待ち構えている! 〈教会〉の信仰生存圏を守るべく派遣された、愚かなるユーロニモスの使い走り、〈教会七聖女〉のうちの三人だ!」

 破竹の勢いで南へと進軍する帝国軍に対し、〈教会〉の国家元首である教皇ユーロニモス三世は、信仰の導き手である〈教会七聖女〉のうちの三人を軍の旗印とし、信仰生存圏防衛に差し向けた。

「明日は両軍ともに旗印が女という、世にも珍しい戦いとなる! おそらく、後世の歴史は明日の戦いをこう記すだろう! 戦乙女たちの会戦と!」

 戦乙女たちの会戦──両国の首脳と主力が居並び、動員兵力も両軍合わせて十万を超える大会戦である。明日の戦いは、文字通り両国の雌雄を決する戦いになる。

「明日、私はお前たちと共に戦場に立つ! ここにいる青骸布せいがいふの騎士たちを連れ、お前たちと共に〈教会〉の十字架旗を踏み潰す! 敵の屍で墓標を築き、神の名の許に流された血をもって偉大なる先帝を弔う! 我らが故郷、その北限より吹く大いなる北風に、必ずや〈帝国〉の勝利を報告する!」

 大仰な身振り手振りで語るクリスティーナの言葉が熱を帯びる。夜を支配する王の声は、すでに十分に高まっていた兵士たちの士気を際限なく燃え上がらせる。

「父より譲り受けしこの燃える心臓は、常にお前たちと共にある! 明日、愛おしきお前たちの勇姿、その一挙手一投足から死に至るまで、私はこの目でしかと見ている! もしも明日、我らが死で別たれることがあったとしても悲しむことはない! 明日、我々は歴史となる! 我々は勝利とともに歴史に名を遺す! 我らの、勇者たちの、英雄たちの戦いは物語となり、永遠に人々の心に生き続けるのだ!」

 強き北風が吹き、燃える心臓の黒竜旗が翻る。王の声は風となり、そして光り輝く夜を吹き抜けた。


 女王陛下万歳──女王の言葉が終わると同時に、男たちの雄叫びが夜に轟く。


 際限なく燃え上がる高揚を前に、ヴィヴィカは初めてクリスティーナに話しかけられたときのことを思い出した。

 現場の兵士たちのほとんどはお世辞にも柄がいいとは言えない。多くは貧しい下層階級に生まれ、他人どころか親にすら褒められたことのないような連中である。しかし、女王はそんな男たちこそを愛した。決して多くを知らずとも、自らのために無邪気に命を懸けてくれる者たちこそをクリスティーナは信じた。


 ヴィヴィカは同じだった──女王は、信じてくれた。蛮族と蔑まれてきた騎馬民に、北風の騎士の二つ名を与えてくれた。傷だらけで男のように醜い女を、姉のように思うと言って愛してくれた。


 歓喜する兵士たちの姿に懐かしさを覚えながらも、しかしヴィヴィカは警戒を怠らなかった。平均的な女性の背丈のクリスティーナと比べ、ヴィヴィカは並みの男よりも大きい。男たちの中でも周囲は充分に目視できる。

 皇帝の周りにはあらゆる人間がひしめき合っている。将兵、家臣、同盟諸家……。間諜、暗殺者、裏切り者……。皇帝は常に死と隣り合わせで生きている。あらゆる死から主君を守ることが、ヴィヴィカら皇帝近衛兵の務めである。


 いつまでも鳴り止まぬ歓声の中、近衛兵長のグレン・ホルンがクリスティーナに耳打ちする。

「陛下、そろそろお時間です。次に向かいましょう」

 ホルンの声にクリスティーナが頷く。ホルンが移動の指示を出し、近衛の騎士たちがそれぞれに動き始める。

 兵士たちの歓声に向かい、クリスティーナが再び声を上げる。

「みんなありがとう! 今夜は楽しかったわ! 明日もよろしくね!」

 夏の日の少女のようにはつらつとしたクリスティーナの笑顔に、また大きな歓声が湧いた。クリスティーナは別れを告げると、再び光る道を歩き始めた。


 鳴り止まぬ歓声を背に、女王が次の視察場所へと進む。

「お疲れ様でした」

 ヴィヴィカはクリスティーナに声をかけた。

「みな、いい子たちだった。明日、あの中のいくらかは帰らぬと思うと残念だわ」

 雪のちらつく夜空を眺めながら、クリスティーナは呟いた。夜の光に覗く女王の横顔は暗かった。しかしその赤い瞳は、夏の業火の如く燃えていた。

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