3
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モラトリアムはあっさりと過ぎ去った。
あと一時間で期限がくる。
居間でリカと二人話していると、壁をすり抜けるようにして”神”が現れた。
「やあ」とやつは言った。「もうすぐ滅ぼしちゃうけど心の準備はできたかい?」
俺はその質問には答えず、リカのほうを見た。彼女は異形の神にもたいした驚きをあらわさなかった。いつもどおりの瞬きをくりかえしている。
「そういう話は娘の前でしたくない」と俺は言った。
“神”は頭骨を左側にゆっくりとかしげた。
「ふうむ」と真意の読めないうなり声をあげた。「そうだね、ごめん。ともあれ、あと一時間だからね」
「わかってる」
次の瞬間、やつの姿はすでに消えていた。薄い霧の膜が風に飛ばされるような感じで、もはやそこにはなにも残っていなかった。ぽっかりとした空気の空洞らしいものができているだけだ。
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いっしょにベッドへ入り、リカを強く抱きしめた。
あまりにも、小さい。か細い。その身体を抱きしめた。彼女はほどなくして眠った。俺はなんだかおかしくなって少しだけ笑った。
あと三十分だった。電気の供給は切れた。燭台の上の灯が揺れている。
俺も眠ることにした。
世界の終りなんて見たくなかった。
このまま、目を閉じてしまえば、すべてが終わってくれる。
俺は目を閉じた。
心は穏やかに揺れていた。
深く、眠った。
∝
目を覚ました。
俺はその事実の異常性を遅れて理解した。
おかしい。本来ならば目を覚ますはずがないのだ。人類は滅び、世界は終りを迎え、同時に俺も死んだはずなのだから。
隣にリカの姿はなかった。俺は急いでベッドを降り、一階に降りた。外に出た。異様な静けさがそこにはあった。有無をいわさぬ、ある意味で暴力的な静けさだ。草や土、雲までもがすべてつくりもののように見えた。出来の悪い張りぼてのようだ。それだけではない。目の前を漂う空気にすら、哀しいほどの白々しさが感じられた。あらゆるものの手応えがない。俺の目はただしく空間を捉えているのか。俺はただしく呼吸をできているのだろうか。血の流れは? シナプスの信号は?
応答はなかった。
地球を地球たらしめていたものが、そっくりそのままくり抜かれてしまったような光景が、目の前に広がっている。
世界はたしかに終わったのだ。
居間に戻りテレビのリモコンをとった。だが、当然そこにはなにも映らない。電源さえ入らない。俺はしばらく呆然としていた。ソファに座り、なにを考えるでもなくフローリングの継ぎ目を眺めていた。
そしてリカを探しはじめた。家のなかをすみずみまで調べる。ベッドの下。クローゼット。シャワールーム。家にいないことがわかると、湖のまわりや森のなかを調べた。どこにもいなかった。俺は腹のなかにごわごわした異物をねじ込まれたような感覚を得た。それは俺を内側から圧迫しつづけた。また森のなかをしばらくさまよい、大樹の根元に嘔吐した。胃液だけしか出てこなかった。
俺はそこで自分がやるべきことを直観した。体液の逆流の苦しみを味わいながら、その気づきに感謝した。俺は森を抜け、自宅に戻った。
“神”が俺を待っていた。
「人類は必要な生贄を用意できなかった」と玄関口に立っていた”神”はそう言った。「最終的に何人が集まったと思う?」
俺は答えなかった。
「128万439人」とやつは続けた。「ぜんぜん足りない。最後にはね、国民をむりやり犠牲者に立候補させようと、各首脳がずいぶんな醜態をさらしていた。国家間で戦争みたいなことさえしちゃう始末だ。ロシアに爆弾が落ちたのは知ってるかい?」
「俺は生きているのか?」向こうからの質問を無視して、俺は訊いた。
「見てのとおり」とやつは応えた。「不服かい?」
「なぜ生かした。さっさと殺せ」
“神”はため息をついた。
「キミのことは好きなんだ。『E・T』を貸してくれたし、なにより、キミは興味深い一面を備えている。もうちょっと見ていたいなと思ったんだよ。だからキミだけ残しておいた。ちなみにキミ以外の人間はみんな死んでる。キミはたいして悲しくないだろう、そのことについて?」
「悲しくはない」と俺は答えた。
「少しは誇りに思ってもいいんじゃないかな。キミは最後の人類だ」
「俺は今から死ぬ。命を断つ」
“神”は困ったような表情を見せた。いくらか、やつの感情が読み取れるようになってきた。やつはしばらくなにかを考えたのち、ゆっくりと訊いてきた。
「せっかく生かしておいてあげたのに?」
「いらない配慮だ」俺は歪にゆがんだ頭骨を見上げる。「このまま生きていても、なんの意味もない。俺の世界はもう終わったんだ」
「キミがこの世界にそこまで愛着を持っていたとは思わなかった。ワタシの計画についてまったく抵抗を示してこなかったから……」
「俺の世界とは、娘の存在のことだ」
言いながら、俺は家のなかには入っていく。
「あいつがいないのならば、俺には生きていく理由がない。ただのひとつも」
キッチンの引き出しを開け、自動小銃を取り出す。
“神”はその様子をじっと眺めていた。俺が弾をこめているあいだ、ぴくりとも動かなかった。だが、やがてその静かな停止の反動のような形で、小刻みに身体を震わせ、おかしそうに声をあげはじめた。不気味な、くぐもった音の震えが部屋に満ちた。あらゆるものの輪郭が震え、たちまち溶け出してしまうような声だ。
「なにがおかしい」と俺は訊いた。
「キミは本当に興味深い生物だね」とやつは言った。
俺は拳銃をテーブルに置く。発射準備は整い、トリガーを引くだけの状態になっている。
「興味深いだと?」俺は訊く。
「うん」と”神”は応える。依然として、愉しそうに笑っている。
「なにがだ」
「キミは僕に腹を立てているね。キミだけを生かし、娘さんはほかの人間たちと同じくあっさりと消してしまったことにたいして」
俺はやつを睨みつける。返事はしない。
「だけどね」とやつはつづける。「こんなことを言ってしまうのは酷かもしれない。だけど言うよ。いいかい、キミには最初から娘なんていやしない。この家にはキミひとりしかいない。キミはたったひとりで、これまで生きてきたんだ」
俺は一度置いた拳銃を再度手に取る。
「だからね、言い訳がましくなるかもしれないけれど、ワタシはキミの娘を消してはいないんだよ。だってそもそも存在しないものだからね」
銃口を口内に押し込む。脳の中心が銃弾の軌道上に入るように意識する。
「そう考えると、わかるだろう? キミの娘を消したのはキミ自身なんだ。キミはわかってて……」
やつの言葉は最後まで聞こえなかった。
俺の眼前で閃光が爆ぜた。不思議と、火薬の匂いだけが感じられた。閃光の後には深い暗闇が拡がっていた。俺を包み込んだ。俺は安堵した。
∝
おかしい。
俺は自宅に戻っていた。手には拳銃が握られている。俺は迷わずそれを眉間に押し付ける。そして引き金を引く。弾は発射された。凄まじい轟音とともに。頭の中心に明らかな空洞ができる。だが、俺は生きていた。
“神”が立っていた。
「ワタシは神だから」とやつは言った。「どんなことだって実現できる。キミが想像できることも、できないことも」
俺にはやつの言っている意味がわからなかった。ただ、口をあんぐりと開けて、やつを見上げた。
「キミは死ねないよ。そう設定した。キミがこれからどうなっていくのか、すごく興味が沸いたんだ。だれとも共感を得られないまま生きてきて、大人になってから想像上の子供をつくった。そしてそれを消してしまった。そんな男が、ほかに人間のいなくなった地球で、いったいどうなるのか」
「……ふざけるな」やっとの思いで出た一言はそれだった。
「新生物を地球に移動させるのは百年くらい遅らせても問題ないからね。それまではキミがこの星の王だよ」
なにかを言いたかった。だが、もう声が出てこなかった。冷たい汗が身体の各所から噴出していた。吐き気をおぼえた。
「悪く思わないでよ。ワタシは意地悪なんだ。そして全能なんだ。キミにはどうしようもない。最初からわかっていただろう」
俺の身体は痙攣をはじめた。視界がかすみはじめた。
「さ、『E・T』みたいに別れよう」やつはそう言って、俺のほうへ近寄ってきた。そして、目の前にかがみ込み、言った。
「いい子でね」
∝
俺は歩いている。
周りには砂ばかり。それ以外にはなにもない。砂。両足を引き込もうとする砂、風に乗って身体中に打ちつける砂、まとわりつき、皮膚を浸食しようとする砂。
俺は歩いている。
周りには砂しかない。
【短編小説】リスミー 仲田日向 @pulpfiction2
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