サカバリの目が消えても

円山なのめ

第1話

オレは容子ようこちゃんの右手の親指。

オレに両目ができたのは、つい最近だ。

容子ちゃんは公立中学の三年生。だけど二年の途中から、中学校へは通っていない。

週に一回、同級生の有理ありちゃんが、学校のプリント類をまとめて家に届けてくれる。

ふたりは同じマンション、同じ階に住んでいる。

オレに目を描いたのは、絵を描くのが好きな有理ちゃん。

「容子。あんた、右手の親指、爪噛んでるね。そのぎざぎざは、ひどすぎる。あ、そうだ」

有理ちゃんは油性の極細なまえペンを取り出すと、容子ちゃんの横に並んで、有無をいわさず右手を取った。ぎざぎざの爪の表面に、ぐいぐいふたつの目を描いた。

一重の吊り目、三白眼、下まつげ。ふたりの好きなアニメに出てくる男性キャラの目だとすぐわかる。登場話数は少ないけれど、一定数、コアなファンがついているキャラだ。

「あ。サカバリ」

「正解。ボクの画力、すごくね?」

サカバリ由来のオレの目を、女子ふたりの顔がのぞき込む。

下がり眉に細い目、ほっぺたのむっちりとした方が容子ちゃん。

腰まで髪を伸ばしているから、百人一首の絵札のお姫様みたいだ。

着ているのは十二単じゃなくて、もう一週間は着替えていない、グレーのルームウェアのLサイズだけど。

有理ちゃんは小柄でショートヘア。小学生時代のあだ名が「ありんこ」だった、というのがよくわかる。日に焼けた顔の中で、てらっと薄青い、油を塗ったみたいな白目と、大きな黒目が光っているのが印象的。

容子ちゃんがまじまじオレを見た。

「有理ちゃん、やっぱ、上手。サカバリの顔、ぜんぶ描いてほしい」

「描けるけど、描かない」

キヒヒヒ、と笑って有理ちゃんは容子ちゃんの親指、つまりオレを、ぎゅっと握って、ぱっと離した。

「目だけっていうのが、いいんじゃないか。もう、噛んじゃだめだぞ。サカバリの目が、じーっと見守ってるんだから」

有理ちゃんはまじめな話をしたいとき、必ず最初にちょっとだけ、下品に笑う。そのギャップがふしぎに色っぽい。ざらっと耳に残るハスキーボイスと、男子っぽいしゃべり方のせいもあるかもしれない。

「んー。気をつける。ありがと」

容子ちゃんの声は、ちっともありがたそうじゃない。

でも、心拍数がぐん、と上がったのが、心臓から遠い位置のオレにもよくわかる。

なるほど。これが、有理ちゃんなんだな。

オレは容子ちゃんの一部だから、目ができる前から、知ってはいた。

容子ちゃんが、有理ちゃんという子を好きだ、っていうことを。

容子ちゃんが学校に行かなくなったきっかけが、有理ちゃんだ、っていうことも。



有理ちゃんは父親の転勤で、中学入学と同時に引っ越してきた。

一年生のときはクラスも同じ。好きなアニメの話をしたら、推しキャラもかぶっていたものだから、ふたりはすぐに仲良くなった。

はじめのころは有理ちゃんが、容子ちゃんについて回っていた。容子ちゃんが美術部に入るといえば自分も入り、容子ちゃんが小学生から通っている塾にも通い始めた。

「容子ちゃんが友だちでよかったぁ」

おすすめの店。同級生の名前。地元のことをあれこれ質問されるたび、頼りにされるのが嬉しくて、容子ちゃんは知っていることはなんでも教えたし、知らないことは調べて教えた。

関係が変わったのは、二年生から。

まず、クラスが別々になった。

次に有理ちゃんが美術部をやめた。顧問の先生に、いい加減アニメ絵ばかり描くのやめなさい、と言われて喧嘩したのと、陸上部からスカウトされたのが理由。

転部した有理ちゃんは、部活が忙しいからと、塾もあっさりやめてしまった。

「有理。あんたと容子ちゃん、並んでると、黒アリと白アリみたいだね」

部活が朝練禁止になる、テスト一週間前のこと。

久しぶりにふたりが並んで登校していたら、陸上部の同級生が割り込んできた。

「ボク、白アリなんて、見たことない」

「きのう、うちに床下点検で業者の人来てさ、言ってたよ。白アリってゴキブリの仲間でさ、天敵は黒アリなんだって。有理と一緒にいると、容子ちゃんが食べられちゃうかもしんない。天敵、引き離してあげるねっ」

陸上部の子が、有理ちゃんの腕をつかんで走り出す。

容子ちゃんはうっすらほほえんで見せ、ゆっくり歩いた。

有理ちゃんが戻ってくるのを待ちながら。

でも有理ちゃんはいつのまにか、自分の腕をつかんだ子を引きずるように先に走って、みるみる遠ざかっていく。

「ゴキブリなんて食べたくないよぉー」

笑いながら叫ぶ声が、容子ちゃんの耳にはずっと響いていた。



有理ちゃんにとってはその場のノリ、なんてことのない一件だったんだろう。

「ねえ、来週、体育祭だよ。ボク、選抜リレー出る」

プリントを渡しながら、無邪気にそんなことを言ってくる。

「すごいね」

「あとで先生も電話するって言ってた。観にだけでも来なよ」

「有理ちゃんのおかげで、学校のようすがわかるわ。ほんとにいつもありがとう」

仕事が休みで家にいた容子ちゃんママは、素直にありがたがっている。白アリの件を知らないからだ。そもそも容子ちゃんママは容子ちゃんに、学校に行かない理由を訊いたことがない。登校しろとせっついたこともない。

「定期試験をちゃんと受ければ、卒業はさせてもらえるでしょう。そうしたら、今はいろんな形態の高校があるから大丈夫」

職場でボーイフレンドができてから、ママは万事に楽天的だ。

カメラマンだったというパパとは、容子ちゃんが生まれてすぐに離婚していて、容子ちゃんにはパパの記憶がない。

容子に似て無口だったわよ、とママは言う。

「たまになにかしゃべるんだけど、言ってることの意味が、なんかいつも、よくわからない人だったわねえ」

容子ちゃんは、自分はパパ似だから無口なわけじゃない、と心の中で思う。

言ってることの意味がよくわからない、思われるのが怖いから、人としゃべるときにとても、神経を遣っているだけだ。

結局、無口になるのなら、それがパパ似ということになるのかもしれないけれど。



ところで、オレは、恋を知った。

相手は右足の親指だ。

意識したのは、オレに目ができた直後の爪切りのときだった。

人差し指と力を合わせ、爪切りを持っていたオレは、右足の親指に近づいた瞬間、皮膚の毛穴が開くのを感じた。

一目惚れだった。

右足の親指の爪は大きく、鏡みたいに澄んでいる。全体に、ふっくらしたまるい形で、優しげで、同時に力強い。なめらかな曲線の内側に、なにか張りつめたものがあるのも魅力だった。

関節の数はふたつで、オレとおそろい。関節が三つの他の指に比べ、ずんぐりむっくりに見えるのにもシンパシーを覚える。

それを言うなら左手の親指はオレに瓜二つ、左足の親指は右足の親指そっくりではあるけれど、オレはそのどちらにも、右足の親指ほどには惹かれなかった。

自分に似過ぎているものや、遠すぎるものにはそれほどの魅力は感じないものらしい。

右足の親指と、オレ。

同じ親指なのに、あいつは足、オレは手、住む世界がまるで違っている。

同じ右側なのに、思うように会えないもどかしさ。オレの恋心はいやがうえにも高まった。

この思いは相手に伝えることができない。誰に訴えることもできない。

だってオレには口がない。

仮に有理ちゃんが口を描いてくれていて、オレが告白できたとしても、そもそも右足の親指には、それを聞く耳がついてない。

それでも好きな相手ができたことで、オレの日々の暮らしにはハリが出た。

いやしくも生きものなら、求愛対象には自分のいいところを見せたい。

オレに目ができたあの日以来、容子ちゃんは爪噛みをやめていた。

オレの内面の充実も手伝って、オレの爪は、ぐんぐん伸びていった。



「お。きれいになってきたじゃん。さすが、ボクの描いたサカバリの目だ。効果てきめん」

オレの様子をチェックしながら、有理ちゃんはご機嫌だ。

「容子ちゃん、体育祭、来なかったね。ボク、大活躍だったんだけど。選抜リレー、トップでゴール」

「おめでとう」

「なんで来なかったん」

「校庭、暑いし」

「そんなこと言ってっから、こんなんなるんだよ」

有理ちゃんが無遠慮に掌を突き出して、容子ちゃんの腹の肉を押した。

「ちょ、やめ」

「ひゃあ。ぶよっとした。あんた、体動かさないと、マジやばいって。柔軟だけでも、毎日やりな。ボクとの約束」

有理ちゃんが、骨ばった小指を差し出す。ふたりは指切りげんまんをした。そのときオレはふたつのときめきを感じた。ひとつは、容子ちゃんの。もうひとつは、容子ちゃんの小指の。小指のやつ、有理ちゃんのごつごつの小指にときめいたらしい。

そうか。

オレたち、体のパーツの気持ちだって、伝わるときには伝わるんだな。

諦めなければオレの思いも、いつか右足の親指に届くに違いない。

オレの熱意も後押ししたのか、その日から毎日、容子ちゃんは柔軟運動を始めた。

前屈しても容子ちゃんの手の指先は、腹のぜい肉がジャマをして、なかなか爪先まで届かない。爪切り以外では滅多にない、右足の親指に近づけるチャンスなのに、オレと相手との間には、三十センチ以上も距離がある。

容子ちゃんは、諦めなかった。オレもだ。

回を重ねていくうち、気がついた。

右足の親指のほうからも、右手の親指、つまりオレに、もっと近づきたいという信号が送られてきているということに。

オレは歓喜した。

オレたちは両思いだ。オレと右足親指は、やはり、赤い神経の糸でつながれているんだ。

近づいて、互いに皮膚を触れ合って、常在菌を交換したい。いっそ悪玉菌でもいい。

その瞬間が来るのをオレは、いや、オレたちは、関節を長くして待ち望んでいた。



定期試験のほか、月に数回、気が向いた日に、容子ちゃんは保健室登校をする。

学校カウンセラーや保健の先生、時間が合えば担任の先生とおしゃべりをして、配布プリントをもらって帰る。

登下校の時間を外して行くから、同級生に会うことは滅多にない。

この日は例外で、しゃがんで靴を履き替えていると、ばたばたと階段を下りてくる足音がした。容子ちゃんは反射的に来客用のシューズボックスの陰に隠れた。

「あー、中体育の準備かったるい-。ね。今日、容子ちゃん来てたって?」

「うん。一限めに、窓から見えた。歩いてくるとこ。すごい太っててびっくりだったよ。よかったね、有理」

「なにがだよ」

聞き覚えのある同級生たちの声に混じって、有理ちゃんの声がする。

「本人来てたなら、プリントお届けボランティア、今週はお休みできるでしょ」

「不登校の友だちの面倒見て、えらいな、有理は。受験のとき、自己PRカードに書けそうだよね」

「バーカ。書くか、そんなこと」

「でも確実に先生の心証はいいよね」

「あんたらの汚れた価値観で、ボクを判断しないでほしい」

「あはは。言われちゃった」

「でも、ほんと、ふしぎなんだけど。なんで有理みたいなおしゃべりが、あの子みたく、なに考えてるかわかんないような子と仲いいのか」

「仲いいっていうか。同じマンションだし。……腐れ縁だよ」

有理ちゃんたちが遠ざかり、あたりが静かになってから、容子ちゃんがぽつりとつぶやいた。

「なんか、アニメみたい。聞きたくない話、物陰で聞いちゃう、なんて」

容子ちゃんが、オレを唇のそばに近づける。

爪を噛みたくなったんだ。

オレと容子ちゃんの目が、至近距離でかち合った。

見てるぞ。容子ちゃん。

オレはせいいっぱい目を見開いた。

見守ってるぞ、オレは、ここで。

「ふう」

容子ちゃんは大きな息をひとつ吐いた。

爪を噛むかわりに、唇をぎゅっと結んで、拳を握って、立ち上がった。



有理ちゃんは腐れ縁と言ったけど、本当にそう思っていたら、噛み癖のある指に絵のおまじないを描いて、ぎゅっと握ってきたりはしない。

遠慮のない、きつい言葉で、太りすぎを注意したりもしない。

容子ちゃんにも、それはわかっている。

だけど有理ちゃんが他のみんなといるときは、容子ちゃんと仲がいいことを、ああやって隠しているとわかってしまった。

家に帰った容子ちゃんは、真っ先に母親の部屋に入って、マニキュアの除光液を持ち出した。

ティッシュに液をたっぷり含ませて、オレの爪をぐいぐい拭いた。

あっという間に、サカバリの目が消えていく。

オレの視界が、消えていく。

口があったら、オレはこう言い残したかった。

容子ちゃんと有理ちゃんが何度もハモった、サカバリの台詞。

「なにか終われば、なにか始まるさ」



わたしは床に座って柔軟運動を始めた。

ゆっくり、ゆっくり、まずは苦手な前屈から。

最初に爪先に届いたのは、右手の人差し指。

指先を鉤にして引っかけて、つかまえた右足の親指を、右手の親指でぎゅっとくるんだ。まるで抱きしめているみたいに。

右足の裏、右膝の裏が、びんびんに伸びて、痛い。

だけど、耐えられない痛みじゃない。

右側と同じように左側も、手の指で足の指を握り込む。

体は柔らかくなったけど、おなかの肉が減ったわけじゃないから、これ以上、上半身を折りたたむのはむり。

身動きすると、おへそまわりで、行き場のない肉がぶりん、ぶりん、軋んでいるのがわかる。

「確かに、これは、マジやばい」

わたしはうなった。右手の親指の爪が視界に入る。

鏡みたいな、きれいな爪。アニメ絵の目は、あとかたもない。

「バイバイ。ありがとう」

口が勝手にそう言って、鼻の奥がツンとしたけど、わたしは泣かなかった。

柔軟体操が終わったら、マニキュアを買いに行こう。

きらきらにラメが入った、派手なやつ。親指だけ、他の指とは違う色で塗ったらおもしろいかもしれない。

手足の親指、右と左でそれぞれに、ペアのカラーにしてもいい。

わたしは笑った。

おかしい。失恋したはずなのに、まるで恋が始まったみたいにわくわくしている。

右の手足の親指が、接着剤でくっつけたみたいに離れない。

わたしは全身の関節が限界を叫び出すまで、前屈の姿勢を続けていた。     


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