俺の声は、女の子よりもかわいいらしい。

伊勢

誰も俺の声を聞かないで

「お電話いただいているのは、お母様でしょうか?」

「いえ。黒瀬隼斗本人です」



 彼はこころもち低く答えた。そうですか、とコールセンターの女性は明らかに不信感を露わにしている。しかし一応は納得したようだ。隼斗は考える、こういったやり取りが、いったい今まで何度あったことだろうかと。そして深い溜め息を吐いた。隣にいた佑二は、それだけで会話内容を察したらしく、小さくペットボトルのお茶を吹き出した。



「お前も大変だなぁ」



 電話を切ると、佑二がにやりとしながら隼斗に話しかけてきた。冬だというのに、教室に効いた暖房のせいか、彼の額にはうっすらと汗が滲んでいる。



「別に。慣れてるからね」

「やっぱ目をつぶって聞くと、隼斗の声って完全に女の子なんだよな」

「改めて言ってくれなくても知ってますぅ」



 隼斗はわざとぶりっ子口調で応えた。佑二がけらけらと声を上げる。隼斗は、男にしては高すぎる自分の声が、反吐が出るほどに嫌いだった。しかし同時に、こんな馬鹿みたいな音の出る喉で他人が喜んでくれるなら別にいいか、とも諦めてもいる。


 隼斗は薄く笑う。乾燥で唇の端が切れ、血の味が口内に広がった。




 隼斗らは、もうすぐ制服を脱ぎ捨て、大学生になる。四月から彼は東京の私立に、佑二は地方にある国立への進学が決まっていた。



「隼斗は、大学に入ったらバイトすんの?」

「するんじゃないかな、まだ何も考えてないけど。佑二は?」

「俺、イベントバイトやりたいんだよね」

「あぁ。そういうの好きそう」

「アーティストのライブをただで聴けるとか最高すぎるでしょ」

「確かにね。楽しいだろうな」

「隼斗は塾講師やってるイメージ」

「ええ、なんで?」

「なんだかんだ言って真面目だし、面倒見いいからさ」

「えー」



 そんな会話が、どこか頭の隅に残っていたせいだろう。大学生になった隼斗は、佑二の予言通りにまんまと塾講師を始めた。




 隼人が夏から塾講師として勤め始め、早や三ヶ月が経った。高時給なぶんだけさぞかし大変な業務だろう、と隼斗は戦々恐々としていたが、やってみれば意外にものんびりあっさりとした職場であった。業務量も多くはない。今では隼斗と生徒たちとの心理的距離もだいぶ小さくなっている。



「隼斗先生こんにちは!」

「はいこんにちは。葵くん、宿題やってきた?」

「ちゃんとやったよー」



 小学生の葵が、跳ねるようにしてブースにやってきた。この塾は、いかにも安っぽい真白のパーテーションによって、広めの一部屋が十二ほどの空間に区切られている。その画された一つ一つが『ブース』と呼ばれ、そこで講師はマンツーマンで指導を行うようなシステムになっていた。


 葵がランドセルをブースの隅に置く。どれだけの教科書とノートが詰まっているのか、ごとりという鈍器のような音が床を鳴らす。どうやら令和の時代になっても、置き勉は認められていないらしい。隼斗は同情を交えて苦笑する。



「じゃあ、この前の続きから授業を始めようか」

「なんか寝ちゃいそう。きょう体育あったし」

「こら、がんばって起きてないと先生怒るぞ?」

「いいよ怒っても。隼斗先生怖くないから」

「もー。そんなこと言わないでよ」

「ごめんごめん。……っていうかずっと気になってたんだけどさ」

「ん?」

「先生って、男が好きだったりするの?」



 算数ドリルをめくる手が止まる。予期せぬ問いに、隼斗は思わず一拍おいて「えっ」と素っ頓狂な声を上げた。小学生の彼は、黒々とした瞳で無邪気に彼を見つめている。



「なんで?」

「だって隼斗先生、声が女の子より女の子じゃん。それに」

「それに?」

「お母さんが『そうじゃないかな』って言ってた」

「あー……」



 彼は葵の母親を思い浮かべる。確かにそういった、言っては悪いが下世話なことを、気安く口に出しそうなタイプではある、と予感していた。一切の悪気がなく、ひたすらに明るいのだが、誰かに配慮する心に欠けている。



「いやまぁ、確かに俺の声は高いし、声だけの状況ならよく女性に間違われるけど」



 しかし隼斗本人は男性を自認しており、女性になりたいわけでもなく、恋愛対象は女性であった。彼はそれを授業のように葵に懇切丁寧に説明しようと思ったが、直前で思いとどまった。言葉を重ねれば重ねるほど、かえって言い訳がましくなりそうだったからである。


 結局、彼は訊かれたことにだけ端的に答えた。



「俺は男の子よりも、女の子が好きだな」

「そうなんだ」

「実際、付き合ってる女の子いるし」



 一瞬目を見開いた葵は、次には「ふぅん。先生のスケベ」とずけずけと言い放ち、楽しそうに笑った。何も考えてなさそうな本人の反応に、隼斗は少し拍子抜けする。しかし澱のように沈殿した心の重さは取り除けなかった。


自分は声だけで、このように他人から判断されるのか。




「今日は曇り空って感じだね」



 美波の言葉に、隼斗は天を仰ぐ。雲は多少あるが、全体的に青空が広がっている。この田舎の大学付近では特別に空を遮るものなく、秋晴れでとても曇りとは言いがたい。



「この空のどこが?」

「あ、いや、天気の話じゃないよ。君の表情の話」

「ああ。なるほどね」



 隼斗は癖で顎を撫でた。生えかけの髭が指先に心地よい。



「何か嫌なことでもあったの?」



 葵の顔がよぎり、少しだけ気落ちしつつも答える。



「……ううん。別に」



 美波の洞察力には感心したが、ここで正直に言うのは躊躇われた。というのも、隼斗は彼女の前では、自分の声を偽っているからである。


 声を低く出すにあたって、隼斗は自分だけのコツを既に編み出している。喉を十分に濡らし、視線を落として吐息混じりに小さく発声してやればいい。さらに短い言葉に落とし込めば、そうそうこの女声はバレない。


 長くしゃべれないがゆえに、隼斗は美波に話らしい話をできたことがなかった。いつも「ああ」だとか「うん」だとかの片言で済ませてしまう。それでも彼女がよくしゃべる性質だからか、これまで彼は間の悪さや、居心地の悪さを感じたことはなかった。――しかし今日に至っては。



「君って、いっつも話をはぐらかすよね」



 と、隼斗の地声よりもよほど芯の通った低い声が耳を刺した。彼は咄嗟に彼女の顔を見る。美波は今まで見たことない顔をしていた。怒っているような、悲しんでいるかのような、とにかくマイナスの感情を綯い交ぜにした複雑な表情だった。



「そんなつもりはないけどな」

「ねぇ、私と会話するのってつまらない?」

「えっ」

「私、高卒でバカだから、隼斗くんの話し相手にふさわしくないかな」

「美波はバカじゃないよ。それに……」

「それに?」

「美波と話すのは楽しい。君のことをもっと知れるから」

「じゃあなんで、隼斗くんは自分の話をしてくれないの。私も君のことを知りたいよ」

「単に苦手なだけなんだ、話すのが」



素直に伝えると、美波は眉間にしわを寄せた。



「下手でもいいよ。隼斗くんが『今日なにがあった』とか『こういうことで怒った』とか……そういうとりとめのない話が私は聞きたいのに」

「そっか。不安にさせちゃってごめんね」



 隼斗は視線を落として、努めて低く優しめの声で答えた。そして美波を抱きしめる――までの間柄ではなかったので(正直、葵には彼女と見栄を張ってしまった。こんな声で誰が彼女に告白できるのだろう)、代わりに肩を幾度か軽く叩いてやった。そうすると、美波は消え入るような声で問う。



「隼人くんにとって私ってどんな存在?」

「それってどういう……」

「私ね、隼人くんと付き合えたら嬉しいなって思うんだ。でも、それって私ひとりだけが思ってても仕方ないじゃない。だから隼人くんの気持ちも聞かせてほしいの」



 隼人は「それは——」と答えようとして、何も言えなかった。


 喉が限界を迎えていた、水分が足りなかったのである。このまましゃべればいつも以上に、高音の、醜い、女声が、出ることは必至だった。


 ひゅい、と喉を鳴らして隼人は視線を落とす。美波は、隼人の目をじっと見ている。



「何でもいいから言って」

「いえ、ない」



 殆ど息のようにして声を出した。いつもより高音だったが、美波はたじろぎもせず隼人の様子を伺っている。


 そして得も言われぬ緊張感のなか——。


 あろうことか、美波は隼人の脇腹をつついたのである。



「あっ!?」

「もっと上の方がいい? えいやっ」

「やめてよもう!」



自分の意志に関係なく屈託なく笑って、しかしてのち、肝が冷えた。


今の声はあまりにもいつも通りの声すぎたのである。女と変わらない声。気が付いた途端に背中の汗が止まらない。



「おっ、なんかやっと『隼人くん』って感じだ」



美波は、指先をリズミカルに握っては開き——にこやかに言った。



「いや、別に、この声は」

「かわいい声だね。それで、すごく凛としてるっていうか。もういっかい聴きたいからまたくすぐってもいい?」

「やめて……」



隼人が苦笑交じりに降参といったように両手を挙げると、美波もオッケーというように右手の親指と人差し指で輪っかを作った。そして、なんでもないように問う。



「その声、作ってるの?」

「……違う。あの、信じてもらえないかもしれないけどこれは地声なんです。俺はこんな見た目なんだけど。日常生活で地声で話したら、他人から二度見されるくらいにはちぐはぐな外見と声なんだけど」



……と、思わず隼人は早口になってしまう。それは、焦っている女の子の声そのものであった。目の前にいる美波は目を丸くして驚きながらも、細やかにうん、うん、と相槌を入れる。



「私は好きだな、その声」

「えっ」

「無理やり引き摺り出させちゃったようでごめんね」



 そして美波はかすれ声で、教えてくれてありがとうと呟く。大丈夫だと負けじとかすれ声で隼斗が返す。彼女は微笑む。彼も笑う、ぎこちなく。辺りには秋風が吹いている。



「それでね」と美波が言う。

「私の好きな声で聞きたい言葉があるんだけど」



目がらんらんとしている。ほのかな熱に満ちている。


その動作で、隼斗は少しだけこの声を好きになる。彼は咳ばらいをひとつした。



「えっと、じゃあ……」

「うんうん」



 隼人はおずおずと口に出す。

 高いトーンだけれど、確かな自分の声。



「俺は美波のことが——」






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

俺の声は、女の子よりもかわいいらしい。 伊勢 @sakura_ise

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ