あなたを失ったわたしが得たもの

黒星★チーコ

※(前半、真面目。後半、ふまじめ。)

 八月の日曜日。午前11時ごろ。


 殆ど風もないため、窓際の風鈴はその役目を成さない。

 室内に熱気がうねり、まとわりつく。


「ぶぁっっっっっつーい!!」


 絶え間なく湧く汗に耐えられず、パッド入りキャミソール一枚にショーパンというあられもない格好をして扇風機の前に立つ私。

 それだけではなく首には濡れタオル。おでこには冷却シート。右手にはソーダ味のアイス。


「ぶは~休憩休憩。生き返るわ~」


「おねぇちゃん、さっきから何回休憩してるのよ」


 妹の優季乃ゆきのがしかめっつらでこっちの部屋に入ってきた。妹も汗だくだ。


ょうがないじゃん、エアコン取り付けキャンセルしちゃったから暑いんだもん」


 あ、アイス食べながらだから最初噛んだ。


「おねぇちゃんが動かないと終わんないじゃん! だからおまかせ引っ越しコースにしようって言ったのに!!」


「だって殆ど荷物ほどいてなかったんだよ? あと何個か荷物作って貰うだけで10万円近く違うなんて馬鹿馬鹿しいじゃん」


「それはわかるけど!……おねぇちゃん、あんなに凹んでたじゃん。だから暫く何もしないで、引っ越しも後でゆっくりすればいいんじゃないの?」


「…………」


 妹の問いが私の中のまだ柔らかい傷をえぐる。思わず反対を向いた。

 アイスの棒を口に咥えたまま、窓辺に寄り背伸びして硝子製の風鈴を外す。薄水色の硝子を通して見る世界はどこか歪んでいる。

 この風鈴は彼と行った旅行先のお土産やさんで買った思い出の品。


 我ながら、なんでこんなものを引っ越し荷物の箱から一番先に出して飾ったのか意味がわからない。


 ……ううん、本当はわかってた。

 この子の役目は夏の間だけ。それも、今年の出番は特別に短いかもしれないから早く出さなきゃ、と薄々予感していたんだ。

 予感が本物にはなってほしくなかったけど、本物になった。


 窓の外に目をやると、青い空に飛行機雲が走っている。

 まるで私と彼の世界をふたつに分かつラインを引いているようにも見えた。


 ここは、彼が「景色の良さが気に入った」と言っていたマンション。先週から新居……の筈だった。

 振り返って辺りを見回す。壁紙や、床、ペンダントライトなど彼のこだわりがつまった部屋。


「……ふっ、ぐっ……」


「おねぇちゃん……」


 風鈴の紐を握りしめて嗚咽を漏らす私の背中を、優希乃がそっと撫でてくれた。

 私の本当の気持ちを知っているのは彼女だけだ。


 今年の五月。妹や友達から、彼がある女性とデートをしていたという噂を教えられた。


 でも私は彼を信じた。彼は私達との旅行で「あの女の人は友人の一人だ」とキッパリ言ってくれた。

 それに、万が一そんな事があるなら、このマンションを契約する前にちゃんと誠実に正直に話してくれる筈だと思っていた。


 そして先週――――私がこのマンションに引っ越してきた日に、彼がその女性と結婚すると知ったのだ。

 その女性のお腹には、赤ちゃんもいるという。

 ――――私は一時期、少しだけ本気で死を選ぶことも考えていた。


麻優香まゆか、大丈夫?」


 隣の部屋から母も現れた。私は慌てて笑顔を見せる。


「うん、平気平気」


 母は元々、私が彼に夢中になっていくのを心配していた。これ以上心配をかけるなんてとんだ親不孝者だ。


「さっ、ちゃっちゃとやっちゃおう! まずは……グッズは流石に捨てようかな。DVDとかは絶対に捨てないけど……」


『~♪電話だよ。早く出て。~♪』


 テーブルに置いたスマホから突然聞こえる、ムーディな音楽とイケメンボイスにビクリとした。

 しまった!!!


 ゆっくりと母と妹を見ると、なんとも言えない顔をしている。

 ……あちゃー。着信音を彼のボイスに設定したままだったの忘れていた……。


 テーブルに近づきスマホの画面をチラリと確認し、大学時代からの友の名が表示されているのを見て、固まる。

 今はこの男の声は聞きたくない。


『~♪電話だよ。早く出て。~♪』


 うだる室内に響く、場違いな音楽とイケボ。これ以上母に聞かれるのは地獄だ。


 慌てて電話を拒否しようとしたが、一瞬固まった私を見て何かを察した様子の優希乃にサッとスマホを奪われた。

 そのまま応答する。あ、しかも多分スピーカーにした! 余計な事を!!


「もしもし~こんにちは。麻優香の妹です。いつも姉がお世話になってますぅ~♪」


「…………え、あ、どうも。あの、麻優香さんは?」


 スマホから流れる、低くよく響く声には戸惑いの色が漂っている。

 優希乃がこちらを見る。私は両手で口を押さえて左右にブンブンと首を振る。


「今ちょっと手が離せなくて……あ、今戻って来ました! 替わりますね♪」


 なにその三文芝居!!! 酷い!!!

 電話を替わらざるを得なくなった私に、優希乃はスピーカーをオフにしてニッコリとスマホを渡す。


「……もしもし、仲野?」


「うん、俺。今いいか?」


「……うん」


 仲野の声が耳に響いてジリジリと熱を帯びる。

 今の顔を母に見られるのも充分地獄だと思ったら、優希乃が母を連れて部屋を出ていく。最後にドアを閉める前に口パクをした。


 多分、「が・ん・ば・っ・て」って言ってくれたんだ。


 ドアが閉まったのを確認して、会話を再開する。


「……仲野、突然なに?」


「いや、ネットニュースで見たからさ。声優の羽島幸永はしまゆきながが女性モデルと授かり婚!……って」


「そうだよ。遅いよ。もう先週の話だよ!」


「先週って……お前引っ越した後?」


「うん。引っ越し完了した直後」


「うわ、えっぐいな……。だから言ったじゃん、羽島幸永プロデュースのマンションなんて契約するなって」


 電話の向こうで、明らかに引いた様な仲野の声がする。そんな時でも良い声しやがってこいつ。ちくしょう。


「だって! 羽島はっし~が壁紙も床も照明も全部選んでくれてるんだよ!?しかも私の推しのバスケの王子様ッ☆バスプリ☆天上てんじょう君カラーで!!こんなのヲタとしては止まらないじゃん!! それに……」


「それに?」


「五月の旅行の時に、週刊誌に撮られた噂の女性は友人の一人だって言ってたし……」


「ぶはっ、そりゃそう言うだろー? 【はっし~と行く! ラブラブ1日観光バスツアー☆彡】なんてのに行く客は、お前みたいなガチ恋勢ばっかりだろ。そこで『モデルの女の子とホントにつきあってまーす!』なんて正直に言ったら地獄絵図じゃねえか!」


 さっきまで引っ込んでた涙がまた出てきた。

 仲野には、仲野にだけは『』の言葉を言われたくなかった。


「ぐっ…………ふぐぅっ」


「……おい、泣いてるのか」


「泣いてるよ!死にたいぃ……」


「おっ、おい」


「今死んだら、はっし~の子供として生まれ変われるワンチャンあるかもじゃん!」


「……心配して損した。お前、その冗談はタチが悪いぞ」


「冗談じゃないもん! はっし~の子供になれたら、毎日あのイケボで好きだ、とか、かわいい、とか、愛してるって言って貰えるじゃん!! そんなの人生勝ち組じゃん!!」


「…………『好きだ』」


「ぎゃうっ!?!?」


「ちょ、声でかい。似てたか?」


「似っ……まあまあね。天上君の無邪気セクシーさには遠く及ばないけど!」


「そっかー。けっこう周りには似てるって誉められたんだけどな~」


「ちょっと、周りって……他の人にはそのモノマネ聴かせたの!?」


「えっ、そうだけど」


「ズルい! ひどい! なんで私には聴かせてくれないの!?」


「『かわいい』」


「ぎゃあああ!!!」


「だから声がデカイって。……『愛してる』」


「んぎょええ!!!」


「ぷっ、麻優香、かわいい」


「うッわあああああ!! 名前呼びはっ、名前呼びは反則ゥゥゥ!!!」



 ◇◆◇↓(優希乃視点)◆◇◆



 あぁ~、うっさい。やっぱりこのマンションボッタクリだわ。隣の部屋からおねぇちゃんの声が丸聞こえじゃん。

 あ、「名前呼びは反則ゥ!」だって?……ふふん。やるじゃんあの男。

 ついクスリと笑ったら、ママがオロオロしながら私に聞いてきた。 


「ねえ、優希乃、大丈夫なの?」


「ああ、だいじょーぶ♪ ママもさっきの電話の声、聞こえたでしょ?」


「あ、あの、麻優香が夢中になってた声優の羽島……さん? みたいだったけど」


「そうなの。ソックリでしょ。ていうか、逆なんだよね」


「逆?」


「おねぇちゃんさ、大学の頃からあの人、仲野さんの事が好きだったんだって」


「え!?」


「でも当時仲野さんに彼女がいて、好きだって言えなくて、そうしてる間に、バスプリ☆の天上君っていう『上位互換』に出会っちゃったんだって」


「じょ、上位互換……?」


「えーと、仲野さんと声が似てるけど、仲野さんよりカッコ良くて仲野さんより優しくて、バスケが上手いってこと」


 ママがスゴい表情をした。意味わかんない! って顔だよね。完全に。


「だってそれって……アニメでしょ?……それでその声を担当していた人が結婚したら死にたいとか言うくらい泣いてたの……? ワケわかんないわ……」


「ん~ママにはわかんないよね。私もおねぇちゃんこじらせすぎだよ! って思うもん」


「あの子……昔からしっかりしてるようでどこか抜けてたものね……」


「多分だいじょーぶ! 卒業してからも仲野さんとは何度か2人で飲みに行ったりしてるって聞いてたし」


「あら、そうなの? 彼女さんは?」


「とっくに別れてフリーだってさ。それにはっし~に失恋した途端に電話をかけてきてくれるなんて、脈あると思うんだよね! ね、うるさいからほっといて昼ご飯食べに行こ!」


「そうね」


 壁越しにまたおねぇちゃんの叫び声が聞こえけど、その声には嬉しそうな色が混ざってた。多分もう心配ないよね。

 私はそう思ってママとマンションを出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたを失ったわたしが得たもの 黒星★チーコ @krbsc-k

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ