白虎像 その2

 白虎堂の朝は、西院のすべてのお堂と同じく、本堂での朝の勤めから始まり、朝食がすむと、昼までの時間を様々な修行で過ごすのだった。僧達の1日は非常に多忙で、素空と悠才が本堂で調べ物をしていても気にしなかった。ただ、すべての僧が、素空に一瞥いちべつをくれると恭しくこうべを垂れるのだった。

 素空が言った。「悠才様、今朝は本堂に外の明かりが入り込み、夕べとは光の具合がまったく違っています。さあ、よく調べましょう」2人は、悠才が倒れ込んだ方の白虎像を一緒いっしょに調べた。

 「素空様、揺らいでいます。ほら、ご覧下さい」悠才の声で、素空も同じように向きを変えて眺めた。「確かに揺らいでいますね」素空も同意した。

 白虎像は、光を背にした時に揺らぐようで、光の方を見ても揺らぎは見られなかった。素空は、悠才が平然としていることに疑問を持った。

 「悠才様、今日は白虎像からの働き掛けがないようですね」素空の言葉に、悠才が笑顔で答えた。「素空様とご一緒させて頂いているせいでしょう」

 揺らぎはなおも続き、素空と悠才は揺らぐ白虎像の訳を探り続けた。

 素空が言った。「悠才様、白虎像は光と一体いったいになり、日光のもとで、光に溶け込むものと思われます。確かめるには、2体の白虎像を白日のもとに祀ることです」

 「では、早速そういたしましょう」「悠才様、それはすべての御仏を手入れした後にいたしましょう。そもそも、御仏の手入れが勤めなのですから…」素空の言葉に、悠才は落胆したが、従うしかなかった。

 悠才が、呟くようにポツリと言った。「それでは、早く御仏の手入れに打ち込まねばなりませんね!」悠才は、気持ちを切り替えるために、自分に言い聞かせるように言った。

 その後、2人は白虎堂の仏像をすべて見回った。30体のうち2体を火に投じ、3体を手直すことにした。

 「悠才様は、御仏の御手入おていれをお進め下さい。私は、宿坊を借りて3体の手直しをいたします。20日ほどで白虎像に取り掛かれるようにいたさねばなりませんね」素空の言葉に、悠才は微笑みを返した。

 白虎堂は、鳳来山の西側斜面と、京を一望いちぼうする景勝の地にあり、春緑と紅葉の時期は格別の景観を誇っていた。

 天安寺の木々が紅葉する頃、東院や西院の老僧達は頻繁に白虎堂を訪れた。

 「今年の紅葉は格別見事ですねぇ」

 「はい、素空の手直しは進んでいるようで、何よりのことです」

 「素空と言えば、懐地蔵ふところじぞうのでき栄えは見事でした」

 多少頓珍漢とんちんかんな話をしている老僧が3人、境内の西の端に立っていた。最初に口を開いたのは由禅ゆうぜんと言い、次が壱界いっかい、3人目が是高ぜこうと言う。嘗ては明智一派と対立していた老僧達だった。3人は既に心からの回心をしていた。口には出さなかったが、今年の紅葉を清々しい心で眺めることの喜びを実感していた。

 「お3方お揃いで、毎年この時期の恒例ですね…。私もお仲間に入れて頂いても良いですか?」高善大師こうぜんだいしは満面の笑みを浮かべて、3人の老僧に語り掛けた。

 由禅が言った。「高善様、今年の紅葉は随分見事で、ここからの眺めに薬師堂の大屋根が加わり格別なものですね」

 「ほう、なるほど紅葉の向こうに、薬師堂の黒瓦の大屋根が見えますね。去年は既にあった筈なのに、今年になって気付くとは…」高善大師は頷きながら目を細めた。

 4人は暫らく景色を楽しんでいたが、薬師堂の大屋根に何気なく目を転じた時、景色が揺らぐのを感じた。

 「皆様、薬師堂の大屋根の上をご覧下さい。何やら空が揺らいでいませんか?一体どう言うことでしょう?」是高の言葉に、全員が薬師堂の方を向いた。「なるほど、陽炎かげろうのような揺らぎが、大屋根の上から天に伸びているようですね」高善大師の言葉に全員頷いた。4人はこれまで見たことがない現象を、吉兆きっちょう凶兆きょうちょうか計りかねていた。「高善様、興仁大師こうじんだいしに見て頂きましょうか?」由禅の言葉に、高善大師が答えた。「そうですね。釈迦堂に遣いを走らせましょう。そして、折り良く素空が白虎堂におります。呼んで参りましょうぞ」

 「高善様、それは良いことです」3人は、高善大師の言葉に賛同し、揺らぎが消えないよう見守った。

 やがて、素空が遣って来た。「素空よ、あの薬師堂の上をご覧なされ。陽炎にしては妙な揺らぎではないか?」素空は、由禅が言いながら指さす方に、確かな揺らぎを見たが、すぐにハッとして白虎堂の本堂に引き返した。

 3人はあっけに取られたように、素空の後姿と揺らぎを交互に見比べた。

 素空は、白虎堂に着くとすぐに本堂に向かった。本堂の両側の白虎像を確かめるためだったが、そこには白虎像の手入れをする悠才がいた。「悠才様、ずっとこちらにおいででしたか?」素空の問い掛けに、悠才が慌てて手入れの道具を仕舞った。

 「素空様、待ちきれず白虎像の手入れを始めました。あと3体の御仏をそっちのけにいたし、まことに申し訳ありません」そう言うと、悠才は本堂の床に額を擦らんばかりに謝った。

 「悠才様、そのようなことは良いのです。それより、今しがた薬師堂の屋根の上に揺らぎが現れたのです。こちらで、白虎像に何かしらの変化はなかったですか?」

 悠才は、素空の問いにすまなさそうに答えた。「先ほどまで御本堂の御仏を手入れしていましたが、どうにも白虎像が気に掛かり、揺らいでもおりませんでしたので、つい手入れを始めたのです。この白虎様は、昼間はいつも揺らぐのではないと知りまして、安心して手入れをしていたところでした」

 消え入るような悠才の言葉は、もはや、素空の耳に届かなかった。素空の意識は白虎像の向こうにある、薬師堂の揺らぎにあった。

 「悠才様、薬師堂の大屋根の上を検めに参りましょう」素空の言葉で、悠才が元気を取り戻し、素空の後を追った。しかし、2人が老僧達のところに着いた時、揺らぎは既に消えていた。

 「素空や、そなたが白虎堂に戻った後、すぐに消えてしもうたのじゃよ。興仁様がまだおいででないのが残念だよ」是高が言うと、由禅と壱界が頷いた。

 そこに、興仁大師と高善大師が遣って来たが、3人の老僧にことの次第を聞き、これも残念そうに薬師堂の大屋根を眺めるばかりだった。

 素空は、悠才を伴ない白虎堂に引き返した。素空は道すがら、悠才に告げた。「悠才様、御本堂に戻り、白虎像の手入れを先ほどと同じようにして頂けませんか?…どうやら、悠才様の手入れと薬師堂の揺らぎには、何らかの関係があるように思うのです」

 悠才は、素空に言われたように白虎像の手入れを始め、素空は興仁大師のところに戻って来た。

 薬師堂の揺らぎが現れたのを見て、興仁大師が言った。「素空よ、あの陽炎のような揺らぎをどのようにして作りだしたのじゃ」興仁大師は、素空が作り出したと決め込んでいた。高善大師は、素空を覗き込むように見詰め、何やら探っているかのようだった。3人の老僧は、噂通りの不思議を現す素空に畏怖の念を抱いた。

 素空は、白虎像と薬師堂の揺らぎに、何らかの繋がりを見出したが、その意味に辿り着かない今は、軽々に話すことはできないと思った。「まことに申し訳ありませんが、皆目分かりません。あの陽炎のような揺らぎを作ることは、どなたにもできないと存じます」素空は、気落ちした興仁大師を尻目に、白虎堂に帰って行った。

 素空が本堂の白虎像の傍らに立った時、悠才は既に手入れを止めて、素空の顔を覗き込んでいた。何やら一心いっしんに考えている時の素空の面差しには、誰も寄せ付けないほどの気迫があった。

 素空は考えに考えを巡らしたが、どうしても1つの不吉な結末しか考えだせなかった。そして、そのことを確かめるために、悠才を遣いにだした。

 「悠才様、今度は私がお手入れをいたします。代わって、先ほどの場所で薬師堂の揺らぎをご覧頂きたいのです。但し、お大師様方には陽炎のような、揺らぎを見に来たと、だけおっしゃって下さい」素空が言うと、悠才は満面の笑みを湛えて答えた。「はい、承知いたしました。きっと薬師堂の揺らぎと、白虎像との間には、何かしらの因果があると思っておりました。早速行って参ります」

 悠才は勇んで出て行ったが、暫らくすると元気なく戻って来た。「素空様、薬師堂の屋根の上には何の変化もありませんでした。お大師様方も、もう出ることはないだろうと、おっしゃって帰って行かれました」悠才はがっかりしてそう言ったが、素空はこの時、不吉な想像が、現実のものにならないことを願った。

 素空が言った。「悠才様、すべての御仏の御手入おていれがすんだ後に、改めて考えることにいたしましょう。それまでは、手入れのみに専念いたしましょう」

 悠才は力なく同意したが、薬師堂の揺らぎを目にすることができなかったのは、自分の心のせいかも知れないと思った。

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