第12章 白虎像 その1

 白虎堂びゃっこどうは、天安寺の西の外れに位置し、東院と西院の分かれ道から、西方に2町にちょう(200m)ほど入り込んだところにあった。西の斜面には畑を拓いていたため、西院のお堂としては10人ほどの大所帯で、宿坊は東院の十人部屋じゅうにんべやを思い起こさせた。

 既に、悠才が先乗りで手入れを始めていた。悠才の調べでは、白虎堂には30体の仏像と、他のお堂にない2体の白虎像びゃっこぞうがあった。白虎像は、本堂の左右に威容を誇っていたが、仏像とは違い、信仰の対象とされていなかった。従って、白虎堂の僧達は、何時の間にか単なる置物のように見ていた。

 悠才は仏像を調べ終わると、白虎像に心を奪われたように、その場に立ち尽くし、何やら物思いに耽っていた。白虎像には特別な力があると確信していたのだ。心の中で天安寺に上がってから仏像の手入れをする今までのことを、溢れるように思い出して、涙が頬を伝い、今この時が如何に幸せなのか噛み締めていた。

 悠才は、溢れる涙の中で、白虎像が揺らめいたように思った。涙を拭い、もう1度見直した。揺らめいていた。確かに揺らめいていて、次第に大きく揺らぎだし、倒れるほどに揺らめいた時、悠才は意識を失いその場に倒れ込んだ。

 悠才が目覚めたのは、白虎堂の宿坊だった。僧達に囲まれて目覚めたせいで、どの顔にも焦点が合わず、まだ目眩めまいが残っているようだった。

 「気付いたかな?ここは白虎堂の宿坊だよ。1時いっとき(2時間)ほど前に本堂で倒れていたのを、わしが見付けて運んで来たのじゃよ」そう言うと、優しく微笑んだ。僧の名は高善大師こうぜんだいしと言い、白虎堂の座主だった。

 悠才は周りの僧達をグルッと見渡し、感謝の言葉を繰り返した。その後で、高善大師に人払いを願って2人になり、白虎像の揺らぎのことを確かめようと思った。

 「私が倒れたのは、私の体に悪いところがあったのではないような気がするのです。あの時、今の幸せな日々を実感していたところで、御仏の御慈悲に心から感謝をいたしておりました。白虎像が幻想を起こさせ、今の幸せを実感させたように思えて仕方がありません。白虎像には何か不思議な力があるのではないでしょうか?」悠才の質問に、高善大師は浮かぬ顔で笑顔を見せ、暫らくして重い口を開いた。

 「悠才、白虎堂の御本尊は、御本堂の真ん中に御座おわします文殊菩薩もんじゅぼさつであり、真の御姿を現しているのだよ。白虎像は、天安寺の西方の守護と、本堂の両側に配して邪気を払う役目を持っているのだが、それが意図されて彫られたもので、果たして真贋のほどは明らかではないのだよ」

 悠才が確かめるように質問した。「お大師様、白虎像は作られてより今日まで、不思議と言われることを表していないのでしょうか?」

 高善大師が口籠って答えた。「悠才や、わしにもよく分からないのだよ。存じているだろうが、天安寺の4方しほう四神ししんを祀り、その名に由来したお堂を建立したのであるよ。だがな、朱雀すざく青龍せいりゅうは、長い年月の間に朽ち果てたと聞いている。玄武げんぶは百年も昔に、焼失したのだよ。従って、今は白虎だけが残されたのだが、御仏への信仰の故に、今ではただの置物のように扱われているのだよ。察するに、悠才が倒れたことと、白虎像には何の関りもないように思うがな。何せ、御仏の御座します御本堂で倒れたのであれば、御本堂の隅々まで御仏の御威光が及んでいるのであるよ。すべては御仏の思召しと言うことだよ」悠才には、高善大師の口籠った口調の訳が少し分かったような気がした。

 『真贋のほどは、素空様の見立てを待つほかはない』悠才は、高善大師に恭しく礼を述べて、もう暫らく横になりたいと伝えて目を閉じた。

 目を閉じて暫らく、揺らぐ前に自分のこれまでの姿について、思いを巡らしていたことを考えていた。『何故あの時、御本山に上がってから今日までのことを次々と思い出したのだろうか?』悠才は、普段思い出しもしないことまで、何故思い出したのか、今の幸福感をハッキリと認識したことも不思議だった。悠才は素空が来るのを待ちわびながら眠りに落ちていた。

 夕食の時刻になった。素空と悠才は、手入れの仕事先で寝食を受けることになっている。従って、悠才のところに素空が遣って来たのは、申の下刻さるのげこく(午後5時)のことだった。

 「悠才様、如何なさいましたか?…それで、お加減は如何でしょうか?」素空は、高善大師からおおよそのことを聞いていた。

 悠才は喜びを露わにし、目に涙を浮かべて、事の顛末を素空に語り始めた。

 素空は黙して答えを示さなかった。

 「素空様、一体どのような訳でしょうか?」悠才が更に答えを求めた時、素空が小声で話し掛けた。

 「悠才様、そう急がずとも良いでしょう。先ずは、白虎像と対面してからでなければ何も申せません。これから夕餉ゆうげの膳を運んで参りますので、今宵はゆっくりお休みなさいませ」悠才は、素空の気遣いはありがたかったが、焦る心をどうすることもできず、更に食い下がった。

 素空は、悠才を気遣いながらも、根負けした形で、夕食の後、本堂まで一緒に行くことを約束した。

 白虎堂では、夕食の前に本堂で夜の勤めをし、夕食後から戌の刻いぬのこく(午後8時)までが当番や修行の時間で、入浴や剃髪やそれらの片付けもこの時間内にすませることになっている。僧達のくつろぐ時間は戌の刻から半時足らずの間で、身の回りの諸事を片付けたり気ままに過ごしたりした。

 戌の刻(午後8時)になって、素空と回復した悠才が本堂に遣って来た。

 素空はこの日初めて白虎像と対面した。本堂には僧の姿はなく祭壇の中央に文殊菩薩もんじゅぼさつが祀られ、本堂に額ずく僧達を両脇から見守るように白虎像が置かれていた。

 素空は、左手の白虎像の前に座し、経を唱え暫らく黙想した。心を無にし、白虎像からの働き掛けを待った。暫らく後、何の変化もないまま、右手の白虎像の前に座を替え、同じように経を唱えて黙想した。

 素空は目を開け、白虎像を頭から尻尾の先まで丹念に調べた。

 『実によく彫られている。仏像を彫れば真の御姿を現すことができように。四神が言い伝えのものであれば、真の御姿は在りようがないことだ』素空は心の中でそう呟いた。見事な彫りも想像上のものであれば、真実のものとなることは決してない。素空の結論だった。

 悠才が言った。「素空様、今はどんなに見詰めても、何の変化もありません。一体どう言うことでしょうか?」

 素空は、悠才に微笑み掛けて言った。「今宵は宿坊に戻り、明日同じ時刻に調べることにいたしましょう」素空と悠才は本尊の前に座して、経を3本唱えると宿坊に帰って行った。

 宿坊に戻ると、大勢の僧達がほぼ全員揃い、素空の姿に注目した。どのお堂でも素空が訪れた日は決まって注目を浴びた。例え西院の僧と言えども、仏に愛された僧と言われ、噂の絶えない素空の様子を覗わずにはいられなかった。そして、決まったように就寝前の読経が始まると、僧達は素空の後に従い、噂に違わぬことを知るのだった。就寝前の経がすみ、僧達は床に入った。

 素空と悠才は床に入っても暫らく寝付けなかった。悠才は、素空ならすぐに答えられると思っていたが、何故か素空にも分からないらしい。『こんなことがあるのだろうか?素空様がご覧になって、真贋が分からないと言うことはどう言うことなのか』いくら考えても、そこから先に考えが及ばなかった。

 素空はあの時、白虎像の見事な彫りに、魂が宿っていないような無反応を感じた。『白虎神と言うものが想像の産物であれば、どのように優れた彫り手でも魂を込めることができないと言うことなのか?優れた彫り手であれば、人が信ずるすべての物に魂を込めることができるのではないのか?果たして、あの白虎像は明日は魂の息吹を感じさせるのだろうか?』素空と悠才は、思いを巡らせるうちに、深い眠りに落ちて行った。

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