仏師虚空 その3

 「素空よ、並の者は真贋が分かろう筈はないのじゃから、邪気を帯びた顔も分かる筈がないのは察しが付くであろう」素空は無言で頷き、宋隻大師そうせきだいしが更に語った。

 「虚空様こくうさまは、真贋しんがんを言い当てるほどの者の、心のありようを問い掛けているのだよ。人の心は移ろい易く『この門を通るたびに己を見直すべし』そう問うているのじゃ」宋隻大師の言葉は、素空の心に深く沁みた。

 『何んとも、深いお考えのもとに表された御姿に感服いたしました』素空はそう呟き、虚空と言う仏師の名を心に刻んだ。

 2人が仁王門の前で暫らく話をしているところに悠才が遣って来た。「素空様、おいでなさいませ。7日のうちにおよそ5体のお清めを終えています。御本堂は4体を残すのみです」悠才は弾むような声で喜びを満面に表していた。

 素空は、宋隻大師と共に本堂に向かった。本堂で経を3本唱えた時、宋隻大師は、素空の並々ならぬ素養を知り、座を渡した。『聞きしに勝る僧じゃ。天安寺でいたずらに年を重ねた我を恥じるばかりじゃ』間近に素空の声を聴いたのは薬師堂の落慶法要の時以来だった。素空の声は口から出ず、目の上3寸から溢れるように響いた。

 経が終わると、素空は、悠才と玄武堂げんぶどうのすべての仏像を見て回った。仏像は20体余りだったが、そのすべてが文句の付けようがなかった。

 「悠才様、見たところすべて本当の御姿でした。このままお清めを進めることにいたしましょう」素空の言葉に、悠才が疑問を投げ掛けた。

 「素空様、玄武堂に1体の紛い物まがいものもないのはどう言う訳でしょうか?」

 素空が答えて言った。「正確には、4体ほどの手直しを受けたと見られます。仁王門の彫り手と同じ手で修正されていました」

 悠才は怪訝そうに、素空の顔を見てその先を促した。

 「悠才様、50年ほど前に虚空と言う名の僧が、玄武堂の御仏をすべて修正したのです。そのお方は、恐らく私など及ばぬ彫り手だったのです。人の心の奥深いところにある、恐らく本人も気付かない心に問い掛けることのできるお方だったのです」

 素空と悠才は、この日から15日のうちにすべての手入れが終わった。素空と悠才が最後に手入れをしたのは、前門の仁王像だった。2日掛かりで格子の内の隅々まで清め、最後に3本の経を唱えた時、仁王像には邪気がどこにも感じられなかった。その面差おもざしが、穏やかになっていたのだった。

 素空は己の心のありようがこのような変化を示したのだと思い、改めて仏の慈悲に感謝した。「悠才様、この仁王像を1年前に目にしていたら、薬師堂の仁王様の建立は成し得なかったかも知れません」素空が呟くように、悠才に語った。

 悠才は怪訝な顔でその訳を尋ねると、素空はまたも呟くように答えた。

 「薬師堂の仁王像も、玄武堂の仁王像もまさしく本当の御姿を表し、御心も込めらていますが、玄武堂の仁王像は、見る者の心に問い掛けて、善に導くように作られているのです。恐らくは、この門前を通る人々に自戒の心を新たにさせるもので、1年前に目にしていたら、とても及ばぬ腕の差に、挫折をしていたかも知れません。この仁王様を手直された虚空様には敬服するばかりです」悠才は、ポカンと口を開けて自分が知る由もない崇高な世界を語る素空の顔を眩しそうに見詰めていた。

 『どうすれば素空様のように真実を見極める目が持てるのだろうか?』悠才のはやる心は、なお遠い仏道の中でもがいているようでもあった。

 素空と悠才は玄武堂の清めをすませると、道具の一切いっさい白虎堂びゃっこどうに移した。悠才が本尊の清めを始めると、素空は正倉しょうそう憲仁大師けんにんだいしを訪ねた。

 「素空や、玄武堂の手直しを終えたようじゃな。玄武堂は天安寺の北の外れにあり、他のお堂とは趣が違っていたであろう」憲仁大師の問い掛けに、素空が答えた。「玄武堂が他のお堂と違っているところはただ1つ、虚空と言う類稀たぐいまれなる仏師による手直しが施されていたことです。従って、お清めをするだけで早々に仕舞いました」

 憲仁大師は素空の言葉にハッとした。虚空と言う名を聞いた時、東院から西院に移ってすぐに聴いた言葉を思い出したのだった。その頃は既に、虚空の彫り物が魂を持っていると噂され、心よからぬ者は仁王門を通ることができないと言われていた。

 「素空よ、迂闊であったわ。玄武堂と言えば、宋隻大師のことを思い浮かべ、虚空様の彫り物のことを、すっかり忘れておったわい。20年ほど前から行方知れずと聞いているが、既に身罷られていても不思議ではないお年の筈じゃが…」憲仁大師は気遣わし気な口調で言った。

 素空は、玄空大師の姿と虚空を重ねて想像した。いずれも、素空が及ばないほどの優れた人物だったが、未だ見ぬ虚空の姿は、玄空と言う優れた師の姿を写すことで想像を膨らませるしかなかった。

 素空が尋ねた。「お大師様、虚空様はどの辺りのご出身でしょうか?」

 憲仁大師は笑みを浮かべて答えた。「素空よ、詳しいことは分からないのだが、飛騨ひだの山中で回峰行かいほうぎょうをしていたらしいのだ。時折、鞍馬山くらまやまに来た時に本山に立ち寄っていたと聞いているのだよ」憲仁大師はやや口籠って付け加えた。「摂津せっつの出であることは間違いのないことであるが、果たして、飛騨が熊野くまのであったのやも知れぬのだよ…」

 素空は、憲仁大師の言葉をすべて脳裏に納めた。

 やがて、天安寺を下った素空は、何かに導かれるように、虚空の痕跡を辿ることになるのだが、それは、1年ほど後のことになる。

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