第11章 仏師虚空 その1
9月の下旬に、東院の僧の名簿をもとに当番替えの組み分け表ができ上がった。明智は、玄空大師に報告するために奥書院を訪ねた。
「お大師様、新しい名簿と共に、当番の組み分け表を持参いたしましたのでご覧下さい」明智が恭しく差しだした書類は、分厚い名簿と組み分け表だった。
「明智よ、ご苦労であった。
玄空大師は、ニッコリ笑って答えた。「明智よ、僧の優れたるは何を以って言うのであろうか?」
明智は答えに窮したが、暫らく間を置いて答えた。「以前の私であれば、僧の優劣を頭脳の優劣と答えたでしょう。1つに、様々な難問にすぐさま対応できる回転の速さ。2つに、先の先を読み解く深い洞察力。3つに、過去のすべてのことを具に答える記憶力。この3つの力に勝る者が優れた者、と言えると思っていました」
「それで、今はどうじゃな?」
明智は言葉の1つひとつを確かめるように答えた。「昨年、素空様に下る前は確かにそう考えていました。素空様が私より優れた頭脳をお持ちであることが分かった後も尚、何故か抗うように敵視することを止めなかったのです。ところが、
「明智よ、心の優劣は如何にして見抜くのであろうか?また、如何にして記憶に留め置くのであろうか?そして、何時如何なる時のことを以って優劣を評するのか難儀なことじゃ」明智の答えを待つ玄空大師の眼差しは温かだった。
「お大師様、心優れたる者は
玄空大師は、結論を明智に語り始めた。「いかにもそなたの申す通りじゃ。しかし、それは際立って優れた者のことではないだろうか?ならば、わしは東院の僧達の、1人ひとりの優れたところを名簿の端に
玄空大師は分厚い名簿に手を添えて、何やら思いを巡らした。
10月に入って、東院では当番替えが行われた。5年に1度の年であるばかりではなく、旧明智一派の崩壊と、老僧、高僧の回心が果たされた年でもあった。従って当番の大きな見直しが、それこそ大幅に行われた。
灯明番の12名の僧達は殆んどが入れ替わり、栄雪は明智の次席として残ったものの、淡戒と胡仁が薬師堂に入ったため、東院から外された。
明智が作った東院の名簿は、
素空は薬師堂の勘定方として、何度か栄信と薬師堂で過ごしたが、工事がすんでからは、西院の仏像の手入れに励んでいた。今では、
悠才は、素空の配下になってから喜びの多い毎日を過ごしていた。既に忌まわしい過去は償われ、仏像の手入れをしながら、仏と接することの喜びを実感していた。悠才が、素空の
素空は釈迦堂の本尊の手入れは、埃払いと水拭き、仕上げの乾拭きだけで良いと思った。手直しの必要のない仏像が殆んどで、必要があっても銅像では手の出しようがなかった。
素空は手直しに掛かって以来、お堂とそこに収蔵されている仏像をすべて記録し、既に30体が書き込まれていた。
銅製の仏像は、鎌倉時代以前に建立されたものだったが、規模が大きいせいもあり、大仏師を中心に大人数が造営に参加した。大仏師と呼ばれる者は、真の姿を求め、成就した。素空が銅製の本尊を清めるだけにしたのは、まさしく手を入れるべくもないことだったからだ。
素空が手入れするのは天安寺のすべての仏像が対象だったが、不出来な物は室町時代以降の物が殆んどで、有力者や仏師自身が寄進した物だった。天安寺の意向で作られた物は少なかったが、天安寺の夥しい数の仏像は、その1割方がまがい物に等しかった。
素空の存在は天安寺の永きに渡る懸案を解決するものだった。
素空が仏像の手入れを進める時、1番関りを持つ1人の僧がいた。僧の名は
素空が
これから手入れを行う西院の仏像の3割方が正倉の中にあったのだが、素空はその手入れは、すべてのお堂が終わった後にしようと決めていた。
「如何に素空と言えども、釈迦堂の御本尊ばかりは手がだせまいて」ある日、憲仁大師が、素空の傍らに来てそっと語り掛けた。憲仁大師は素空の顔を見て
「これはこれは憲仁様、さすがに釈迦堂の御本尊は見事ですね。お清めをいたすのみで、手をだすべくもありません」素空の答えに、憲仁大師が笑顔で言った。「素空が稀なる仏師であることは誰しも認めるところであるが、その昔、仏師の多くが稀なる才を持っていたのであるよ。この
そこに、乾拭きの支度をして、悠才が遣って来た。悠才は、憲仁大師に黙礼して釈迦如来の膝に布を当て始めた。
「悠才よ、素空の
憲仁大師は、
憲仁大師が、素空に言った。「素空よ、青龍堂を始めとする、お堂の御本尊を手入れするに、今後は、わしへの許可は受けずともよい。素空の思うがままに進めるが良かろう」憲仁大師のにこやかな笑顔に、素空が
「今後は、お大師様へのご報告だけにさせて頂きます」素空の言葉に、憲仁大師は大いに満足して本堂からでて行った。
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