岳屋清兵衛 その4
天安寺の薬師堂に5人の大工が到着した。前門の仁王像の前を通る時、棟梁は眉を曇らせて、用心深く通り抜けた。棟梁の名は
岳屋配下の大工の殆んどが、仕事一筋の不信心者で、伊蔵も平太もそのような大工だったが、善を行い、悪を憎む心は誰にも負けなかった。不信心者と言っても、
岳屋の大工は手際が良く、見事と言う他はなかった。栄信は、宇土屋の仕事も知っていたが、岳屋の大工達は動きに無駄がなく、5人が1つの頭脳で動いているようだった。栄信が、様子を見に来た玄空大師に言った。「お大師様、岳屋様の仕事振りには、無駄がまるでありません。見事と言う他はありません」
「栄信や、宇土屋と岳屋とを比べて言うのであれば、薬師堂の見事さと、庫裏の仕事の確かさを褒めたいところだよ」玄空大師は、栄信の思いに同意しなかった。
庫裏の改築は日ごとに進み、岳屋の目論見通り1月を掛けて完成する勢いだった。その日までに岳屋清兵衛が改築現場を訪れたのは3度だけだった。それも、棟梁の伊蔵と何やら話をして、早々に帰って行った。
この日は打ち合わせを含めて都合5度目の来訪で、完成を2日後に控え、素空と手間賃の受け取りの話をするためだった。
「これはこれは、岳屋様よくいらっしゃいました。お支払いのことでしたら、既に用意をすませております。さあどうぞお上がり下さい」素空は、釈迦堂で岳屋清兵衛を迎え、勘定方の翠考のもとを訪ねた。
「翠考様、翠考様…スイコウサマ!岳屋様をお連れいたしました。薬師堂の改築工事の手間賃をお支払い下さいませんか?」
翠考は、素空の呼び掛けにやっとのことで目を覚ました。手には小銭を握り締め、口をポッカリ開けて涎を垂らしながら、時折りムニャムニャ口を動かしていたところだった。
岳屋清兵衛は、翠考の様子を見て
まどろみながら、現実に引き戻された翠考は、素空の顔を見るなり、飛び切りの笑顔を作った。翠考は、素空にまつわる話を、多少事実と異なるところも含めてすべてを信じていた。素空を気に入っている者の中で随一と言えるほどだった。
翠考は、岳屋清兵衛の方に向き直ると、岳屋に鋭い
「天安寺の金子は、御仏からの預かり物なのだよ。心してお受け取りなされ」
岳屋清兵衛は、翠考にもう1度侮蔑の笑みを浮かべ、銭袋を懐に仕舞った。翠考は金子を差しだした後、もう1度証文をしげしげと眺め、『傲慢と強欲は、人の持つ多くの罪の親玉であるよ』そう呟いて、溜息を1つ吐き、素空に意味ありげな笑みを向けた。素空は、翠考に深々と
岳屋清兵衛は、西院と東院の分かれ道の大楠の前で素空と別れて、薬師堂に帰って行ったが、後姿にも満面の笑みを浮かべた顔が見て取れた。
「伊蔵、手間賃は貰って来たよ。完成したら、皆を連れてうちに来てくれないか?…わしは戻って畳屋に寄って帰るが、明日畳屋が来る筈だから相手を頼むよ」そう言ったきり、薬師堂から出て行き、家路についた。前門を通る時、仁王像を睨み付け、ひとこと呟いた。『この金が、寺から盗んだ金ならこの仁王様は天罰を与えるのだろうか?それとも、これがまっとうな金だから手をださないのか?はたまた、ただのでくの坊だからなのか?まあ、どっちにしても、これでご縁が切れたって言うことよ」そう言うと、1人笑いして門を通り抜けた。
岳屋清兵衛は上機嫌だったが、2体の仁王像は、その後姿を格子の中から見遣っていた。仁王像は天安寺の金子が、岳屋清兵衛の懐にあることを知っていたが、その金子の行方を見通しているかのような眼差しだった。
岳屋清兵衛が帰った後、次々とことが運んだ。畳や調度や建具などが設えられ、庫裏の改築工事が見る間に進んだ。
取り掛かって
岳屋の大工と建具屋の
「岳屋様の仕事振りも手早かったのですが、それにも増して帰り支度の速さは鮮やかでしたね」
玄空大師は、栄信の言葉を聴いて、眉根を寄せて言った。
「栄信や、利に聡い者は労少なく、益の多きを求める余り、心を失うことがあるのじゃよ。宇土屋の仕事には心が込められていたのじゃ。そう、宇土屋は間違いのない仕事をしていたのであるよ。岳屋が
栄信は、玄空大師の言葉に深い意味を感じた。そして、これからどんなに時が経っても、岳屋が手掛けた庫裏の改築に間違いがないことを願った。
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