岳屋清兵衛 その3
栄至が天安寺に戻った次の日、岳屋清兵衛が、
暫らくして、求めるものを見出せなかった時の、何とも満たされない気持ちのまま境内に入った。境内の隅で、2人の僧が話をしていたので、用件を伝えた。
本堂の板の間に座して、岳屋清兵衛と栄信はとりとめのない話をしながら、互いの距離を詰めていた。
岳屋清兵衛は、随分長く寺の本堂に座ったことがなかった。寺の仕事を請け負っていた頃には、頻繁に本堂に上がって住職と仕事の話をしたのだが、手を合わせて経のひとつも唱えたことなど、終ぞなかった。つまり、根っからの不信心者で、神仏の存在などまったく信じていなかったのだ。
岳屋清兵衛が言った。「栄信様、早速ですが、改築のことに付いて取り決めたいのですが、よろしいですか?」
栄信は、これから経を唱えるつもりだったが、不意を突かれた格好で少し驚いた。この時栄信は、岳屋清兵衛が不信心な人間だと見抜いた。
「岳屋様、もう暫らくしましたら、先日まで薬師堂の座主を務めていた玄空大師が参ります。ただ今は、東院の貫首を代行していますので、忍仁堂からこちらに向かっている筈です。また、西院から改築の掛かりに応じるために、西院の僧が来られますので、もう暫らくお待ち下さい」栄信の言葉に、岳屋は不愉快な顔をした。
「岳屋様、お待ちしている間に経を唱えますが、よろしかったらご一緒して下さいませんか?」そう言うと、栄信は経を唱え始めた。
岳屋清兵衛は、栄信の経に付き合ってはいられないと、本堂を出て寺の裏手を散策し始めた。前門の仁王像で薄気味悪い思いをしたばかりだったので、自然に裏手に足が向いたのだった。薬師堂をしげしげと眺めた後、何かに引かれるように小路を奥へ奥へと進んで行った。1町(100m)ほど先にある厨子を目にしてからは、その中の何者かに引き寄せられているような、妙な感覚に支配されていた。
岳屋清兵衛は仄暗い厨子の中の気配に引かれていることに気付いていたが、怖いもの見たさの興味に負けたのだった。恐る恐る扉に手を掛け、中を覗いた。顔は汗ばみ、微かに震える手が両方に開いた時、驚きのあまり後ろに飛び退いた。
嘗て、樫仁が驚いた時のように、岳屋も驚いたが、毘沙門天は微動だにしなかった。岳屋清兵衛は、毘沙門天が姿を現すほど信心深くなかったからだが、玄空の毘沙門天はその存在だけで十分に岳屋を驚かせたのだった。
やがて、岳屋清兵衛はおもむろに起き上がり、厨子の中を睨み付けながら扉を閉めた。岳屋清兵衛は気付かなかったが、厨子の中の毘沙門天も岳屋を睨み据えていた。
岳屋清兵衛が厨子から離れて、本堂に戻ろうとした頃、玄空大師が到着した。岳屋清兵衛は、玄空大師の到着を知らせに遣って来た胡仁と一緒に本堂に向かったが、背後に毘沙門天の視線を感じていた。岳屋自身は腰を抜かすほどの驚きを見せたことが癪に障っていたせいで、妙に背後の厨子が気になったのだと思ったが、厨子の中ではやはり、実際にいつまでも、毘沙門天が、岳屋の背中を睨み据えていた。
胡仁と岳屋が本堂に着くと、すぐに西院から素空が遣って来た。栄信は、西院の貫首である興仁大師の命を受けたのが素空だったことを喜んだ。
「岳屋様、こちらのお方は東院の玄空大師で、この薬師寺の座主を務められていました。間取りや部屋の改築に関するすべてのことは、お大師様にお聴き下さい。そして、こちらのお方は西院の素空様です。改築の掛かりのことは、すべて素空様とお決め下さい。それから、前門の仁王様を素空様が、裏門の毘沙門様を玄空様が建立されていますので、よろしければ後ほどご覧下さい。では、庫裏の方に参りましょう」栄信は本堂で経を唱えることなく庫裏に向かったが、この時、玄空大師と素空は、岳屋清兵衛が不信心だと言うことを知った。
岳屋清兵衛は、栄信が勧めた守護神の一切について聞き入れなかった。『あの薄気味悪い仁王と毘沙門は2度と目にしたくないのさ』心の中でそう呟いた。
庫裏に着くと、改築のあらましを玄空大師が説明したが、これを機に岳屋清兵衛は、俄然本領を発揮した。
「お大師様、ご病人の部屋の隣には
玄空大師はにこやかに笑みを浮かべて言った。「餅は餅屋ですな。病の身では厠まで歩くのも大変でしょうから、そのような間取りにいたしましょう」
間取りの話は玄空大師と岳屋清兵衛の息の合ったような言葉が飛び交った。材料や建具は今と同様な物を用いると言うことで、いよいよ施工費用の話し合いに入った。
「岳屋様、それは法外なことです。宇土屋様の工事の際は、この半値ほどで請け負って頂いております…」素空がサラリと抗議した。
岳屋清兵衛は、素空をキッと
素空は、岳屋清兵衛が語るのをジッと聴いていたが、岳屋が語り終えて涼しい顔を素空に向けた時に、目を見合わせた。岳屋清兵衛は、素空の目に映る己の正体を気取られたような思いで狼狽した。『何もかも見通されているようだ』岳屋清兵衛は胸騒ぎに似た何かを全身で感じていた。
その時、素空が口を開いた。「岳屋様、おっしゃる通りにいたしましょう。掛かりに付いては、以後、意義を唱えますまい。先ずは、材料費のお支払いをいたしますので、必要な額をおっしゃって下さい」素空の言葉に、岳屋清兵衛は意表を突かれた思いだった。
岳屋清兵衛が言った。「素空様は賢明でいらっしゃいます。ここで物別れにはなれませんからね…さて、材料費は相場の倍でお引き受けいたします。これから急いで調達するため、問屋に無理を通さねばなりませんからね…」
岳屋清兵衛は語り終わると、3人の僧に笑顔を見せた。『世間知らずの若い坊主など、赤子の手を捻るようなものだよ』岳屋清兵衛は、作り笑いの裏でグッと調子を上げていた。鼻歌さえ出そうなほど気分上々だった。
「岳屋様、それでは早速お支払いをいたしますので、西院の
素空は門前の広場まで来ると、宿所となる小屋を紹介しながら大門を潜った。
天安寺の勘定方は西院にあり、
「翠考様、この度薬師堂の改築に伴い、証文の作成と、前払いをいたしますので、よろしくお願いいたします」素空の言葉に、にこやかな笑顔を向けて、翠考が証文の用意をし始めた。証文を作る時、岳屋清兵衛が色々と注文を付け、条件書きが10行ほどになった。翠考は岳屋清兵衛のしたたかさと、僧を相手にしても人を信じない姿を憐れに思った。証文を取り交わし、金子を岳屋に渡すと、素空の顔を見て、頷き加減に頭をひとつ下げた。素空も笑顔を向けて、翠考の意味ありげな仕草を理解した。
この日、岳屋清兵衛は材料費の倍の代金を手にして、天安寺を下った。帰りは意気揚々として、平太に軽口を利いたり、ふざけて戯れたりで、右京の屋敷まで楽しく帰り着いた。だが、その日の夜、岳屋清兵衛は眠れなかった。瞼を閉じると素空の顔が浮かんで来るのだった。人の心の奥底まで見通すような眼だけが脳裏に焼き付いていた。
翌朝、一晩中素空の夢を何度も繰り返して見たので、ぼうっとした頭に、素空への言い知れぬ憎悪が広がった。『この年になるまで、こんなことは1度としてなかったことだ』岳屋清兵衛は素空への憎悪を打ち消したかった。心に罪悪感が浮かんだが、そんなことも嘗てなかったことだった。『坊様を憎むなんぞ罰当たりもいいところだ』次第に意識が覚醒するにつれて、まっとうな判断ができるようになった。岳屋清兵衛はこの時、『己の行いが善に傾けばどれほど良かったか』と後悔するのは、もう少し後のことだった。
この日は、岳屋清兵衛が罪の意識や、罪悪感を感じた初めての日となった。朝食をすませ、早速材木問屋に出向き、材料の調達を始めた。動きだすと、さすがに迅速を極め、仕事の取り掛かりを2日後とするため、5人の大工に声を掛けた。調度や建具は左官と共に手配をすませた。岳屋清兵衛は1月で完成させる予定で動いた。
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