岳屋清兵衛 その2

 翌朝、3人は嵐山あらしやまの麓に向かって歩き始めた。途中、岩倉屋の菩提寺ぼだいじに差し掛かった時、岩倉屋惣左衛門が寺の中で一休みしようと持ち掛けた。2人は、辰の下刻たつのげこく(午前9時)を過ぎたばかりであり、そう言われて門前を素通りする訳には行かなかった。山門さんもん天聖宗陽善寺てんしょうしゅうようぜんじと書かれ、本堂の入り口に興高院こうこういんと書かれた額札があった。

 住職の海童かいどうが、3人を笑顔で迎えた。栄至と宇土屋は、新堂の落成式で顔を合わせていたが、言葉は交わしていなかった。

 「和尚様おしょうさま、ご無沙汰しておりますが、お変わりありませんか?」岩倉屋惣左衛門が笑顔で挨拶し、住職の海童に近寄った。岩倉屋惣左衛門は、栄至と宇土屋を引き合わせ、右京の岳屋に行くところだと伝えると、海童が眉を曇らせて用件を尋ねた。

 宇土屋喜兵衛は用向きを説明すると、海童が3人をその場に待たせて、庫裏に向かった。暫らくすると、海童が戻って来た。「岩倉屋さん、これをお持ち下され。きっとお役に立つ筈ですよ。宇土屋様には、こちらをお貸しいたしましょう」そう言うと海童は、岩倉屋に薬師如来像やくしにょらいぞうを手渡し、宇土屋には懐地蔵ふところじぞうを手渡した。

 薬師如来像は、30余年前に、玄空が陽善寺の前の住職に献じた物だった。そして、懐地蔵は、新堂の落成祝いに、明智が仕上げた引き出物で、いずれも真の姿を写すものだった。

 海童は、薬師如来像と懐地蔵を渡した後にひとこと言った。「宇土屋様、ご同業のお方のことを悪く言うようですが、檀家の方々から右京の岳屋殿は、かなりの遣り手で、とかくの噂があるお方と聞いています。御仏にお守り頂きますよう願っています」海童の言葉に3人は岳屋清兵衛と言う棟梁の姿を悪い方に膨らませて行った。

 岩倉屋惣左衛門は、海童に礼を言い、帰りに立ち寄ることを伝えて寺を後にした。栄至と宇土屋は、岩倉屋の後ろを歩きながら、岳屋清兵衛の人となりに付いて語り合った。宇土屋は、山城屋に先に頼めば良かったと後悔したが、栄至は、どちらも似たようなものかもしれないとなだめた。まったくの当て推量では宇土屋が納得する筈もなかった。

 嵐山に近付いた時、岩倉屋惣左衛門が、宇土屋喜兵衛に幾つか質問した。「昨日の話に見積額などは示されたのでしょうか?」

 宇土屋喜兵衛はすぐに答えた。「昨日は、請け負ってもらうだけで、細かいことは何も決めていません。見積もり額は勿論のこと、新堂の絵図も見せていません。栄至様がおいででない時に決めることはできませんから…」宇土屋は最後に、天安寺での新堂の造営を望まれたことを告げた。

 岩倉屋惣左衛門は、栄至に質問した。「栄至様は、どのようなところまでお決めになるおつもりでしょうか?」栄至は、岩倉屋の意図が何となく分かっていたので慎重に答えた。「はい、岩倉屋様がご心配下さるように、金額の折り合いが付くか不安があれば、ここで金額や改築内容を決めることはできません。私も、宇土屋様と同じように思っておりました」

 栄至の答えに、岩倉屋惣左衛門がホッとして、その存念を口にした。「私は商売柄、金子が絡むと人が変わったように欲張りなお方を大勢存じております。初めは愛想良く振舞っていても、儲けのためにはどんなこともやるのです。今日は何をどこまで決めるのか打ち合わせるのが肝心です。それ以外のことは、どなたと決めて頂くのかも考えておくべきでしょう」

 岩倉屋惣左衛門は更に言った。「商売をしていますと、心清く生きるのが大変難しいのです。頭の中で人様のことをつい悪く考えてしまうのです。私の思いが杞憂であったら良いと思います」岩倉屋惣左衛門は商人として、岳屋清兵衛と向き合う自分を思いながら自嘲的なことを口にした。

 栄至が言った。「岩倉屋様のお陰で、とても勉強になりました。なにせ、今の今まで何も考えていなかったのですから…」

 栄至がそう言うと、今度は宇土屋が言った。「栄至様、考えがなかったのは私の方です。この年になって、岩倉屋さんに言われるまで思い至らないとは、まことに面目ないことです」

 岩倉屋惣左衛門は、懐の如来像を服の上からそっと抑えて、これからのことが上手く行くように祈った。

 やがて、右京の岳屋の屋敷に着くと奥に通された。岳屋清兵衛の神棚を背にして長火鉢の先に座った姿は、ただの大工の棟梁には見えない凄味があった。宇土屋喜兵衛は、昨日の礼を言い、栄至と岩倉屋を引き合わせた。

 宇土屋はこの時、岳屋の傲慢そうな態度が気になった。この部屋は棟梁の居間であり、職人達と過ごす場で、客間ではなかったのだ。昨日のように、自分ひとりなら良いのだが、僧を連れての正式な訪問に、この部屋で応じるなど無礼なことだと思った。

 岩倉屋惣左衛門は、自分と天安寺の関わりや、宇土屋との関係を説明しながら、仕事の様子や世間話など、実に様々なことを話し、一向に本題に入らせなかった。しかし、岩倉屋は話の中で、岳屋の本音の部分を少しずつ訊きだしていた。何気ない話の中に、相手の本音を見抜くことは商人の腕の見せどころだった。

 岳屋清兵衛は次第に痺れが切れだして、用件を片付けようと本題に入った。

 「栄至様、そろそろ改築のお話に入りたいのですがよろしいですか?どこをどのように変えるのか、また、おおよその見積額など決めさせて頂かなければ、仕事の遣りようがありません」岳屋が言うと、栄至は言葉を濁して、岳屋の質問を巧みにかわした。どのように言えばよいのか、計りかねていたのだった。

 岳屋清兵衛は、栄至ばかりか、宇土屋や岩倉屋にもしつこく答えを求めたが、2人共そ知らぬ顔を決め込んだ。岳屋清兵衛は次第にじれて来て、最後に内容が不明なままでは、引き受けられないと言った。

 栄至が言った。「岳屋様、本日はお引き受け頂いたお礼に参りましたまでで、実のところ、新堂においで願って一切を決めて頂きたいのです。また、費用に付きましては、西院の僧が応じる筈でしょうが、私が御本山に持ち帰り、事の成り行きを話し終えた後、決まるのではないかと存じます。できますれば、岳屋様には明後日、新堂においで願いますれば、その時、一切をお決めいたしたいと存じます」栄至は丁寧な言い回しの中に、断固たる意志を示した。

 岳屋清兵衛は、栄至の話を聞き終わると、がっかりした顔をして3人の顔を見た。『3人で遣って来て、何も決められないとは、あきれたものだ』と、言いたげな顔だった。仕方なく2日後、岳屋清兵衛は天安寺に上がることにした。

 陽善寺の庫裏で、宇土屋清兵衛は、海童和尚に礼を言った。「懐地蔵様のお陰で、腹の立つ思いを抑え、冷静に話しの場に加わることができました」

 岩倉屋惣左衛門も続いて言った。「如来様のお陰で、岳屋さんの胸の内を探りだす良い知恵が浮かびました。ありがとうございました」

 岩倉屋は続けて、岳屋の感想を語った。「岳屋さんは、急場に付け込み、大儲けをするつもりでしょう。請負いの条件として、宇土屋さんの天安寺での仕事を狙うとは、強欲にもほどがあります。今日、工事の詳細を決めることは、物別れの種となりそうで見送ることにしました。傲慢ごうまん横柄おうへい強欲ごうよくは商売にとっては禁忌ですが、急場を見て付け込んでのことでしょう。如来様を胸に納めたお陰で、怒りを抑えることができました。岳屋清兵衛と言うお方は、まさに、聞きしに勝るお方でございます」

 海童和尚は、岩倉屋の言葉を聴き終わると、3人を諭すように語った。

 「皆さんは、岳屋清兵衛と言うお方を悪く思うのではなく、急場を救って下さるお方として見るべきではないでしょうか?急場を救う条件が受け入れ難いものでも、我慢をするべきところは我慢をし、御仏が御与えになった試練だと思うことです。御仏は世を正すべく、人の1人ひとりに自由を御与えになっているのです。岳屋様のなさることも、皆様の忍耐も、御仏はすべて御承知なのです。今は、岳屋様がぜんに傾くようにお祈りするばかりです」海童の言葉は、3人の心に沁みた。

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