二番弟子西礼 その5

 西礼を見送ってから、玄空大師と明智は、薬師堂の離れで話をした。

 最初に明智は、玄空大師に東院の僧の名簿が、伊勢滝野に贈った蔵書の中になかったかと尋ねた。すると、玄空大師は悪戯っぽい笑顔を見せて答えた。「確かに、瑞覚様の書籍の中にあったが、今は滝野にはないのじゃよ。わしが天安寺に上がった時、あと3冊の書物と共に持って来ておるのじゃ。安心するが良かろう」

 明智はホッとして、更に尋ねた。「お大師様、名簿を何故に持って来られたのかお教え下さい」

 玄空大師が答えて言った。「瑞覚様が自分の蔵書をすべてわしに贈った意味は、薄々感じ取っていたのじゃよ。僧の名簿を見た時、瑞覚大師が、わしを後継者とすることを確信したのだよ。間違って送ったとは気付かなかったが、お陰で、栄信から僧の1人ひとりに付いて、名簿を使ってでき得る限り教えてもらったのだよ。そなたのことは勿論、老僧、高僧から、今年天安寺に上がった僧まで知ることができたのだが、栄信は、名簿の使い道に付いては、別に何も言わなかったのじゃよ。わしはただ、天安寺でしか役せぬ物だけを4冊持って来たのじゃ」

 明智はさすがに手抜かりのないお方だと感心した。すぐに、玄空大師が名簿を持って来た。「昨年から今年の分は、栄信が書き加えておるのじゃ。どうじゃな?これで組み替えをするとなると、難儀なことじゃよ」明智は、玄空大師の言葉の意味を理解した。「私もそう思います。これはこれとして、新しい名簿ができるまでの間、使わせて頂きます」明智はそう言うと暫らく名簿に目を遣った。

 明智の知力は相当のもので、栄雪に言わせれば、『宝刀を抜き身で持っていたのだが、最近はちゃんと鞘に納めている』そうだ。明智は一旦事をなせば見事なほど速く、その才は事務処理に於いて抜群の能力を示した。栄雪は、灯明番の長として、明智ほどの適任者はないと思うほどだった。

 名簿は個人の略歴が書かれていて事細かだったが、部屋割り、当番の履歴などがまったくなかった。瑞覚大師が言うように、永く東院の僧達を見て来た者でなければ、上手く使えない物だった。

 明智は、一昨日、瑞覚大師に目通りする以前から、瑞覚大師に失念が多くなったと気付いていた。病のことは詳しく知らなかったが、折を見て伺うつもりだった。今は、当番替えを無事にすませて、瑞覚大師に安心して欲しかった。

 「明智よ、新たな名簿とはどのような物かな?」玄空大師の問いに、明智が答えて言った。「僧の名と、年と、宿坊、当番の履歴と、得手不得手を調べる物です。これを、御本山に上がった年ごとに並べ替え、1冊にまとめたいと思います。勿論、出身地や年齢など基本的なことは漏れなく記しています」

 玄空大師は、暫し目を閉じ、何やら考えていたが、ひとこと呟いた。

 「東院の当番替えに使うこととは別に、どのような使い道をすればよいか?…」

 玄空大師の独り言は、明智にも聞こえていたが、玄空大師の思いの先を測りかねていた。「明智よ、忍仁堂まで一緒に参ろうぞ」そう言うと、裏門から出て行った。

 忍仁堂に着くと、灯明番の詰め所の前で2人は別れた。

 「お久し振りです。瑞覚様、お加減は如何でしょう?」玄空大師の言葉は、いつものように明るかった。

 瑞覚大師は脇息きょうそくにもたれて、玄空大師に微笑みながら言った。

 「玄空や、いずれはそなたに頼まねばならなかったのじゃ、少々早いがよろしく頼みますよ」

 玄空大師は既に承知のことであり、頭を深く下げて、承った。

 「時に、瑞覚様、明智が新しい僧の名簿を作っているのですが、これまでの名簿の使い方をお教え下さい」玄空大師の言葉に、暫らく思案して答えた。「そなたには本当のことを申さねばなるまい」そう言うと、脇息にもたれて庭を眺めていたが、暫らくして口を開いた。

 「玄空よ、端的に言えば、どのように使うもそなたの思うがままなのじゃ。わしは僧達の序列を決めるのに使っているのじゃよ。西院には、御本山ばかりではなく、国中の寺の所在と、そこにおる僧の名が書かれた名簿があるのじゃ。国中の寺が西院の傘下にあるからなのじゃが、西院内では、東院とさほどの違いなく使われている筈じゃ。だが、東院は僧の数が数倍多く、修行の道も様々で、何しろ、僧としての経験が少ない者ばかりなのだ。この中で、数年のうちに認可をせねばならぬが、これが厄介なのじゃ。それに、この者達を更なる高みに上げるのもわしらの勤めなのじゃ」

 ここで、瑞覚大師は一息吐いて更に語った。「以前は、浄久大師とわしで年に2回ほど、承認する者の名を挙げ、他の大師に諮っていたのじゃが、浄久大師亡き後、わしの独断を通していたのじゃよ。僧の位置付けをするのは、なかなかに難しいことであるが、修行の経験だけでは計れぬ心のあり様も妨げとなっているのじゃよ。大師たる者、してや、貫首かんじゅの職を頂く者は、1人ひとりに目を向けるよう努めなければならぬのじゃ」玄空大師は、頭を垂れて承った。「玄空であれば、言わずもがなであったわい」瑞覚大師は愉快そうに笑った。

 西礼が天安寺を下ってから、10日が経った頃、東院のすべての僧に書かせた名簿が戻って来た。灯明番の詰め所は、栄雪、行信の加勢を受けて、明智が奮闘中だった。昨日からの50余枚を見直した後、質を高めるための追記をさせた。完全な名簿は既に灯明番に振り分け、経験の浅い者から順に並べられた。当番の種類は、10種ほどに大別され、統廃合が為されたが、新設された当番もあった。天安寺の僧達は、食においては自給自足が慣わしだったが、田畑に関わる仕事、厨房に関わる仕事、掃除、洗濯、風呂当番などが大きな区分で分けられ、懲罰的に下肥の汲み取りなど忍耐のいる仕事もあった。この区分は玄空大師の意向に沿うべく、明智は持てる力を存分に振るった。

 次の日、栄雪が、玄空大師の部屋に駆け込んだ。明智が倒れて床に就いたのだった。玄空大師は奥書院に部屋を賜り、薬師堂の座主と共に、昼間は瑞覚大師の代理を務め始めていた。瑞覚大師は、自分の部屋を使うよう勧めたが、『そのうち、そうさせて頂く』と言い、承知しなかった。玄空大師が灯明番の詰め所に着くと、奥の部屋に明智が横になっていた。玄空大師の姿を見るなり、起きようとしたが、制止されたまま、明智が語った。「お大師様、申し訳ありません。何とも不甲斐ないことです」

 「明智よ、1人で無理をすると却って良くないのじゃ。今宵はゆっくり休み、元気になってまた始めるが良い。そのうち力強い助けがあるだろうよ」玄空大師の言葉で、皆は素空の顔を思い浮かべた。

 次の日、灯明番の詰め所に明智が座していた。疲れは回復したが、気が焦っていた。9月の終わりまでは、後10数日しかなかったのだ。

 「明智様、加勢に参りましたよ」聞き慣れた声に顔を上げると、栄信が笑顔を覗かせていた。明智は顔をほころばせ、立ち上がって栄信の方に歩み寄った。

 「栄信様、お久し振りです。思いもしない成り行きに喜んでいます。お元気なご様子で安心いたしました」明智の声は弾んでいた。

 「先ほど到着してすぐに新堂を訪ね、玄空様にすべてをお聴きしました。今しがた奥書院でお別れしてすぐに参りました。お伝えせず、ご迷惑をおかけいたしております」名簿のことを詫びる栄信の言葉に、明智がすかさず言葉を返した。

 「灯明番の長はお役目が多岐に渡っているのです。引継いで初めて分かりました。それより、瑞覚大師にご挨拶はおすみではないでしょう。すぐにお訪ねなさいませ。お喜び下さることでしょう」

 栄信は、明智の言葉に感謝して部屋を出て行った。奥書院に戻ると、玄空大師の後に付いて瑞覚大師を訪ねた。

 久し振りの天安寺だったが、季節が変わった他は、何も変わりなかった。栄信は、庭の様子をチラッと見たが、中からの声に全神経が覚醒し、その声に集中した。

 「玄空か、お入りなされ」声の後、玄空大師が障子を開くと、部屋の奥に瑞覚大師が座していた。瑞覚大師は、栄信を見て驚きの表情で固まり、目が潤んでいるようだった。「お大師様、帰って参りました」栄信は言葉に詰まって、それ以上のことを言えず、瑞覚大師に深々とこうべを垂れて涙を落とした。栄信が、瑞覚大師に顔を向けると、満面に笑みを湛えて迎えた。

 栄信は、脇息にもたれた瑞覚大師が、半年足らずの間に随分衰えたように見えた。フッと部屋に目を移したその時、書棚の薬師如来像が光背を現したばかりでなく、衣や手足が色付いているのが見えた。栄信は驚いたが、すぐに平静になり、その意味を考えていた。

 「お大師様、お加減は如何でしょうか?お大師様のご慈悲により、伊勢滝野では御仏の意に適うよう努めることができました。お陰を持ちまして、書棚の如来様の御姿をハッキリと認めることができました」栄信の言葉に、瑞覚大師が問い掛けた。

 「栄信や、で、どのように映っているのかな?」

 「金色の光背に、色鮮やかな衣と御手、お御足みあしに肌の色が現れております。これは、お大師様のご容態が悪くなっている証ではありませんか?」栄信の言葉に、瑞覚大師は言葉に詰まって話すことができなかった。

 瑞覚大師は、栄信がせっかく戻ったのに、その日のうちに心配の種を作ってしまったことを後悔した。そろそろ帰って来ると聞いた時、寝室の文机に祀っておけば良かったが、そんな配慮ができないほど、迂闊な己の不甲斐なさを悔やんだ。

 玄空大師は、栄信の眼に仏の姿が見えたことを喜んだが、瑞覚大師の憂いは、ひと時のことと承知していたのだ。

 「栄信よ、瑞覚大師はもう暫らくすると、薬師堂で静養して頂くのじゃ。お加減が良くなるよう、お世話をしてくれまいか。そなたには、薬師堂で瑞覚大師と御仏の前に額ずき、この世での幸せと、後の世の幸せを一心に祈って欲しいのじゃ。安らかに召されることは、人の最後の幸せであるよ。心を尽くしてお世話下され」玄空大師の言葉は、栄信の心に深く沁みた。

 玄空大師も然りだが、瑞覚大師の周りの高僧は、瑞覚大師が召されることを、本人の前でも公然と口にしていた。これは、人の最期を真摯に受け入れ、喜びとしているに他ならなかったからだ。高僧達の間では、瑞覚大師は即身仏と同等の尊敬を集めていた。僧が瑞覚大師のような召され方をすることは名誉なことだった。

 その昔、即身仏とは苦行の極みで、自らの強い意志で食を絶ち、最期は水を絶って死への道を進むのだった。それは、卓越した僧にしか成就できない最も過酷な行であり、亡骸なきがらの形相は目を覆うほど悲惨なものだった。

 天聖宗においては、開祖以来、自ら命を絶つことを、神仏に対する最も重い罪として、厳しく戒めていた。

 瑞覚大師の場合、仏の言葉によって浄土が約束されたもので、人の死に於いてこれほどの慶事はないと理解されていた。

 玄空大師は、素空と西礼、2人の弟子を思った。『我が死に際に、側にいてくれる弟子はあるのだろうか?』そう思いながら、何故か西礼の憂いを秘めた表情が浮かんだのだが、その時、恐らく素空は側にいないと感じていた。

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