二番弟子西礼 その2

 興仁大師は離れの客間に座して、玄空大師に用向きを話した。玄空大師は暫らく考えたが、眉を曇らせながら言った。「興仁様、いささか早いようですが、それほど弱っていらしたのですか?」玄空大師は、瑞覚大師の容態だけが心配だった。その後、付け足すように言った。

 「そうですね、興仁様のお申し付けとあらば、何処いずこへとも参りましょう」そして、新堂の後任に付いて話し始めたが、玄空大師は、興仁大師に微笑み掛けて語った。

 「この度のことに付きましては、かねてより思うところがあり、少しばかり早くなりましたが、お聞き下さい」

 この時、西礼さいれいが茶を持って来て挨拶したが、すぐに奥に引いてしまった。興仁大師は、旧妙智一派の中では、西礼を特に気に入っていた。

 玄空大師は新堂の座主になってすぐに、西礼を手元に置き、寺の諸事に付いて教授していた。西礼は才知に長け、温厚で誠実だった。何より、素空に命を救われてからは、心からの回心をしたのだった。玄空大師が東院の鳳凰堂ほうおうどうからいち早く新堂に招いたのも、素空と栄信からその人となりを聴いていたからに他ならなかった。興仁大師は、西礼を新堂の座主に推すのだと思っていた。

 「何と、そのようなことは思い付きませんでした」興仁大師は驚きの声を上げた。

 「興仁様、物には流れと言うものがありましょう。水が流れる如く、人にも流れがあるのです。人が流れに逆らえば、人と人との間に乱れが生じましょう。天安寺において、乱れを生じぬよう、流れには従わねばなりません。先ずは、西礼を伊勢滝野の薬師寺にお遣わし下さい。寺の諸事に付いては既に承知しております。その上で、今申しました通り、栄信を西院にお迎え願いたく存じます。新堂の座主は栄信でなければ瑞覚大師のためとなりませんほどに…」玄空大師は淡々と答えた。

 ここで、興仁大師がその訳を訊いた。「それは、東院では養生ままならぬからなのです。栄信が座主となってより暫らくの後に、瑞覚様を新堂にお迎えしてはどうかと思います。これでお2人の念願が叶うであろうと思います。また、素空が献上した薬師如来像を新堂の御本尊とするのであれば、更に良きことかと存じます」

 玄空大師が語り終えると、興仁大師は実に感じ入ったように言った。「玄空様のお考えの通りにいたしましょう。瑞覚大師を新堂にお迎えするとは、思い付きもしませんでした」

 玄空大師は更にひとこと付け加えた。

 「願わくば、栄信が素空の献上した薬師如来像に御仏の御姿を見ることができたなら、瑞覚大師のご存命中に大師としてあげたいのです」

 「それは玄空様の希望であろうかな?」興仁大師の問いに、玄空大師は首を横に振った。「では、瑞覚大師の?…」興仁大師の問い掛けに、首を1つ縦にして答えた。

 興仁大師は明るく語った。「それでは、松石も大師にいたさねばなるまいな。あやつは、わしにも見ることができない御仏の証を、何とも容易に見たのであるよ。あやつは、人としての大きな徳を得ているようじゃからな」そう言うと大声で笑った。

 2人の話がまとまった頃、裏門では樫仁かじんが腰を抜かして驚いていた。樫仁は、30才の西院の僧だった。日頃の物静かさからは、考え付かないほどの驚きだった。

 興仁大師と表門で別れた後、暫らく仁王像を眺めていたら、背後に妙な気配を感じた。振り返ってみると、また、背後に妙な気配がしたのだった。背中を向けると背中の方の仁王像が動いているような気味悪さを感じた。阿形尊を見てから、意を決して急に振り返ると、吽形尊が目を見開いて樫仁を見ていたのだった。ドキッとして目を合わせると、吽形尊がまばたきをして、金剛杵こんごうしょを僅かに動かした。今度は阿形尊の格子を急に振り返ると、先ほどとは金剛杵の位置が大きくずれていた。目を樫仁の方に向け、胸元から頭の先まで観察しているようだった。『確かに動いている。いや、生きていらっしゃるのだ』腹の肉が呼吸のたびに絶妙の動きをしていた。

 樫仁は経を唱えながら、やっとの思いで前門を離れて寺の裏門に回った。暫らく歩くと厨子が見えて来たが、近付くと慎重に扉を開いた。観音開きの扉が開いた瞬間、中から毘沙門天が出て来た。樫仁は後方に飛び退き様、尻餅をついて腰が抜けてしまった。毘沙門天は次第に大きくなって、6尺(1.8m)ほどの体に剣を差していたが、やおら抜きだした。樫仁は剣で殺されそうな予感がしたが、毘沙門天は抜刀した剣を背中に回し、片膝をついて頭を垂れた。その後、樫仁は目が回って気を失った。やがて、日溜りの中で目覚めた時、心地よい気分になり、この日溜りは不思議な場所だと言うことに気付いた。

 興仁大師が玄空大師と歓談しているところに、樫仁が青白い顔で声を掛けた。「お大師様、表門と裏門を見て参りました。遅くなりました」

 「おお、樫仁か、どうであったかな?しかと見たであろうから、感想を披露しなさい」興仁大師は上機嫌だった。松石も風変わりなところがあったが、この樫仁にも松石と同じような雰囲気があったのだ。興仁大師は、このような僧を愛していた。

 樫仁は、ありのままを伝えた。「前門の仁王様は、どちらも私をからかいました。阿形尊を見れば吽形尊が見えぬところで何やらうごめき、吽形尊を見れば阿形尊が蠢きました。そこで、不意打ちを喰らわせて、尻尾を掴みましたところ、目をギョロつかせ、息遣いも露わにいたしておりました。この目で金剛杵を動かしたところを見ましたし、呼吸のたびに腹と筋肉が動いていたのも確かに見届けました」

 ここまで聞いたところで興仁大師が驚いて尋ねた。

 「これは思いも付かぬことであった。樫仁や、そなたは驚かなかったのかな?」

 樫仁が答えた。「それは驚きました。しかしながら、格子の中と外のことで、さほどの驚きも、恐れも感じませんでした」

 「ほほう、では裏門ではどうであった?」興仁大師の問いに、樫仁が答て言った。

 「毘沙門様は厨子の中に御座おわしました。厨子を開くとその威容に驚き、思わず後ろに飛び退きましたが、そのまま腰が抜けてしまいました。すると、毘沙門様が厨子から出て、私の前にお立ちになられ、抜刀した剣を背にしてこうべを垂れたのです。それっきり気を失ってしまいました」

 興仁大師は、玄空大師と顔を見合わせた後、樫仁の顔をしげしげと眺めた。興仁大師は、この風変わりな僧の一体どこに、このような徳があるのか分からなかった。

 「興仁様、樫仁は松石のようなお方ですな。我知らずして、徳を積むお方は、御仏に愛されている証です。本当に幸せなことです」

 玄空大師は、樫仁の話を聴きながら、眉根を寄せていた。しかし、興仁大師のお付きの僧に諭す言葉を掛けることはなかった。

 樫仁かじんは15才で鳳来山に上がり、10年後に遅い認可を受けたのだった。東院では、かの老僧、高僧の覚えめでたからず、26才の時、瑞覚大師の意向で、西院の大師付きの僧として移籍した。樫仁は興仁大師のお付きの僧として3月ほどになるが、才知があるにも拘らず、粗忽そこつで、おどけた仕草に時折り間抜けたところが憎めなかった。

 樫仁が西院に上がった時、最初に清賢大師せいけんだいしのお付きの僧になったが、樫仁の粗忽そこつで、間抜けたところが気に入らず、体よく追い払われてしまったのだ。一方、興仁大師は、樫仁の才知を見込んだのだった。人の性分は様々で、その善きところを見るべきと言うのが持論だった。興仁大師は樫仁の忍耐強く、小事に拘らない性分を愛したのだった。もはや、2人の呼吸はピタリと一致していた。

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