第9章 二番弟子西礼 その1

 明智が灯明番の長になって4ヶ月が過ぎ、天安寺に秋の風が吹き始めた頃、明智は重大なことに思い当たった。

 灯明番の変遷を記録していた日誌の中で、毎年9月の終わりに、当番割りの再考を行うことは承知していたのだが、更に、5年ごとに大きな入れ替えをしていたことに気付いたのだった。そして、今年が5年目の大きな入れ替えの年に当たっていた。

 明智は、すぐに東院の貫首かんじゅ、瑞覚大師を訪ねた。

 「お大師様、今年は5年に1度の当番替えの年ではありませんか?長月ながつき(9月)の間に割り振らねば間に合いませんが如何でしょう?」

 瑞覚大師が言った。「明智や、名簿を探し出し、そなたが割り振るのじゃ。よいな!」

 明智は不審に思って問い掛けた。「お大師様、我が書棚にはございませんので、崇慈様にお尋ねしましたが、書庫には置いていないそうなのです。『恐らく、お大師様がお持ちではないか?』とおっしゃいましたが、如何でしょうか?」

 瑞覚大師は記憶の糸を辿り始めた。『東院全体に関わる名簿はわしの保管に間違いないことであるが…』と、その時ハッとした。昨年、玄空に贈った蔵書のことを思い出したのだった。その中にあったのならば、伊勢滝野の薬師寺にある筈だった。

 「ウーム、如何したものであろうか…」瑞覚大師は自分の迂闊さに声をなくした。

 東院の僧は概ね500名を超える大所帯で、その束ねは瑞覚大師の第1の勤めで、実務に付いては灯明番のおさが勤める慣わしだった。だが、小さな入れ替えは前任の栄信が3度勤めただけで、明智への引継ぎがなかったのは、栄信にも経験がなかったからだった。また、10月から始まる天安寺の当番替えは、その月のうちに終わる慣わしだった。

 「お大師様、栄信様の前任はどなたでしょうか?」明智の問いに、瑞覚大師が答えた。「浄久大師じょうきゅうだいしと言う齢50才の僧であったが、4年前に身罷ったのだよ。その時、東院の僧全員の名簿を我が書庫に納めたことを思い出したのじゃ。年ごとの入れ替えは少数で、右と左の入れ替えでも十分だったので、栄信は名簿なしでやっていたのであろう。こうなると、伊勢滝野まで行かねばならぬようじゃな…栄信は年若く、異例のことであったが、灯明番の長にしたのであるよ。当時より、栄信を凌ぐ者はいなかったのじゃ」瑞覚大師は当時を振り返り、懐かしむように目を潤ませて栄信を思った。

 明智はジッと考えて、一計を案じた。「お大師様、伊勢への遣いをだす一方で、異例でしょうが、名簿の作り替えをしては如何でしょう?2、3日のうちに調べ書きを作り、半月の後に割り振りを考えたいと思います」

 瑞覚大師は暫し思案した後、明智に命じた。「新たな名簿を作ることは必要であるが、僧の出入りや部屋割りに至るまで、すべてを抜かりなく把握できるようにしておくれ。また、後に名簿の写しを取って、崇慈の書庫に保管するよう頼みますよ」

 明智が部屋を出て行く時、瑞覚大師は書棚に祀った薬師如来像をフッと仰ぎ見た。素空が献じた薬師如来像は金色の光背を輝かせ、虹色の衣に、色とりどりの極彩色の模様が現れていた。

 明智が部屋を下がった後、瑞覚大師は脇息に体を預けて、ぼんやりと考えごとに耽っていた。『そうじゃ、そろそろ、興仁様にお願いしなければなるまい』そう呟くと、お付きの僧、栄垂えいすいを呼んで、興仁大師に遣いをだした。

 その日の昼過ぎに、西院の興仁大師が訪れた。「これはこれは、興仁様、お呼び立ていたし申し訳ありません。近頃は庭に出ることも叶わず、こうやって本堂とこの部屋の間を行き来するだけになりました」瑞覚大師は力なく詫びた。

 興仁大師は、いささか早く弱っているのではないかと心配した。「瑞覚様、そのようなご遠慮は無用に願います。ご用の時は何時なりともお呼び下さい。で、今日のご用向きとはどのようなことでしょう?」

 「実は、玄空には、私が召されるまで代理を務めてもらわねばなりませんが、西院から移籍して頂くよう、お願いしたいのです。不甲斐ないことに、このところ急に体が弱り始めました。体だけなら何とかなりましょうが、迂闊に過ぎることが目立ち始めているのです。これではお役目をまっとうすることができないと思いまして、当分の間、代理を立てたいと思った訳で…」瑞覚大師はそう言うと、脇息に持たれながら頭を垂れた。

 興仁大師はジッと目を閉じて思案した。玄空大師は、新堂の座主になったばかりで、西院の儀式にも加わることがなかったのだ。興仁大師の目論見では1年は早い移籍だった。興仁大師は目を開けて答えた。

 「瑞覚様、明日の昼に改めてお返事申し上げたいが、よろしいですかな?」

 「何の、無理な申し入れをしましたのじゃ、即答願おうとは思いませんし、2、3日が待てぬほどの容態ではありません」瑞覚大師は、そう言うと笑顔を作った。

 興仁大師はその足で新堂の薬師堂に向かった。薬師堂の表門まで来ると、仁王像に深々と頭を垂れて経を唱えた後、お付きの僧に言った。「樫仁かじんや暫らくここで格子の中を覗き、その後で裏門の毘沙門様の厨子を開いてごらん。僧であることを喜びとすることができるかも知れんよ」興仁大師の言葉に、樫仁は噂の仁王像を見上げた。宇土屋喜兵衛の危難を救ったと言う噂は、西院ではまことしやかに伝えられ、玄空の伝説と共に疑いのない真実と信じられていた。

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