新堂落成 その4

 その日、巳の刻みのこく(午前10時)に東院、西院の僧合わせて30名が落成式に出席した。西院からは興仁大師を始め、15名の僧が出席し、東院からも瑞覚大師を始め、15名の僧が出席した。その中で、素空と玄空は西院に、素空以外の仏師方8名は東院に含まれていたので、昨日栄雪が言ったことはまったく当てにならないことが分かった。栄雪は、素空と明智の前で情けない顔をした。

 素空は、栄雪の顔を見て、守護祈願は本当だったと慰めた。すると、栄雪は息を吹き返し、自慢げに胸を張ったので、玄空大師からでたことだと言うと、また元気がなくなった。3人は神官が登場するまでの間、昨日のように楽しい時間を過ごした。

 やがて、宇土屋喜兵衛に導かれて、神官が登場した。既に巳の下刻みのげこく(午前11時)になっていた。素空は、来賓の中に志賀孝衛門とおフサの顔を見付けると、その周囲に卯之助うのすけ六助ろくすけの姿を見た。松石と檀家達も数人いたが、皆、表門の守護神を振り返って何やら言葉を交わしていた。

 素空が目を転じると、岩倉屋惣左衛門が、家族を連れて参列していた。その手前の僧に話し掛けていたのが気になった。

 素空はハッとした。それは栄信だった。

 素空は、感動の涙が全身を貫くほどの喜びを感じた。新堂の守護神の前で、玄空大師に声を掛けられた時の喜びに似ていた。素空は、式が始まる前にこちらに呼び寄せようとした。

 「素空様、始まりますよ」栄雪に引き止められたその時、栄信ではなく別人だったと言うことが分かった。一瞬、素空の顔が青ざめたのを明智は見逃さなかった。この時、明智は、素空の心の中に栄信が住んでいることに思い当たった。

 境内の一角で、神官の祝詞のりとがしめやかに流れ、神式の竣工祭が始まった。神式の儀式はすぐに終わり、宇土屋が神官を伴なって、庫裏の方に引き上げた。

 昼食は、僧達が裏参道から運び込んだ握り飯と漬物だった。新堂の庫裏と客間は僧と来客で一杯になった。素空は、志賀孝衛門や松石達と暫らく歓談して、岩倉屋惣左衛門の方に向かった。

 「岩倉屋様、遠いところ良くおいで下さいました。この度は、一方ならぬお骨折りを頂きまして、まことにありがとうございました」

 素空が挨拶すると、岩倉屋惣左衛門はにこやかに笑みを浮かべて挨拶を返した。

 「お招き頂きありがとうございました。本日は、女人も参列が許されましたので、妻と娘のコウを連れて参りました。コウは身重ですが、素空様に頂いた観音様を胸に抱いて参りました。その節は、まことにありがとうございました」

 素空は、妻女とおコウにお辞儀をして、2人の顔を見た。

 おコウは病を得ていたとは思えない、晴れやかで、活き活きとした表情をしていた。素空が驚いたのは、岩倉屋夫婦が揃って信心深くなっていたことだった。目の動きが実に落ち着いていて、顔に仄かな笑みを湛えていた。

 岩倉屋は最後に、海童和尚かいどうおしょうを紹介した。対面すると、栄信とは似ても似つかぬ風貌の、50がらみの僧だった。

 海童は、素空の前に立つと、にこやかな笑みを浮かべて挨拶した。しかし、次第に素空の目力に圧倒され始め、顔をまともに見ることができなくなっていた。海童は、素空が玄空大師の弟子だと言うことを話題にした。すると、玄空大師所縁の僧だと知って、素空が玄空大師を呼びに行った。

 海童はホッとした。

 「惣左衛門殿、聞きしに勝るお方でした。私はこの年になるまで、このように追い込まれたことは初めてです。あのお方の瞳の奥には、すべてを見通す御仏が御住いのようじゃった。お若いのに、私など足元にも及ばぬお方です」海童は、素空の姿に、若い頃の玄空を写していた。

 やがて、素空が、玄空大師を連れて戻った。

 「海童様、我が師玄空が参りました」海童が、30余年前に世話になったことを告げた時、玄空大師の顔がほころんだ。

 「おお、そなたはあの壱慶いっけいか?お住職は如何なされた?」

 「お住職は、10年前に身罷りました。玄空様がお彫り下さった薬師如来像のお陰で、見事な往生でございました。死に際に、玄空様に感謝申し上げたいと、申しておりましたので、謹んでお伝えいたします」

 海童がそう言うと、玄空大師は真顔で語った。

 「お住職は、10年前に亡くなられたとな…そなたが後を継いだのかな?そなたは、良き小坊主であった。学問は怠らなかったかな?」玄空大師は、矢継早に質問した。

 海童は、玄空大師の顔に若い頃の面影を見出し始めた。玄空大師に何か言おうとしたが、溢れる涙で言葉にならなかった。

 「海童殿、どうされたのじゃ?」玄空大師が気遣わし気に尋ねると、涙を抑えて海童が答えた。

 「私は、玄空様に教えを頂いた時から今日まで、時折り当時のことを思い出して勉学に励んで参りました。40年近い歳月を経て、玄空様のお顔に当時の面影を見るに至り、思い掛けなく涙したのです。お懐かしゅう存じます」

 海童は、積年の思いが叶った喜びに心が満たされていた。

 素空は、玄空大師と海童が話をしている間、おコウと話をした。おコウは、素空が彫った観音菩薩を懐から取り出して見せた。

 「素空様に頂いた観音様を大切にお祀りいたしております。ご覧下さいませ」

 おコウは懐から取り出し、素空に見せて更に語った。

 「私は身籠っておりますが、観音様のお陰で毎日が幸せで、不安なことがまったくありません。家の者も、奉公人もいつしか信心深くなり、人の幸せがどのようなものか少しばかり分かったように思います。まことにありがとうございました」

 おコウが、素空に感謝した時、素空がすかさず言葉を掛けた。

 「おコウ様、人がこの世にあるのは、幸せになるために他なりません。真の幸せとは、この世にあっても、後の世にあっても幸せでなければならないのです。後の世でも幸せであるためには、御仏の御示しになる道を歩まねばならないのです。生まれて来るお子を慈しむように、周りの人を慈しむことです。何故なら、既にあなたが御仏に多くの慈しみを受けているからなのです。あなたと、あなたの大切な方々が幸せでありますよう、お祈り申し上げます。ご安心なされませ」

 素空はそう言うと、玄空大師の後を追った。

 午後は、仏式の落慶法要が興仁大師の司式で執り行われ、興仁大師、瑞覚大師が左右に並んで、その間に玄空大師が座した。興仁大師が経を唱え始めると、列席の僧達が一斉いっせいに後に続いた。長めの経が3本唱えられた後、興仁大師が挨拶をした。最後に守護神に対する守護の祈願を行うことが告げられ、興仁大師が素空に座を譲ってひとつ横に移動した。玄空大師と素空の2人が並んで座した時、明智が空を見上げた。

 遠い空が俄かに曇り始め、新堂を狙って迫り来るようだった。

 玄空大師が蜜迹金剛みっしゃこんごう那羅延堅固ならえんけんごのために経を唱え始めると、黒雲が新堂に迫るように広がった。素空は僅か遅れて玄空大師の後に続き、参列した僧達は、2人の響き合う声をジッと聴いていた。本堂の隅々まで細かく振動が伝わり、僧も来賓も嘗て経験したことがない感動を覚えた。

 経の中ほどまで来た時、突然の雷鳴が新堂を直撃した。

1本目の経が終わった時、玄空大師が素空に囁いた。「素空よ、次の経からは同時に唱えて、祈願成就を果たそうぞ!」素空は黙して従い、2本目の経が始まった。

 既に黒雲に包まれて、薄暗くなった本堂が白く輝き、2度目の雷鳴が大きく鳴り響いた。2本目の経は、裏門の守護神のために唱えられ、既に活性した仁王尊が、毘沙門天の息吹を呼び起こすように雷鳴が続き、経の声を掻き消した。玄空大師と素空の経は何時しか雷鳴を抑えるかのように、本堂に響き渡り、人も物もすべてを揺るがした。僧も来賓も経を唱えている2人の僧がただならぬ法力を備えていると感じた。2人の声が共鳴し天翔あまかけるりゅうのように抑揚し始めた。…経の響きは凄まじかった。毘沙門天も活性して既に仏の魂を持った3体の守護神は、暗い本堂の祭壇の脇に現れた。

 興仁大師はその姿を初めて捉えた時、心の底から驚きと、畏怖と、恭順を感じ、2人の仏師の真価を知った。

 闇の中で、おぼろに現した守護神の姿はすぐに消え失せ、その姿を捉えた者は数人の僧しかいなかった。経は響きを強く、弱く、また強く…やがて、2本目の経が終わった。3本目は活性した守護神に感謝をささげる穏やかな響きだった。

 守護の祈願で、守護神を見定めたのは、2人の貫首と明智、松石、海童の5人だけだったが、5人はその後も、このことを決して口にすることはなかった。

 僧と来賓に向かって、興仁大師が最後にひとこと告げた。

 「ご列席の皆様、守護神は既に御仏の御心を宿しており、雷鳴は仏師の祈りに答えたもので、守護神が生きていらっしゃる確かな証であると心得て頂きたい。信仰を保ち続ける者が危難の時、守護神が祈りを聞き入れることでしょうぞ!」

 ここに落慶法要は終わった。

 やがて、新堂の落成式に参列した人々が帰り始め、いよいよ、引き出物の懐地蔵が、名簿に従って手渡された。明智と仁啓、法垂が1冊の名簿をもとに献上し、栄雪、淡戒、行信がもう1冊の名簿をもとに献上した。

 献上はその日のうちにすべて終わった。

 懐地蔵の仏の印は人によって様々な形で現れた。老僧、高僧の内、明智達が手渡した僧のもとには、その夜のうちに現れ、改悛の涙を流すことになった。

 宇土屋喜兵衛は、甚太に語り掛けた。「なあ、甚太よ。素空様と言い、玄空様と言い、同じ人間とは思えないねぇ。わし等から見ると、お2人とも偉すぎるんだな。たいしたもんだよ。そう思わねえか?」

 甚太は頷きながらひとこと言った。

 「素空様の仁王様は本当に動きだしたんですよね。わし等は天安寺に足を向けて寝られませんや」

 宇土屋喜兵衛はしみじみと語った。

 「その昔、仏師は皆、お坊様だったのさ。殆んどが、大仏師を中心とした集団で、早くに尊い勤めとされていたんだよ。慶派や円派などの流派ができて、大きな寺には専属の仏師を置くようになったのさ。天安寺にも仏師が居なさっただろうが、既に多くの仏像は溢れるほどでき上がり、やがて仏師を抱えるまでもなくなり、寺をでた仏師は、自分の仕事場で弟子を取って、依頼された仏像を彫るようになったのさ。次第に形ばかりの仏像が溢れだし、真の御仏を写すものは見かけなくなったのだよ。だがなあ、お寺のお坊様の仏師は本物の仏像が作れるのさ。と言っても、30年前の毘沙門様と、新堂の表門の仁王様しか知らねぇが、それで十分だろうよ」

 2人は、格子の中の仁王様をジッと見た。筋肉の動きが伝わるように感じたその時。大きく見張った目が2人を見比べたのだった。2人は一瞬ギョッとしたが、もはや大きく驚くことなく、ジッと目を閉じ、感謝の気持ちを込めて手を合わせた。

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