新堂落成 その4
その日、
素空は、栄雪の顔を見て、守護祈願は本当だったと慰めた。すると、栄雪は息を吹き返し、自慢げに胸を張ったので、玄空大師からでたことだと言うと、また元気がなくなった。3人は神官が登場するまでの間、昨日のように楽しい時間を過ごした。
やがて、宇土屋喜兵衛に導かれて、神官が登場した。既に
素空が目を転じると、岩倉屋惣左衛門が、家族を連れて参列していた。その手前の僧に話し掛けていたのが気になった。
素空はハッとした。それは栄信だった。
素空は、感動の涙が全身を貫くほどの喜びを感じた。新堂の守護神の前で、玄空大師に声を掛けられた時の喜びに似ていた。素空は、式が始まる前にこちらに呼び寄せようとした。
「素空様、始まりますよ」栄雪に引き止められたその時、栄信ではなく別人だったと言うことが分かった。一瞬、素空の顔が青ざめたのを明智は見逃さなかった。この時、明智は、素空の心の中に栄信が住んでいることに思い当たった。
境内の一角で、神官の
昼食は、僧達が裏参道から運び込んだ握り飯と漬物だった。新堂の庫裏と客間は僧と来客で一杯になった。素空は、志賀孝衛門や松石達と暫らく歓談して、岩倉屋惣左衛門の方に向かった。
「岩倉屋様、遠いところ良くおいで下さいました。この度は、一方ならぬお骨折りを頂きまして、まことにありがとうございました」
素空が挨拶すると、岩倉屋惣左衛門はにこやかに笑みを浮かべて挨拶を返した。
「お招き頂きありがとうございました。本日は、女人も参列が許されましたので、妻と娘のコウを連れて参りました。コウは身重ですが、素空様に頂いた観音様を胸に抱いて参りました。その節は、まことにありがとうございました」
素空は、妻女とおコウにお辞儀をして、2人の顔を見た。
おコウは病を得ていたとは思えない、晴れやかで、活き活きとした表情をしていた。素空が驚いたのは、岩倉屋夫婦が揃って信心深くなっていたことだった。目の動きが実に落ち着いていて、顔に仄かな笑みを湛えていた。
岩倉屋は最後に、
海童は、素空の前に立つと、にこやかな笑みを浮かべて挨拶した。しかし、次第に素空の目力に圧倒され始め、顔をまともに見ることができなくなっていた。海童は、素空が玄空大師の弟子だと言うことを話題にした。すると、玄空大師所縁の僧だと知って、素空が玄空大師を呼びに行った。
海童はホッとした。
「惣左衛門殿、聞きしに勝るお方でした。私はこの年になるまで、このように追い込まれたことは初めてです。あのお方の瞳の奥には、すべてを見通す御仏が御住いのようじゃった。お若いのに、私など足元にも及ばぬお方です」海童は、素空の姿に、若い頃の玄空を写していた。
やがて、素空が、玄空大師を連れて戻った。
「海童様、我が師玄空が参りました」海童が、30余年前に世話になったことを告げた時、玄空大師の顔がほころんだ。
「おお、そなたはあの
「お住職は、10年前に身罷りました。玄空様がお彫り下さった薬師如来像のお陰で、見事な往生でございました。死に際に、玄空様に感謝申し上げたいと、申しておりましたので、謹んでお伝えいたします」
海童がそう言うと、玄空大師は真顔で語った。
「お住職は、10年前に亡くなられたとな…そなたが後を継いだのかな?そなたは、良き小坊主であった。学問は怠らなかったかな?」玄空大師は、矢継早に質問した。
海童は、玄空大師の顔に若い頃の面影を見出し始めた。玄空大師に何か言おうとしたが、溢れる涙で言葉にならなかった。
「海童殿、どうされたのじゃ?」玄空大師が気遣わし気に尋ねると、涙を抑えて海童が答えた。
「私は、玄空様に教えを頂いた時から今日まで、時折り当時のことを思い出して勉学に励んで参りました。40年近い歳月を経て、玄空様のお顔に当時の面影を見るに至り、思い掛けなく涙したのです。お懐かしゅう存じます」
海童は、積年の思いが叶った喜びに心が満たされていた。
素空は、玄空大師と海童が話をしている間、おコウと話をした。おコウは、素空が彫った観音菩薩を懐から取り出して見せた。
「素空様に頂いた観音様を大切にお祀りいたしております。ご覧下さいませ」
おコウは懐から取り出し、素空に見せて更に語った。
「私は身籠っておりますが、観音様のお陰で毎日が幸せで、不安なことがまったくありません。家の者も、奉公人もいつしか信心深くなり、人の幸せがどのようなものか少しばかり分かったように思います。まことにありがとうございました」
おコウが、素空に感謝した時、素空がすかさず言葉を掛けた。
「おコウ様、人がこの世にあるのは、幸せになるために他なりません。真の幸せとは、この世にあっても、後の世にあっても幸せでなければならないのです。後の世でも幸せであるためには、御仏の御示しになる道を歩まねばならないのです。生まれて来るお子を慈しむように、周りの人を慈しむことです。何故なら、既にあなたが御仏に多くの慈しみを受けているからなのです。あなたと、あなたの大切な方々が幸せでありますよう、お祈り申し上げます。ご安心なされませ」
素空はそう言うと、玄空大師の後を追った。
午後は、仏式の落慶法要が興仁大師の司式で執り行われ、興仁大師、瑞覚大師が左右に並んで、その間に玄空大師が座した。興仁大師が経を唱え始めると、列席の僧達が
遠い空が俄かに曇り始め、新堂を狙って迫り来るようだった。
玄空大師が
経の中ほどまで来た時、突然の雷鳴が新堂を直撃した。
1本目の経が終わった時、玄空大師が素空に囁いた。「素空よ、次の経からは同時に唱えて、祈願成就を果たそうぞ!」素空は黙して従い、2本目の経が始まった。
既に黒雲に包まれて、薄暗くなった本堂が白く輝き、2度目の雷鳴が大きく鳴り響いた。2本目の経は、裏門の守護神のために唱えられ、既に活性した仁王尊が、毘沙門天の息吹を呼び起こすように雷鳴が続き、経の声を掻き消した。玄空大師と素空の経は何時しか雷鳴を抑えるかのように、本堂に響き渡り、人も物もすべてを揺るがした。僧も来賓も経を唱えている2人の僧がただならぬ法力を備えていると感じた。2人の声が共鳴し
興仁大師はその姿を初めて捉えた時、心の底から驚きと、畏怖と、恭順を感じ、2人の仏師の真価を知った。
闇の中で、
守護の祈願で、守護神を見定めたのは、2人の貫首と明智、松石、海童の5人だけだったが、5人はその後も、このことを決して口にすることはなかった。
僧と来賓に向かって、興仁大師が最後にひとこと告げた。
「ご列席の皆様、守護神は既に御仏の御心を宿しており、雷鳴は仏師の祈りに答えたもので、守護神が生きていらっしゃる確かな証であると心得て頂きたい。信仰を保ち続ける者が危難の時、守護神が祈りを聞き入れることでしょうぞ!」
ここに落慶法要は終わった。
やがて、新堂の落成式に参列した人々が帰り始め、いよいよ、引き出物の懐地蔵が、名簿に従って手渡された。明智と仁啓、法垂が1冊の名簿をもとに献上し、栄雪、淡戒、行信がもう1冊の名簿をもとに献上した。
献上はその日のうちにすべて終わった。
懐地蔵の仏の印は人によって様々な形で現れた。老僧、高僧の内、明智達が手渡した僧のもとには、その夜のうちに現れ、改悛の涙を流すことになった。
宇土屋喜兵衛は、甚太に語り掛けた。「なあ、甚太よ。素空様と言い、玄空様と言い、同じ人間とは思えないねぇ。わし等から見ると、お2人とも偉すぎるんだな。たいしたもんだよ。そう思わねえか?」
甚太は頷きながらひとこと言った。
「素空様の仁王様は本当に動きだしたんですよね。わし等は天安寺に足を向けて寝られませんや」
宇土屋喜兵衛はしみじみと語った。
「その昔、仏師は皆、お坊様だったのさ。殆んどが、大仏師を中心とした集団で、早くに尊い勤めとされていたんだよ。慶派や円派などの流派ができて、大きな寺には専属の仏師を置くようになったのさ。天安寺にも仏師が居なさっただろうが、既に多くの仏像は溢れるほどでき上がり、やがて仏師を抱えるまでもなくなり、寺をでた仏師は、自分の仕事場で弟子を取って、依頼された仏像を彫るようになったのさ。次第に形ばかりの仏像が溢れだし、真の御仏を写すものは見かけなくなったのだよ。だがなあ、お寺のお坊様の仏師は本物の仏像が作れるのさ。と言っても、30年前の毘沙門様と、新堂の表門の仁王様しか知らねぇが、それで十分だろうよ」
2人は、格子の中の仁王様をジッと見た。筋肉の動きが伝わるように感じたその時。大きく見張った目が2人を見比べたのだった。2人は一瞬ギョッとしたが、もはや大きく驚くことなく、ジッと目を閉じ、感謝の気持ちを込めて手を合わせた。
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