志賀観音寺 その6

 素空は夜になって境内に出た。初夏の夜風は暖かく、月に照らされて辺りがハッキリと見えた。素空は阿形尊あぎょうそんの格子の前に座して経を唱えた。

 やがて、玄空大師が吽形尊うんぎょうそんの前で経を唱え始めると、2人の声が響き合い、重なり合い、互いに共鳴し、阿形と吽形2体が僅かに震えだし、格子の中で金色に輝やいた。光は共鳴する声の振れに従い、交互に輝きを強くし、掛け合うように息衝いた。

 庫裏くりにいた松石が、障子を震わせるほどの2人の経に、何事かと境内に出たが、それ以上先に進めなかった。玄空大師と素空の声の強弱に合わせるかのように、金色の輝きが強くなったり、弱くなったりを繰り返していた。松石には2体の仁王尊が、既に魂の籠った本物になったように見え、これ以上、覗き見ることも、近付くこともできなくなった。威圧感と畏れが混じったこの感覚は、鞍馬谷で素空を見た時を思い出させるものだった。松石には、阿形尊と吽形尊が互いに意思を持って何かを伝えているように見えた。松石はこれ以上覗き見るのが憚られ、高鳴る胸に手を置きながら、庫裏に戻って行った。

 玄空大師と素空は明け方まで経を唱えた。空が白み掛けた時、志賀観音寺を2度の地震が襲った。揺れはすぐに収まり、2人は目と目を合わせ経を終えた。

 2人は今、仏の心を念じ込めたことを確信し、昼までの間は、蜜迹金剛みっしゃこんごう那羅延堅固ならえんけんごに経を捧げて、寺と里の守護をひたすら祈願するだけだった。

 朝食は、松石が用意した。「玄空様、お疲れではありませんか?」

 玄空大師は、松石の気遣いが嬉しかった。多少憔悴感があるものの、未明の完成を見て、仏師として満たされた思いだった。

 「若い素空のようには行かないが、わしもまだまだ元気だよ。何しろ御仏の御姿を現すための仕上げとなると、仏師冥利ぶっしみょうりに尽きるのだよ。この時が仏師としての最大の喜びなのじゃよ。これから昼までが肝心だがな!」玄空大師は、いつもの笑顔を松石に向けた。

 朝食の後、玄空大師は素空と共に仁王像の格子の中に入って行った。玄空大師は阿形尊、素空は吽形尊の格子の中に入り込んで、経を唱え始めた。格子の中は綺麗に整えられ、狭かったが、座して経を唱えるには十分だった。2人の経が響き合い、共鳴して周りの物を振るわせ始めた。

 やがて、檀家代表が次々に遣って来た。格子の中の2人に、深々とこうべれて、体を震わせる声に驚きと敬虔けいけんな思いを持って、足早に本堂に向かった。

 昼食の前に経が終わり、檀家を含めて昼食を摂った。3人の僧と、賄のおウスと、5人の檀家代表が座して、仁王像の仕上げを祝った。

 簡単に昼食をすませると、松石が、玄空大師と素空に感謝の言葉を述べ、次に仁王像を寄進した檀家達に感謝した。

 松石の言葉が終わると、玄空大師が松石との約束に答えて言った。

 「今日、守護神は完成いたしました。皆様方に初めに申しておかなければなりません。寺の門内の守護神は、この寺に近付く仏敵を退けるためばかりではなく、志賀の里に害を及ぼす者から、里人を守るよう祈願しました。苦難の時も平穏の時も、毎日欠かすことなく、御仏の御加護を一心に願うことです。さすれば、阿形尊と吽形尊がたちどころに動きだし悪を挫くことでしょう」

 玄空大師が話し終えた時、数人の檀家が境内に集まっていた。

 志賀孝衛門達も庭に出て、仁王像の拝観をすることにしたが、松石は昨日、玄空大師に許可を得ていたので、平然として格子の中に入って行った。

 松石には真の姿を見ることができる眼を持っていた。阿形尊の格子に入り、背後から横手に来るまでに、阿形尊の息遣いを感じた。恐る恐る顔を見上げると、目をこちらに向けていた。ギョッとしてよろけると、帯をむんずと掴まれて支えられた。すぐに、体勢を整えると、その手は元の位置に戻っていた。松石は阿形尊に畏れを抱いて、格子の外に出て来たが、吽形尊の格子の中に入ることはなかった。

 「おや、松石様、お顔の色がお悪いようですが大丈夫ですか?」

 志賀市衛門が尋ねると、松石は浮かぬ顔で作り笑いを見せた後、まじめな顔で語った。「皆様、よくよくご信心なされよ。玄空様のお言葉の通り、仁王様は、皆様に危難が降り掛かった時、必ずやお守り下さることでしょう。まさしく、仁王様は生きていらっしゃいます」その言葉を疑う者は1人もいなかった。

 その日は、午後から30人ほどの参拝者があり、数人が集まると、その都度本堂で松石が経を唱え、信心を深めれば守護神の助けを得ることができると説いた。

 夕刻、すべての檀家が帰り、3人の僧と賄いのおウスの4人になった。夕食が終わり、おウスが片付けをすませて帰り支度を始めた頃、素空が声を掛けた。

 「おウス様、長らくお世話になりました。毎日おいしく頂きました。これは御仏の御心を彫り込んだ懐地蔵で、お礼の気持ちです。どうぞお受け取り下さい」

 手渡された懐地蔵はこぶしほどの小さな体で、笑顔の表情が可愛いものだった。

 おウスがひと目で気に入ったことは明らかで、懐に仕舞うと、笑顔を向けて素空に礼を言い、家路についた。

 この日は新月しんげつで、この辺りは山影になっていたので、陽が落ちると提灯ちょうちんが欠かせなかった。おウスは仁王門を通り抜ける時、懐にドンと重みを感じて胸元を抑えた。階段を下ったら2町(200m)先に家があったが、真っ暗な闇の先は無限に続きそうな気配がした。何故か足元の周りだけが仄白ほのじろく照らされて、その先はまったくの闇だった。その時、一陣いちじんの風が吹き、手にした提灯の灯が消えた。10歩ほど歩いた時、おウスは戻るべきだと感じたが、既に寺の石段の方向が分からなくなっていた。

 志賀の里はその昔、野盗に2度の蹂躙じゅうりんを受け、初めは里人や旅人の血が流され、後に野盗が駆逐される頃には、野盗と役人達の血が流れた。まさにこの辺りには、成仏できない霊が夜陰に紛れて現れるのだった。

 おウスは子供の頃、姉と従姉妹いとこの3人で同じような経験をした。その日も、新月の真っ暗な夜に、庭で遊んでいたが、何故か家の明かりも届かなくなり、隣の姉もどこにいるのか分からなくなったのだ。従姉妹は泣き出して助けを求めたが、家の中まで届かないどころか、おウスの耳にも次第に届かなくなっていった。恐怖が広がり背筋に冷たい感覚が流れてぞっとした。3人は何時しか1人ぼっちになり、闇の恐怖に打ちのめされた。おウスは泣いたが、その泣き声は自分の耳にも聞こえなくなって恐怖が倍に膨らんだ。

 おウスが子供の頃に体験したことは、記憶の奥底に仕舞い込まれていたが、この夜、おウスの記憶は目覚め、子供の時の恐怖が蘇った。暗闇はおウスの歩みを止め、背筋の悪寒は心を萎えさせ、その場に佇むだけだった。それからすぐに、思い出したように一心に経を唱えた。

 子供の頃なら、ただ泣くばかりだったが、大人になった今、おウスには信じるものがあった。信仰の火種を燃え上がらせるように、おウスは一心に祈った。やがて、周りの暗闇は心の中の暗闇に変わり、祈りの先に金色こんじきほのかな輝きを見詰めていた。

 光は次第に大きくなり、心の中一杯に輝いた。やがておウスが目を開くと、依然として暗闇が広がっていた。胸元の金色の輝きに気付くと、そっと懐から取り出した。 懐地蔵が金色の輝きを放ち、辺りはいつもの暗い新月の夜に戻って、夜空には、無数の星が輝いていた。

 おウスは、消えた提灯と懐地蔵を手にして、暗い夜道を真っ直ぐに帰って行った。家に帰り着くと、亭主の五助が出迎えたが、おウスはその場に倒れ込み、翌日の昼過ぎまで床に就いた。

 おウスが、五助に夕べのできごとを話すと、五助は懐地蔵を改め始めた。何も変わったところがないようだったが、すぐに仏壇に祀って経を唱えた。

 五助はおウスに言った。「これからは肌身離さず持つようにしないといけないな。この辺りは、夜中になると、霊が悪さをすると言われているからね。それにしても、素空様がこしらえた懐地蔵のお力で霊が退散したことは確かだな。家にいる時は仏壇にお祀りして、お祈りすることにしよう」おウスは、黙って頷いた。

 翌朝、玄空大師と素空は天安寺に戻った。

 志賀観音寺では、新月の夜におウスの不思議な体験があっただけで、暫らくの間、平穏な日々が続いた。しかし、志賀観音寺の仁王像が仕上げられて、ひと月ほど経った頃、志賀の里を盗賊の一味いちみ跋扈ばっこした。この時、志賀観音寺の仁王像は、里人を守る守護神として働いたのだった。

 盗賊は、15名の集団で、大津おおつを拠点に北は今津いまづ、南は伏見ふしみ、東は彦根ひこねまで広範囲を荒らし回っていた。志賀の里では、志賀孝衛門と市衛門の屋敷が狙われたが、盗賊は先に市衛門の屋敷に現れた。三日月みかづきの薄明かりの中、邪悪な風を切って、黒装束をまとった15の影が市衛門の屋敷前に立った。塀を越えて庭に立つと、門の扉に掛けたかんぬきを外した。

 賊が押し入った時、小男の1人が物音に驚いて大声をだした。家中騒然となったが、明かりの消えた家の中では、盗賊もむやみに刀を振るう訳にはいかなかった。市衛門夫婦は、異変に気付くと、その場で経を唱え始めた。経は屋敷の者すべてが無事であるよう、仏の加護を願うものだった。

 祈りはたちどころに聞き入れられ、市衛門の部屋に観音寺で見た仁王尊が、金色の薄明かりに包まれて現れた。その姿は暗闇でもハッキリ分かった。2人は、更に経を唱え続け、仁王尊は賊を懲らしめ続けた。

 暫らく後に賊のすべては、廊下にまとめられ、身動き取れないようになっていた。あっと言う間のできごとだったが、奉公人の誰も仁王尊を見た者はいなかった。

 ただ、市衛門と女房だけがハッキリとその姿を目にしていたのだ。市衛門は、玄空大師の仁王尊が、寺からお出ましになったことを確信した。

 明くる朝、市衛門は役人を呼んで賊を捕らえてもらったが、不思議な事実を伝えることはなかった。役人の調べ書きには、『俄かの病のため、動けなくなった』として処理された。いずれにしても、大津一円おおついちえんを荒らし回った盗賊一味が、志賀で捕らえられたことは都まで広まり、志賀で悪事を企む者はその後現れなかった。

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