志賀観音寺 その6
素空は夜になって境内に出た。初夏の夜風は暖かく、月に照らされて辺りがハッキリと見えた。素空は
やがて、玄空大師が
玄空大師と素空は明け方まで経を唱えた。空が白み掛けた時、志賀観音寺を2度の地震が襲った。揺れはすぐに収まり、2人は目と目を合わせ経を終えた。
2人は今、仏の心を念じ込めたことを確信し、昼までの間は、
朝食は、松石が用意した。「玄空様、お疲れではありませんか?」
玄空大師は、松石の気遣いが嬉しかった。多少憔悴感があるものの、未明の完成を見て、仏師として満たされた思いだった。
「若い素空のようには行かないが、わしもまだまだ元気だよ。何しろ御仏の御姿を現すための仕上げとなると、
朝食の後、玄空大師は素空と共に仁王像の格子の中に入って行った。玄空大師は阿形尊、素空は吽形尊の格子の中に入り込んで、経を唱え始めた。格子の中は綺麗に整えられ、狭かったが、座して経を唱えるには十分だった。2人の経が響き合い、共鳴して周りの物を振るわせ始めた。
やがて、檀家代表が次々に遣って来た。格子の中の2人に、深々と
昼食の前に経が終わり、檀家を含めて昼食を摂った。3人の僧と、賄のおウスと、5人の檀家代表が座して、仁王像の仕上げを祝った。
簡単に昼食をすませると、松石が、玄空大師と素空に感謝の言葉を述べ、次に仁王像を寄進した檀家達に感謝した。
松石の言葉が終わると、玄空大師が松石との約束に答えて言った。
「今日、守護神は完成いたしました。皆様方に初めに申しておかなければなりません。寺の門内の守護神は、この寺に近付く仏敵を退けるためばかりではなく、志賀の里に害を及ぼす者から、里人を守るよう祈願しました。苦難の時も平穏の時も、毎日欠かすことなく、御仏の御加護を一心に願うことです。さすれば、阿形尊と吽形尊がたちどころに動きだし悪を挫くことでしょう」
玄空大師が話し終えた時、数人の檀家が境内に集まっていた。
志賀孝衛門達も庭に出て、仁王像の拝観をすることにしたが、松石は昨日、玄空大師に許可を得ていたので、平然として格子の中に入って行った。
松石には真の姿を見ることができる眼を持っていた。阿形尊の格子に入り、背後から横手に来るまでに、阿形尊の息遣いを感じた。恐る恐る顔を見上げると、目をこちらに向けていた。ギョッとしてよろけると、帯をむんずと掴まれて支えられた。すぐに、体勢を整えると、その手は元の位置に戻っていた。松石は阿形尊に畏れを抱いて、格子の外に出て来たが、吽形尊の格子の中に入ることはなかった。
「おや、松石様、お顔の色がお悪いようですが大丈夫ですか?」
志賀市衛門が尋ねると、松石は浮かぬ顔で作り笑いを見せた後、まじめな顔で語った。「皆様、よくよくご信心なされよ。玄空様のお言葉の通り、仁王様は、皆様に危難が降り掛かった時、必ずやお守り下さることでしょう。まさしく、仁王様は生きていらっしゃいます」その言葉を疑う者は1人もいなかった。
その日は、午後から30人ほどの参拝者があり、数人が集まると、その都度本堂で松石が経を唱え、信心を深めれば守護神の助けを得ることができると説いた。
夕刻、すべての檀家が帰り、3人の僧と賄いのおウスの4人になった。夕食が終わり、おウスが片付けをすませて帰り支度を始めた頃、素空が声を掛けた。
「おウス様、長らくお世話になりました。毎日おいしく頂きました。これは御仏の御心を彫り込んだ懐地蔵で、お礼の気持ちです。どうぞお受け取り下さい」
手渡された懐地蔵は
おウスがひと目で気に入ったことは明らかで、懐に仕舞うと、笑顔を向けて素空に礼を言い、家路についた。
この日は
志賀の里はその昔、野盗に2度の
おウスは子供の頃、姉と
おウスが子供の頃に体験したことは、記憶の奥底に仕舞い込まれていたが、この夜、おウスの記憶は目覚め、子供の時の恐怖が蘇った。暗闇はおウスの歩みを止め、背筋の悪寒は心を萎えさせ、その場に佇むだけだった。それからすぐに、思い出したように一心に経を唱えた。
子供の頃なら、ただ泣くばかりだったが、大人になった今、おウスには信じるものがあった。信仰の火種を燃え上がらせるように、おウスは一心に祈った。やがて、周りの暗闇は心の中の暗闇に変わり、祈りの先に
光は次第に大きくなり、心の中一杯に輝いた。やがておウスが目を開くと、依然として暗闇が広がっていた。胸元の金色の輝きに気付くと、そっと懐から取り出した。 懐地蔵が金色の輝きを放ち、辺りはいつもの暗い新月の夜に戻って、夜空には、無数の星が輝いていた。
おウスは、消えた提灯と懐地蔵を手にして、暗い夜道を真っ直ぐに帰って行った。家に帰り着くと、亭主の五助が出迎えたが、おウスはその場に倒れ込み、翌日の昼過ぎまで床に就いた。
おウスが、五助に夕べのできごとを話すと、五助は懐地蔵を改め始めた。何も変わったところがないようだったが、すぐに仏壇に祀って経を唱えた。
五助はおウスに言った。「これからは肌身離さず持つようにしないといけないな。この辺りは、夜中になると、霊が悪さをすると言われているからね。それにしても、素空様がこしらえた懐地蔵のお力で霊が退散したことは確かだな。家にいる時は仏壇にお祀りして、お祈りすることにしよう」おウスは、黙って頷いた。
翌朝、玄空大師と素空は天安寺に戻った。
志賀観音寺では、新月の夜におウスの不思議な体験があっただけで、暫らくの間、平穏な日々が続いた。しかし、志賀観音寺の仁王像が仕上げられて、ひと月ほど経った頃、志賀の里を盗賊の
盗賊は、15名の集団で、
賊が押し入った時、小男の1人が物音に驚いて大声をだした。家中騒然となったが、明かりの消えた家の中では、盗賊もむやみに刀を振るう訳にはいかなかった。市衛門夫婦は、異変に気付くと、その場で経を唱え始めた。経は屋敷の者すべてが無事であるよう、仏の加護を願うものだった。
祈りはたちどころに聞き入れられ、市衛門の部屋に観音寺で見た仁王尊が、金色の薄明かりに包まれて現れた。その姿は暗闇でもハッキリ分かった。2人は、更に経を唱え続け、仁王尊は賊を懲らしめ続けた。
暫らく後に賊のすべては、廊下にまとめられ、身動き取れないようになっていた。あっと言う間のできごとだったが、奉公人の誰も仁王尊を見た者はいなかった。
ただ、市衛門と女房だけがハッキリとその姿を目にしていたのだ。市衛門は、玄空大師の仁王尊が、寺からお出ましになったことを確信した。
明くる朝、市衛門は役人を呼んで賊を捕らえてもらったが、不思議な事実を伝えることはなかった。役人の調べ書きには、『俄かの病のため、動けなくなった』として処理された。いずれにしても、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます