志賀観音寺 その5

 素空は、玄空大師が千手観音の先を見た時のことを尋ねた。

 「お住職様、千手観音菩薩せんじゅかんのんぼさつ眷属けんぞくである蜜迹金剛みっしゃこんごう那羅延堅固ならえんけんごを如何にしてご覧になったのでしょうか?」

 玄空大師はにこやかに答えた。

 「素空よ、わしがそなたに授ける最後の教えとなるであろう」

 そう前置きして語り始めた。

 「そなたが守護神を仕上げた時、千手観音菩薩を越えてその眷属を見たことは、容易に察しが付いたのだが、その高みを見た者なら自ら答えを存じている筈じゃ。わしが最初に千手観音様に行き着いたのは、あの毘沙門様びしゃもんさまの仕上げ半ば、つまり、天安寺を下りる10日ほど前のことであった。毘沙門様は千手観音菩薩の眷属ばかりではないから、そなたが初めに目にした天部てんぶの中の四天王してんのうに属しており、彫り始めた時には四天王を見ることで、真の御姿を求めることができたのじゃ。千手観音菩薩の28部衆にじゅうはちぶしゅうの中にも属することは分かっていたが、容易に近付けなかったのじゃよ。そなたと同様にな…」

 玄空大師は一息吐いて、すぐに語り継いだ。

 「天部の四天王とは別に、28部衆の中の毘沙門様を見ておきたい。そう思い立つと、ひたすら禅を組み、来る日も来る日も、千手観音の先を目指したのじゃよ。そなた同様、やっと行き着いたのだが、同時に悟りを得た瞬間でもあったのじゃ」

 玄空大師は、フッと一息吐き当時を思い出しているようだった。

 素空がその先を促すと、我に返った風情でひとこと言った。

 「昔を思い出していたのじゃ。未熟な若い頃を…」

 素空が、玄空大師の言葉の意味を問うと、苦しそうな顔で玄空大師が答えた。

 「わしが千手観音様の先に行き着いた時、当時の貫首かんじゅだった、想雲大師に問われるままに答えたのじゃよ。わしも若かったのじゃ。喜びを露わにして答えたのだが、それがお大師様の嫉妬を誘ってしもうたのだよ。僧の中にそのような者がおろうとは夢にも思わなかった。その後、3日余り忍耐の日々であった。お大師の性分は、日頃よりかんばしくなかったのだが、まさか、それほどまでとは思いも寄らぬことだった。その先は、そなたも聞いておろう」

 素空は、玄空大師の悲しみを思って涙が止まらなかった。

 「私は、瑞覚大師や興仁大師に大切にされて、まことに幸せ者です。考えてみれば、お住職様に引き取られて以来、今日まで、苦しみを受けたことはありません」

 素空の言葉を、玄空大師が否定した。

 「いいや、人の性分が罪を呼ぶこともあるのじゃよ。わしは軽率だったのじゃ」

 玄空大師の自戒の言葉に、素空は更に涙ぐんだ。

 「素空よ、良くお聴き。よき人の集まりの中では罪は生まれれぬものなのだよ。周りの者に善か悪かを問えば、その者の心は穢れを帯びるのだよ。しかし、周りの者がすべて善と思って接すれば、思わぬ不幸を招くことがあるのだよ。難問ではあるが、我らは、人の善を信じて生きることが、御仏に倣う生き方と心得るのじゃ。我が想いを、相手が裏切ったとしても、相手の善なることを信じ切らねばならぬのだよ。若い時、わしの心にそれでも『本望』と思える覚悟がなかったのだろうよ…」

 素空は、そんな師匠のもとで幸せを享受していた自分を顧みて、感謝の思いしかなかなく、涙が止まらなかった。

 「素空よ、仏師とは御仏の真の御姿を彫り上げる者であれば、その身は、真の御仏を見ることができねばならぬのじゃ。まさに、真の仏師とは、真の御仏を知り、彫り上げることができる者、真贋しんがんを見極めることのできる者を言うのだよ。これは、8年前に、初めに教えたことであるから、よく覚えているであろう。我らは、人の善なることを思い、御仏を彫り上げなければ、御仏に倣いて生きる仏道を歩めぬのだよ」素空は頷いた。

 「素空が、こころざしを抱いて仏師となりて、早や8年、既にわしと並ぶ者となったのじゃ。つまり、これよりは、わしの教えを乞うことなく、1人立ちできるまでになったのじゃよ。めでたいことじゃ」玄空大師は笑顔でしみじみ語った。

 松石が来て、たいの開きと干し鮑ほしあわびをもらったので、夕食を楽しみにして下さいと言って、くりやの方に戻って行った。その日の夜は、目を見張るほどのご馳走だった。

 松石は食事を作れなかったので、近所に住むおウスと言う30前の檀家の女房に、夜だけまかないを頼んでいた。それでも、朝と、昼は見よう見真似で松石が作るのだが、どうにも頂けないため、玄空大師に手ほどきを受けていた。玄空大師は観音寺の仁王像を手直しするだけではなく、寺の諸事に付いて伝授したが、食事のことは根本の大事だと伝えた。

 鯛の開きは片身だったが、鮑は里芋さといもの煮物に入れてあり、絶品とはまさにこのことだった。3人の僧は初めてのご馳走に、大いに喜んだ。

 「斯様においしい物がこの世にあったとは、思いも付かないことでした」松石の言葉に玄空大師が大きく頷き、素空を見てニッコリ笑った。

 素空はこれまでに1番のご馳走と言えば、志賀孝衛門の家に、2度目に泊まった時のものだったが、今日の鮑に勝る物はこの世にないと思われた。

 「玄空様、仕上げが終わるのはもうすぐではありませんか?」食事の途中で松石が尋ねた。

 「素空が半分を仕上げたお陰で、間もなく完成の運びとなるが、残るはころもと持ち物を作り直すのみだよ。御心は5日後、吹き込まれる手筈なのだよ」玄空大師の言葉に、松石はジッと思案して、最も気になることを尋ねた。

 「玄空様、仁王様は生きるのでしょうか?この寺を仏敵から守るために、動きだすことがあるのでしょうか?」

 玄空大師は、ご馳走を口にしながら、にこやかに答えた。

 「松石様、今はまだ仕上がっていません。お答えは、天安寺に戻るまでにいたしましょうぞ」そう言うとご馳走を頬張った。

 次の日、素空が金剛杵こんごうしょを作り始めたので、玄空大師は両方の衣を仕上げ始めた。衣は殆んど取り払われ、腰まわりにさらりと薄くまとうだけにした。衣が殆んどなくなると、強靭な筋肉が目立つようになり、一層精悍いっそうせいかんさを増した。松石は、あと4日、あと3日と完成を心待ちにした。

 あと3日になった日に、寺の檀家総代に完成の日を知らせた。志賀孝衛門は既に玄空大師の法力を信じていたので、檀家代表の4人と近所の人々に、完成の日に寺に集まるよう触れ回った。

 松石は、日ごとに落ち着きをなくし、玄空大師に冷やかされるほどだった。賄いのおウスが、夕食の支度をしながら、クスクス笑い始めると、玄空大師が大声で笑った。素空も、松石の憎めない性分が、このあたりから滲みでていることを知り、微笑ましく思った。

 「玄空様、明日はいよいよ完成ですね。そう思うとワクワクして来ます。明日は、格子の中に入っても良いでしょうか?」松石の言葉に、玄空大師が笑顔で答えた。

 「松石様、明日は昼餉ひるげの後にご覧になるといいでしょう」

 玄空大師も素空も、明日は何かと忙しくなりそうな気がしたので、今夜のうちに準備をしようと決心した。

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