志賀観音寺 その5
素空は、玄空大師が千手観音の先を見た時のことを尋ねた。
「お住職様、
玄空大師はにこやかに答えた。
「素空よ、わしがそなたに授ける最後の教えとなるであろう」
そう前置きして語り始めた。
「そなたが守護神を仕上げた時、千手観音菩薩を越えてその眷属を見たことは、容易に察しが付いたのだが、その高みを見た者なら自ら答えを存じている筈じゃ。わしが最初に千手観音様に行き着いたのは、あの
玄空大師は一息吐いて、すぐに語り継いだ。
「天部の四天王とは別に、28部衆の中の毘沙門様を見ておきたい。そう思い立つと、ひたすら禅を組み、来る日も来る日も、千手観音の先を目指したのじゃよ。そなた同様、やっと行き着いたのだが、同時に悟りを得た瞬間でもあったのじゃ」
玄空大師は、フッと一息吐き当時を思い出しているようだった。
素空がその先を促すと、我に返った風情でひとこと言った。
「昔を思い出していたのじゃ。未熟な若い頃を…」
素空が、玄空大師の言葉の意味を問うと、苦しそうな顔で玄空大師が答えた。
「わしが千手観音様の先に行き着いた時、当時の
素空は、玄空大師の悲しみを思って涙が止まらなかった。
「私は、瑞覚大師や興仁大師に大切にされて、まことに幸せ者です。考えてみれば、お住職様に引き取られて以来、今日まで、苦しみを受けたことはありません」
素空の言葉を、玄空大師が否定した。
「いいや、人の性分が罪を呼ぶこともあるのじゃよ。わしは軽率だったのじゃ」
玄空大師の自戒の言葉に、素空は更に涙ぐんだ。
「素空よ、良くお聴き。よき人の集まりの中では罪は生まれれぬものなのだよ。周りの者に善か悪かを問えば、その者の心は穢れを帯びるのだよ。しかし、周りの者がすべて善と思って接すれば、思わぬ不幸を招くことがあるのだよ。難問ではあるが、我らは、人の善を信じて生きることが、御仏に倣う生き方と心得るのじゃ。我が想いを、相手が裏切ったとしても、相手の善なることを信じ切らねばならぬのだよ。若い時、わしの心にそれでも『本望』と思える覚悟がなかったのだろうよ…」
素空は、そんな師匠の
「素空よ、仏師とは御仏の真の御姿を彫り上げる者であれば、その身は、真の御仏を見ることができねばならぬのじゃ。まさに、真の仏師とは、真の御仏を知り、彫り上げることができる者、
「素空が、
松石が来て、
松石は食事を作れなかったので、近所に住むおウスと言う30前の檀家の女房に、夜だけ
鯛の開きは片身だったが、鮑は
「斯様においしい物がこの世にあったとは、思いも付かないことでした」松石の言葉に玄空大師が大きく頷き、素空を見てニッコリ笑った。
素空はこれまでに1番のご馳走と言えば、志賀孝衛門の家に、2度目に泊まった時のものだったが、今日の鮑に勝る物はこの世にないと思われた。
「玄空様、仕上げが終わるのはもうすぐではありませんか?」食事の途中で松石が尋ねた。
「素空が半分を仕上げたお陰で、間もなく完成の運びとなるが、残るは
「玄空様、仁王様は生きるのでしょうか?この寺を仏敵から守るために、動きだすことがあるのでしょうか?」
玄空大師は、ご馳走を口にしながら、にこやかに答えた。
「松石様、今はまだ仕上がっていません。お答えは、天安寺に戻るまでにいたしましょうぞ」そう言うとご馳走を頬張った。
次の日、素空が
あと3日になった日に、寺の檀家総代に完成の日を知らせた。志賀孝衛門は既に玄空大師の法力を信じていたので、檀家代表の4人と近所の人々に、完成の日に寺に集まるよう触れ回った。
松石は、日ごとに落ち着きをなくし、玄空大師に冷やかされるほどだった。賄いのおウスが、夕食の支度をしながら、クスクス笑い始めると、玄空大師が大声で笑った。素空も、松石の憎めない性分が、この
「玄空様、明日はいよいよ完成ですね。そう思うとワクワクして来ます。明日は、格子の中に入っても良いでしょうか?」松石の言葉に、玄空大師が笑顔で答えた。
「松石様、明日は
玄空大師も素空も、明日は何かと忙しくなりそうな気がしたので、今夜のうちに準備をしようと決心した。
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