志賀観音寺 その4

 玄空大師は、志賀孝衛門の客間前の廊下で、観音菩薩に仕上げの手を入れた。

 「お住職様、既に御仏の御心を示された御姿に、何故仕上げの手を入れるのでしょうか?」

 素空の質問に、にこやかな笑顔で答えた。「人は御仏に、より尊きを求め、心の拠りどころとするものじゃよ。志賀様の代で終わればそれも良し。じゃが、御姿は後世に残り、真価を知る者ばかりではなく、真の御姿であることを知らぬ者もでて来ようと思えば、素空よそなたも同じことをする筈だろうよ」

 素空は、後々の世代に渡ってこの仏像を大切にして欲しいと思う、玄空大師の心を理解した。

 玄空大師は、仕上げの彫りをするばかりではなく、おフサの話し相手をした後、仏間で経を唱えたりした。

 おフサはこの時、素空と玄空大師の経の違いに気付いた。素空の声は胸に響き、魂を揺り動かされる思いだったが、玄空大師の声は枯れていた。若い素空にはない枯れて成熟した、深みのある声であり、心に直接響いて来た。

 「何とも心に沁みるお経ですねぇ…」

 おフサは感じ入った。これほど魂を揺さぶられたことは初めての経験で、素空の時に感じた胸奥を揺さぶる感動を上回っていた。

 おフサは1日中、玄空大師に付いて歩いた。年頃が近いせいもあって、話し易く、気さくな玄空大師の傍らにいるだけで幸せな気分だった。

 「おフサ、玄空様の邪魔にならないようにしなくてはいけませんよ」

 孝衛門は、玄空大師の行動の邪魔をしないようにと考えたが、玄空大師は一向に気にしない様子で語った。

 「孝衛門様、心よき人と共にいることに、何のさわりがありましょうや?この世に志賀様ご夫婦のようなお方ばかりであれば、人と人とが手を携えて、いつも傍らにいられるものと思います。奥方のお心のままになされるがよろしかろう」

 玄空大師は笑顔を見せて、観音菩薩に切出しを当て始めた。

 おフサは笑顔で眺めていた。「玄空様、このお姿から金色の光がでたのですが、仕上げなさると、今度は本当の観音様がでていらっしゃるのでしょうか?」

 おフサは、1番気になることを質問した。

 「おかみ様、仕上げようが、仕上げまいが、この観音様は本物の御仏でござるよ。以前に金色の輝きを放ったのであれば、これからも金色の輝きを放つことでしょう。私が仕上げの手を入れることを決めたのは、志賀様の何代か後のお方が形にこだわり、粗彫あらぼりの仏像を粗雑そざつに扱うことがないよう、真の御姿に倣って美しく仕上げたいと思ったからです。それから、常に御仏の御降臨に与る人は稀で、現れるとすれば、重大な理由がある場合に限られるのです。例えば、臨終の間際や、心の底から御仏にすがる時、そして、仏罰を受ける時。…概ねこれ以外では殆んど皆無と言えるでしょう」

 玄空大師は、おフサに笑顔を向けて更に言った。

 「おかみ様は信心深いお方でござれば、ご主人同様、人の世にあるうちに御仏を見ることができるでしょう。今があまりにも幸せで、御仏が現れるに必要な状況ではないと言うことでしょうが、これは良いことでござるよ」玄空大師は、仕上げの手を更に進めた。

 おフサは、玄空大師の横顔を見ながら、素空の顔を思い出していた。玄空大師と素空の顔は決して似てはいなかったが、ただ1つ、瞳の輝きが深く美しいところが似ていた。玄空大師の瞳の中に素空を見ることができるような気がした。

 「おかみ様、私の顔を見ているようだが、どのような訳ですかな?」

 「玄空様のお顔に素空様と同じ瞳の輝きを見ましたもので…素空様がお年を取られたら、玄空様のようになられるのかと、勝手に思ってしまいました」

 玄空大師は笑みを浮かべて優しく語り始めた。

 「7才の素空をひと目見た時、驚きと喜びが入り混じった初めての感覚に驚いたものでした。神童しんどうと言う言葉は素空のためにあるようなものだった。私の眼に狂いはなかった。賢く向学心旺盛で、何より心根が真っ直ぐだったのだよ。素空は最初から御仏の方を向いて迷いがなかったのだよ。私は素空にすべてを伝授し、素空はそのことごとくを身に付けたのだよ。あの年で私と同じ物を身に付けていると言うことは、素空が私の年になった時、私以上の僧となるのは必定だよ。つまり、素空は私をすぐに追い越して行くことだろうよ」玄空大師は、穏やかに語り終えた。

 おフサが、玄空大師に尋ねた。

 「それじゃ、玄空様より素空様が偉いと言うことでしょうか?」

 おフサの言葉に、玄空大師は愉快そうに笑って答えた。

 「偉いかどうかは、何を以って言うのか、ではないのかな?おかみ様が言うところの頭の良さや神聖さであることを以って言うのであれば、恐らく素空の方が偉いのだろうよ。年の数や、師弟の間柄で言うのなら、私の方が偉いと言うことなのだよ。偉いとは、何を以って言うのかであろうか、もう1度深く考えることは、人にとって大切なことであると思うよ」

 玄空大師は、おフサに優しい笑みを投げ掛け、言葉を繋いだ。

 「おかみ様、この家にあっては志賀孝衛門様が1番偉いのじゃが、孝衛門様は我等われらを下にも置かない持て成しをしてくれるのじゃ。人は、誰が偉いと言うのではなく、相手をどれほど大切に思えるかではなかろうか?権力のある者を前にしても、貧しい者を前にしても、同じ心で接することができればいいのだよ。それが本当の偉さではなかろうかな?」

 玄空大師の言葉に、おフサは頬を赤らめて申し訳なさそうな顔をした。

 玄空大師がひとこと付け加えた。「おかみ様、何も気にすることはない。人には徳と言うものがありますのじゃ。おかみ様の素直な心は、おかみ様の徳として身に付いていますのさ。少々のことでは気を悪くする者など現れまいて」

 そう言うとワッハッハ、と大声で笑った。

 志賀観音寺の落成式の翌日、素空は朝から天安寺に戻って、良円の道具を持って来た。これで、道具が2組揃った。玄空大師が毘沙門天を彫ったのが素空の道具だったから、そのまま玄空大師に自分の道具を渡した。

 次の日、仕上げられた観音菩薩は、白木の香りがしそうなほど新しく、美しくなった。志賀孝衛門夫婦が寝室の文机に祀って、経を唱え始めた時、以前と同じく金色の光を放った。2人は驚くことなく一心に経を唱えた。その夜を最後に、観音菩薩は仏壇の中央に祀られるようになり、家族や奉公人に、何時でも見せられるようになった。

 玄空大師が志賀観音寺の仁王像に手を入れ始めたのは、落成式から4日後のことだった。寺は既に松石だけになり、落成式の賑わいを目にした後では、本堂もやけに広々としていた。

 松石が、阿形と吽形の出入り口の錠を外すと、玄空大師と素空は、阿形尊の方から入り、何やら囁き合い、やがて、吽形尊の方に入りまた何やら囁き合ってでて来た。松石は、どのように仕上げて行くのか気になっていたが、何も訊かないことにした。ただ、2人が仕上げ易いように世話をすることが、自分の仕事だと理解していた。

 玄空大師と素空は、阿形尊と吽形尊に分かれて仕上げに取り掛かった。2人は仁王像の胴回りから削ぐように削り始めた。ゆるんだ腹筋が見事に張り出し、皮膚の下に筋肉が浮き上がった。次に両腕に取り掛かり、3日後、筋肉のすべてが強靭さを露わにし、近付く者をひねり潰しそうな迫力を見せていた。

 2人は、顔を仕上げるのに丸2日を掛けて、蜜迹金剛みっしゃこんごう那羅延堅固ならえんけんごの本当の姿を忠実にかたどった。

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