志賀観音寺 その3

 玄空大師は、本尊に目を移した。堂々とした観音菩薩が金箔に包まれて祀られ、その左右の2体も見事な物だった。どちらも相当名のある仏師の作だとは、遠目でも分かった。そして、天安寺から移設したと言うことは、古びた様子で推測できた。

 「玄空様、西院の飛翔堂ひしょうどうから運び込ませたのですよ」興仁大師が笑みをたたえて、少々自慢げに語り掛けた。

 「天安寺は長い歴史のうちに、実に多くの仏像を所有し、今も増え続けているのですよ。東院では、僧の育成に力を入れ、西院では、仏道の伝播でんぱに力を入れています。国中の仏師や信者からの寄進があるために、仏像ぶつぞう仏画ぶつがは言うに及ばず、あらゆる物が信仰の証として集まるのです。志賀の里には取分け良い物を運ばせました」

 玄空大師は、興仁大師の言葉で、もう1度金箔の本尊を見詰めた後、志賀孝衛門に仁王門の話を単刀直入に切りだした。

 「志賀様、まことに申し訳ないのですが、仁王像に仕上げの手を入れさせて頂きたいのです。せっかくのご寄進の品ではありますが、御仏の御心を宿しておりません。1月ひとつきほど掛けて、御心を吹き込みましょうぞ」

 玄空大師の言葉に、志賀孝衛門が恐縮して答えた。

 「玄空様、志賀観音寺のために良いと言うことに、私共が何を申せましょう。玄空様が良いと思われることでしたら、どうぞご存分になさいませ。そうではありませんか?市右衛門様、皆様…」

 志賀孝衛門は檀家の代表者達に同意を求めたが、皆に異存はなかった。

 その後、他の僧達は離れの住職の居室を控えの間としてあてがわれた。そろそろ気の早い者達が集まる時刻であり、本堂に長居はできなくなった。

 松石が、素空の傍らに近付いて来て言葉を掛けた。

 「素空様、本日はよくおいで下さいました。素空様と楠材を捜しに行ったことは、私の生涯で最大の思い出となりましょう。素空様が御仏に仕えるお心に倣って、この里の人々と接して参ります。本当にありがとうございました」

 松石は涙ぐんでいた。玄空大師はこの様子を見て、またも素空の成長を実感し喜びで心が満たされた。

 「松石様、まだまだ梅雨の半ばまでは、志賀観音寺に滞在し、お世話になると存じます。こちらこそよろしくお願いいたします」素空の言葉に、松石ばかりか、玄空大師も驚いた。

 「お住職様と毘沙門様を仕上げた後、またこうしてご一緒する機会を得たことは、実に幸いなことです。師の傍らでの最後のご教授となることでしょうから、是が非でもご一緒仕いっしょつかまつります」

 素空の決意は固く、玄空大師は、興仁大師に目を向け『最後の教授』の意を汲まない訳にはいかないと思った。興仁大師は大きく頷いた。

 志賀観音寺の落成式は盛大だった。天安寺からの最高位の2人の貫首かんじゅを迎え、老僧、高僧の格式の中に、若い素空の存在が奇異に見えた。檀家の代表者と、志賀孝衛門の家で法要に集まった者達は、素空が僧達の中で最も尊い聖者だと分かっていたが、多くの者達は素空に付いて何も知らなかった。素空は本堂を出て庭の真ん中にむしろを敷き、そこに座した。本堂には7人の僧と、檀家代表が座り、その後ろに200人を超える所帯のあるじが廊下までぎっしりと座して、はいりきれなかった者や家族たちが庭に集まった。なるほど、ここまでは本堂の経が届きそうになかった。

 素空は庭にまで詰め掛けた人々の意気に感じたのだった。本堂で興仁大師の読経が響くと、他の僧達もそれに続いた。素空も庭で経を唱え始めたが、庭にいた150人ほどの人々は、素空の声に胸奥むなおくを突き上げられるような妙な気分を感じ始めた。素空の声は耳から入るのではなく、胸や背中から体を伝わって聞こえるのだった。初めての体験をした者は、驚きの中で、この体験の正体を突き止めようとした。

 庭にいた人々は、1人また1人と筵の上で経を唱える素空の姿に目を移した。本堂の読経が続く中、素空の声がなぞるように響いた。

 やがて、経が終わり、松石から落成式の挨拶を求められた、興仁大師と瑞覚大師の祝辞が終わると、松石が説法せっぽうを行い、落成式が終わった。人々は寺をでると、口々に素空の経のことを語り合った。中には、天安寺での逸話をまことしやかに説明し、僧の中でも特別の存在だと力説した。落成式の後、志賀孝衛門はじめ檀家代表の5人が離れに呼ばれ、引き出物の懐地蔵が渡された。

 その夜、玄空大師と素空は、志賀孝衛門の家に招かれて持て成された。

 素空が、志賀孝衛門に卯之助うのすけ佐助さすけ縞蔵しまぞうの分の懐地蔵を預けた後は、玄空大師との昔話や、夫婦の部屋から観音菩薩を持って来て見せたりした。志賀家は、その夜幸福に包まれ、2人が仏間で経を唱えた時からがその頂点だった。家族や奉公人も座して2人の経の後を唱え、仏間の襖が震えだすほどの響きを伝えた。

 玄空大師と素空の声が共鳴し、仏間に集まったすべての者の心に沁みた。聴く者に経の意味がそれとなく分かるような、独特な抑揚を持っていたが、僧ばかりいる時とは違い、遥かにゆっくりとした声だった。経が終わり、家族と奉公人がすべて仏間を出て行った後、志賀孝衛門と妻のフサが改めて礼を言った。

 玄空大師が言った。「今宵は観音様をお借りいたします。お2人の部屋には1夜だけ懐地蔵をお祀り下さい」そう言うと、仏壇から観音像を取りだして懐に納めた。

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