志賀観音寺 その2

 次の日、東院とういんから瑞覚大師ずいかくだいしが、明智みょうち仙啓大師せんけいだいしを伴ない、西院せいいんから興仁大師こうじんだいしが2人の高僧と、玄空大師げんくうだいしと素空を伴ない、志賀観音寺しがかんのんじを目指した。

 素空が初めて登った小出石こいでいしの参道を下りて行った。全員徒歩だったが、今回は3頭の馬を連れていた。途中、あちこちの道祖神どうそしんつかなどに黙礼もくれいし、短い経を唱え、また歩きだした。『全員心得ているのだ。自然に身に付いて、当然のように…』明智は鞍馬谷くらまだにを最初に目指した時、素空がこのようにしていたことが、ここでは極当たり前のことだったのだと思い知った。素空のお陰で、あの頃の自分より数段高いところに上げられたように思った。

 鳳来山ほうらいさんから里に下りると志賀孝衛門しがこうえもんが出迎えた。志賀孝衛門は、一行に挨拶をすませると、素空と明智に挨拶した。素空は、玄空大師を師として改めて紹介した。

 志賀孝衛門は、これまで見たことがないほど驚き、深々とこうべを垂れて恐縮した。

 玄空大師が、志賀孝衛門に観音菩薩かんのんぼさつを大切に祀ってくれていることを感謝すると、志賀孝衛が益々恐縮して、観音菩薩が金色に輝いて父母の死を癒してもらったことなどを話した。

 志賀孝衛門が、深々と頭を下げた時、玄空大師が制しながら言葉を掛けた。

 「志賀様、先代とその奥方もたいそう信心深いお方でした。お2人は間違いなく浄土じょうどにおいでなさったことでしょう。志賀様ご夫婦に金色の輝きが現れたと言うことは、お2人もまた信心深く、清らかなお心をお持ちである証です」

 志賀孝衛門は、素空と会う日はすこぶる機嫌が良かったが、今日は天にも昇る心持ちだった。

 玄空大師には、素空にない熟達した者が持つ安らぎを感じた。『さすが、素空様が敬愛するお方だけのことはあります。何と言う深遠さであろうか。話をしながら、この身を包まれるような穏やかさが伝わって来るのが不思議です』志賀孝衛門は、心の中でブツブツ呟いていた。

 「皆様、お寺はあの階段を上がるとすぐです」突然、檀家の代表者の1人、志賀市しがいち衛門えもんが声を掛けた。見ると、5段の石段の上に門があり、守護神が安置されているようだった。堂々とした門構えと釣り合うように、大屋根の本堂と、隣接する藁葺屋根わらぶきやねは、離れと言われる松石の居室で、これも立派だった。興仁大師や瑞覚大師は、予算以上に立派にでき上がったことをいぶかりながら本堂に入って行った。

 玄空大師と素空は、門の両側に安置されている仁王像をジッと見ていた。何とも、駄作だった。

 「素空様の作とは比べようもないでしょうが、奈良の慶派けいはの仏師から購入いたしました」志賀孝衛門の言葉に、玄空が尋ねた。

 「では、志賀様が寄進されたのですか?」

 志賀孝衛門は、笑顔を向けて語り始めた。

 「玄空様、素空様、どうぞお聴き下さい。志賀の里には50年ほど前まで、天聖宗のお寺がありましたが、野盗やとうに巣食われ、荒れ果ててとうとう火事でなくなりました。30余年前に建替えましたが、新手の野盗に巣食われ、またも焼失しました。ちょうど玄空様が逗留された年の秋のことなのです」志賀孝衛門はフッと一息吐いてまた話した。

 「30年前から、今日こんにちまで天安寺からお坊様に来て頂き、檀家代表の家を持ち回りで、寺の如くに使いながら、信仰を守って来たのです。この度、世の中が平穏になり、野盗の心配もなくなったため、天安寺のお大師様の肝いりで新堂の建立が果たされたのです。もともと、里人のための寺ですから、費用の殆んどは里人の寄進として用立てさせて頂きました。お大師様方は、思いのほか良い寺ができ上がっていることに驚いていることでしょう」

 志賀孝衛門は、茶目っ気のある笑い方を玄空大師に見せた。玄空大師は、この里の人々が信心深いことに感じ入った。

 玄空大師はジッと目を閉じ、2体の仁王像に手を合わせ、短い経を唱え始めた。素空は、師が2体の仁王像に心を吹き込む仕上げの手を入れる決意を見て取った。素空が見たところ、2体の手直しには、半月ほど掛かりそうだったので、梅雨の時期を志賀の里で過ごすことになりそうだと思った。

 「お住職様、裏手を見に参りましょうか?」素空様の言葉に促され、玄空大師が歩きだした。

 裏手は山になっているため、石仏が2体、庭の隅に祀られているだけだった。山の斜面に長い階段があり、途中に赤い鳥居が幾つか立てられていた。階段の下には、狐の石像を置き、階段の先のやしろは、稲荷神社の社殿があるものと察した。

 「素空よ、稲荷社とはいささか心配であるが、裏手の山に社があるとなれば、裏門の守護神は無用のようだな」

 玄空大師の言葉に、素空が答えた。「お住職様がおっしゃる通り、このように裏手の山を社で守られては、仏敵の入り込む隙はありますまい。しかしながら、稲荷社には私もいささかの心配をいたしております」素空の答えを聴いて、玄空大師は弟子の成長を実感した。素空は、我知らず僧としての素直な感想を口にしたのだが、玄空大師にとっては、我が手を離れる前触れのように頼もしく思えた。

 素空、玄空大師、志賀孝衛門の3人は、皆から暫らく遅れて本堂に入った。

 本堂では、1番真ん中に松石が座り、それを囲むように天安寺から遣って来た僧達が座したが、松石は居住まいが悪そうに落ち着かない様子だった。

 「松石や、落成式を前にして、やけに緊張しているではないか?」

 興仁大師に冷やかされたが、松石の緊張は一向いっこうほぐれなかった。

 「松石殿、そなたは天安寺にあってはいざ知らず、ここは志賀観音寺なるぞ!そなたはこの寺の住職で、この寺にあっては檀家の拠りどころであるのじゃよ。堂々としなされ、今日はそなたと、この寺のめでたい日じゃ、楽な気持ちで過ごされよ」瑞覚大師は優しく言うと、明智に目配せしてまた語り掛けた。

 「松石よ、これは天安寺新堂での落成式の引き出物として用意した物じゃが、そなたの有様を見て早く懐に納めた方が良いと思うたので、仕舞っておきなされ。御仏が心を静めて下さることじゃろうよ」そう言うと、瑞覚大師は笑顔で黙した。

 松石が、明智から手渡された懐地蔵を胸に仕舞うと、ドンと体の芯に鈍い響きがあった。胸がほのかに温かくなり、仏の降臨を感じたのだった。松石は次第に心が落ち着き、普段の自分に戻ることができた。

 志賀市衛門が瑞覚大師に語り掛けた。「お大師様、松石様は里の誰もが敬愛しておりまして、お人柄の良さは皆が認め、お慕いしております。これは松石様の大いなる徳でありましょう」志賀市衛門の言葉に、瑞覚大師は笑顔で大きく頷いた。

 興仁大師は、松石と里人が最も良い関係にあることを認め、松石を住職にして良かったと心から満足した。

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