第7章 志賀観音寺 その1

 西院の興仁大師の部屋で、志賀観音寺しがかんのんじの落成式までのくわだてが語られた。

「聞けば、玄空様と志賀孝衛門殿とは、因縁浅からぬ仲だとか?」

 玄空が怪訝な顔をして答えた。「はい、志賀孝衛門様は、確か90才をとうに超えていなさる筈ですが、ご壮健なのでしょうか?」

 「いやいや、先代は身罷みまかられ、当代はよわい60才くらいのお方であるよ」瑞覚大師が脇から説明した。

 興仁大師が語った「実は、この志賀様と、素空始め今回の新堂の守護神に携わった者にとっては、因縁浅からぬ仲なのですよ。また、志賀様は、先代が玄空様に頂いた観音菩薩かんのんぼさつを大切になさり、玄空様をよく覚えておいでなのです」興仁大師はここまで言うと、本題に入った。

 「玄空様にはこれから、新堂の座主をお願いし天安寺に留まって頂くことを承諾願いたいのです」玄空は、かねての予想通りであり、謹んで承った。

 「しからば、今回の志賀詣での前に、本山大師の認可をいたしたいと思います。明後日、釈迦堂で認可、命名の儀を執り行うことにして、早速ではありますが、翌日には志賀に出向き、落成式にご出席願います。申し遅れましたが、志賀孝衛門様は檀家総代となりますので、素空とご一緒いっしょに1夜お泊り頂くことになります。これは、志賀様のお申し入れなのです」興仁大師は、話し終わるとニッコリ笑った。

 玄空は、何とも粋な計らいに、素直に喜んだが、命名の儀は鄭重に断った。

 瑞覚大師は、その訳を知りたかった。「玄空、大師になり新たな修行をいたすのであれば、新たな法名を名乗るが良かろうに…」

 「お大師様方に申し上げます。我が法名は、素空と同じく御仏に頂いたもので、これ以上の法名を頂くつもりはございません。法名の儀は何卒…」

 興仁大師も瑞覚大師も言葉をなくして呆然とした。やがて、瑞覚大師がポツリと語った。「30余年前に、玄空が入山してほどなく認可、命名されたのは、御仏の御計らいであったとは…師弟共に御仏に愛されていた証となるものであろうよ」

 瑞覚大師はその後、言葉を失った。興仁大師も初めて聞いたことに驚き、玄空と素空の顔を交互に見比べ、2人の瞳の奥が同じ輝きを放っていることに気付いたのだ。

 素空は、言葉を失って黙り込んだ2人の貫首を尻目に、玄空と共に時を過ごせることが、大きな喜びだった。

 「素空や、志賀には道具を持参せねばなるまい」玄空は、素空の道具を使う機会が必ず来ると確信していた。

 鳳来山天安寺と言えども、多くの仏像の中で、仏の姿をありのままに映し、心の込められた物ばかりではなかった。玄空は、松石のために、寺の仏像に手を入れてあげようと思ったからだった。

 2日後、西院の僧が参列する中、玄空の認可の儀が執り行われた。西院では、素空の師と言うことが触れ回られていたので、一同いちどうの視線を一心いっしんに集めていた。また、玄空の名は、既に想雲大師にまつわる伝説となっていて、誰もが興味を持っていた。それに、彫り上げた仏像は、魂を持ち動きだすと噂されていた。物静かな西院の僧達が、このようにざわめくことは殆んどないことだった。老僧、高僧は、僧達の異例の騒ぎに驚いた。

 玄空は法名を変えず大師の認可を受け、ここに玄空大師が誕生した。

興仁大師の部屋で西院の高僧達と、東院の瑞覚大師と2名の高僧が、暫らく歓談したが、西院の高僧達は、玄空大師の力量を測ろうと、興味津々の様子だった。

 高僧の中には意地悪な質問や、見下したような物言いをする者もいたが、玄空大師はにこやかに受け答えして、どこ吹く風と言う風情だった。素空は、明智一派の苦渋の日々を思い出し、胸が痛くなった。奥書院の詰め所には、献上を待つばかりの懐地蔵が180体を超えて控えていた。素空は今、その数を増やそうと決めた。

 その後、玄空大師は、列席した瑞覚大師と、供の2名の高僧と共に東院に赴いた。1人は、鳳凰堂ほうおうどう仙啓座主せんけいざす(大師)で黄色の法衣ほうえをまとって右手に座した。もう1人は、司書ししょ崇慈大師すうじだいしだった。2人共、玄空の認可のことを聞き付け、瑞覚大師に列席を申し入れて叶ったのだった。

 西院の釈迦堂から帰ると、4人は忍仁堂に入り、本尊の前で経を唱えた。

 忍仁堂での経が終わった後、4人は、瑞覚大師の部屋で歓談した。30年の時を隔てて、心をを通わせることができたのだった。

 仙啓大師と崇慈大師が帰った後、玄空大師は、素空の薬師如来像をもう1度見せてもらった。寝室の文机から運ばれた姿には、なおも、金色に輝く光背が現れていた。

 「瑞覚様、これは何とも言葉を思い付きません」

 玄空大師は、眉根を曇らせた。今日は、すべてを話すことができると思った。

 「良いのじゃよ。このことがあってわしは決めねばならぬことを決めることができるようになったのじゃよ。己の寿命を知ることが喜びであると知ったのは、如来様のお導きのお陰なのじゃよ。素空が如来様を彫り上げたお陰、つまりは、お前さんが如来様を献じるよう諭したお陰なのじゃ…重畳、重畳」瑞覚大師は笑みをたたえて、玄空大師を眺めた。

 玄空大師は、伊勢滝野いせたきのの薬師寺で素空の出立前に見た姿は、このように真の姿ではなかった筈なのだと、またもや考え始めた。

 『いつ御心が吹き込まれたのだろうか?旅の途中宿で手直しをしたのだろうか?さもなくば、旅の途中で素空が徳を積み、そのことを御仏が喜ばれたのだろうか?』

 玄空大師は考えを巡らし、弟子の隠された一面いちめんを見た思いだった。これは、己の経験を超えることで、それ以上は推測でしかなく、結論の出ないことだった。

 瑞覚大師は、素空の法力に付いて、玄空大師に尋ねた。

 「玄空よ、素空が天安寺に来て1年余りで、法力を持つ者と言う評判が高まったのじゃが、滝野ではどのような日々を過ごしていたのであろうか?」

 玄空大師は、答えにくい質問にどう答えたものか暫し思案した。

 「瑞覚様、7才の素空を預かってより10年、実に様々なことを教え、そのことごとくを身に付けました。滝野では、私の持てるすべてを伝授いたし、御本山に上がるよう命じました。つまり、御本山に上がった時は、既に我が持てる物をすべて持っていたと言うことなのです。但し、滝野では法力と言える力は見出してはおりません」

 瑞覚大師は暫らく考えた。「玄空よ、仏師が真の御姿を彫り上げ、御仏の御心を彫り込むと言うことは、どのようにして成就するのであろうか?わしには皆目見当の付かぬことじゃから、教えてくれまいか?」この質問も難解だった。

 「仏師は、木や石に刃物を入れる時から擱く時まで、己の魂を込めて、御仏の御心を彫り込むのです。御仏の真の御姿は、並の仏師には知る由もないことで、中には見当違いの偽物を、真の御姿と信じて疑わぬ者もおります。真の御仏を知る者は、御仏の真の御姿を彫り、魂を込め、御仏の御心を彫り込むのです。真の御仏を知る者とは、悟りを得た者から、御仏に近付かんとする者まで、幾分の幅を持ち、仏師が御仏に近付く時に成就するのです」

 瑞覚大師は感じ入ったが、玄空大師は更に言葉を続けた。

 「彫り物に御仏が降臨すると言うことは、御仏の必然で、何かの意図がおありなのです。必要とあれば、何もない宙に現れることもできるのです。すべては、御仏の思召しのままで、真の御姿にはさらに降臨し易いと言うことでしょう」

 ここに至って瑞覚大師は納得した。

 2人は、暫らく黙したが、玄空大師が眉を曇らせて話した。

 「瑞覚様、素空が献上した日の夜に、瑞覚様のことで御仏は何とおっしゃっていたのでしょうか?」

 瑞覚大師はその夜の一切いっさいのことを笑顔を浮かべて語った。

 玄空大師は、この時思った。そして、疑問を口にした。「御身おんみのご臨終に際し御仏の降臨があることをご承知で、栄信に御仏の降臨を見届けて欲しいとのお考えでしょうか?」瑞覚大師は笑顔で頷いた。

 「瑞覚様、栄信が伊勢滝野の薬師寺を預かるのは、長くて半年ほどと存じます。栄信が灯明番から離れ、心穏やかな日々を過ごすことで、自ずと御仏を見るに至るでしょう。私は栄信と共に、10日を無為に過ごしておりません。栄信の人となり、僧としての資質、力量は言うに及ばず、あらゆることを具に見取っています。何より、御本尊に願掛けをして出立しておりますので、栄信の心に邪念じゃねんが消えた時、御本尊が御印みしるしを現される筈です」

 玄空大師は、最後のひとことを口にした。

 「栄信は、天安寺に在りては、素空と並び立つ唯一の僧でありますぞ!ご信じなされませ!」

 玄空大師は笑顔を向け、瑞覚大師は、友の励ましに涙が止まらなかった。

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