第6章 玄空の力 その1
素空は、新堂の裏門の守護神をぼんやりと見ていた。月半ばになっても玄空が姿を見せないのが気に掛かっていた。栄信に異変があったのか、玄空が病に罹ったのではないかと心配になって来たのだった。
素空の思考は、玄空が絡むと何故か幼さが見え隠れして、仁王像を彫っていた頃とは随分違っていた。ひょっとすると玄空が
素空は裏門からの帰りに、境内で
「素空様、いつ見てもまことに見事な
宇土屋は、素空の方を見てニヤッと笑った。素空が答えて言った。
「この守護神は、私の瞑想の中でまことの御仏として現れました。本物過ぎるのではなく、本当の仁王尊なのです。宇土屋様には危難が及ぶ時、この守護神をお頼りなさいませ。また、御仏の怒りを蒙ることのない者は怖がることはありません。守護神は、罪を憎み、
宇土屋喜兵衛は、素空につまらぬことを言ってしまったと悔やんだ。宇土屋は、素空の力量を軽く見ている訳ではないが、素空と話をする時は、いつもこのような形になるのだった。『お若いのに、私など到底及ばぬお方だ』素空の背中を見送りながら、宇土屋喜兵衛は呟いた。
素空は、表門まで来ると経を唱えて、
すべてがあの時から始まり、漸くここまで来たような感慨が胸を満たしていた。
「なかなか良く仕上がっておるのう…いつの間にか、真の仏師になったようじゃ」
素空は、背後から声を掛けられ、ハッとして振り返った。素空の両目に涙が溢れ、その顔はすぐに見えなくなった。
「お住職様、お久しゅうございます」
素空はやっと、それだけ言うと涙に暮れて呆然とした。
「素空よ、暫らく見ぬ間に仏師としての真の力を得たと見える。本山に上がってからのことは、栄信からすべて聴いて、わしは鼻が高かったよ。積もる話は後にして、先ずはこの守護神をじっくりと見せてもらおうかの」
そう言うと阿形尊と
「素空よ、そなたは
「私の瞑想は、千手観音様の先になかなか至りませんでしたが、瑞覚大師の助言を得てその先を見るに至りました」
玄空は、フッと
「素空よ、そなたは悟りを得たのじゃよ。御仏のすべてを垣間見ることは、御仏の世界に入ったと言うことに他ならぬことじゃよ。恐らく、仏師の中の仏師、僧の中の僧と言えども、悟りを得ることは至難の業なのじゃよ」
玄空は、そう言うと以前と変わらない微笑みを見せた。
その後、玄空は裏門に行き、嘗て手掛けながら中断した毘沙門天と対面した。
「素空よ、わしの昔の話は聞いているかな?若気の至りだったのじゃ。今になると血気盛んにああ言い放ったことを、恥ずかしく思うよ。他に遣り様があったものをとな」玄空は、穏やかな口調でそう言い、合掌して経を唱え始めた。
素空が後に続くと2人の声が響きあい、新堂の中から宇土屋喜兵衛と職人達が出て来た。「素空様の前のお方は、玄空様に違いねぇ。あのお方が、素空様のお師匠様…」
宇土屋は呟くように言うと、その場に座して2人の経をなぞった。
厨子の扉が閉められ、新堂まで来ると宇土屋が待っていた。素空は、誇らしげに笑顔で玄空を紹介し、宇土屋は
玄空は、終始にこやかに言葉を交わし、その様子を素空が笑顔で見守った。
やがて、玄空と素空は忍仁堂に向かった。
宇土屋喜兵衛は2人の
「棟梁、あのお方が素空様のお師匠様で、天安寺の語り草になったお方ですか?おいらにゃ、失礼ながら、どう見ても、ただの田舎坊主にしか見えませんや」
宇土屋は、愕然とした。「お前はまだまだ人を見る目がないねぇ。姿形で人を見ちゃいけないよ。玄空様がただの田舎坊主なら、素空様の様子があれほど変わることはなかろうよ。素空様が心から尊敬している証なんだよ。つまり、相当すごいお方って言うことなのさ。それにお前、玄空様の眼の輝きを見なかったようだね。あの目は素空様と同じように深く輝いていなさったんだよ」
宇土屋喜兵衛は感慨深く目を閉じた。
玄空は、およそ30年振りに天安寺の忍仁堂に上がった。本尊の前で瑞覚大師と共に座して経を唱えるとは、夢にも思わなかった。傍らに自分のもとを離れて、一層大きく成長した弟子が控えているのだ。これ以上の喜びはないことだとも思った。
「玄空や、この度はわしの願いを聞き入れてくれて、本当にありがとう。こうして30年の時を隔てて、
瑞覚大師は、感極まってその先を口にできなかった。
玄空も、目に涙を浮かべて兄弟子との再会に心打たれた。玄空にとって最も大切な友が最後の願いとして、新堂の守護神の仕上げを頼んで来たのだった。断る理由はどこにもなかった。そして、その後、天安寺に留まることを願われることも、当然のように理解していた。玄空は再会の喜びと、その後の別れを思い、この時を大切にした。
玄空は鳳来山に向かう前に、栄信と実に多くのことを語り合った。そのお陰で30年振りとは言え、天安寺の様子はすべて把握していた。
そして、栄信が瑞覚大師にとって最も愛する弟子だと言うことも承知していた。
玄空は、今、栄信の寂しい心をフッと思い返した。瑞覚大師が栄信を思い、灯明番から外したことをありがたいと感謝しながら、瑞覚大師の最期の時まで側に付き添いたいと願っている。何とも切ない限りだった。
「素空、そなたが天安寺に上がって、栄信と懇意にしてもらったことは、大きな喜びであったな…」突然、玄空の口を吐いてでた言葉に、師の思いのすべてを理解して、
『はい!』と頷いた。
瑞覚大師は、本堂から庭の方を眺めて、師弟の息がピタリと合っているのを心地よく聴いていた。皆、すべてを承知しているのだった。
瑞覚大師は微笑みを浮かべてひとこと言った。
「重畳、重畳」
それから間もなく、素空は西院に帰り、玄空は、瑞覚大師と墓所に参ることになった。30年振りの天安寺で仏師を務めるのなら、想雲大師の墓前に参らなければいけないと思った。若い日に嫌って山を下りたのだが、今は仏となって墓石の下で眠っている。玄空は『御霊安かれ』と墓前に額ずき、経を3本唱えた。
すると、一陣の風が吹き、2人の周りをぐるりと
「瑞覚様、もしや往生されていないのでは…」瑞覚大師も、胸騒ぎを抱えたまま頷いた。
その後、玄空は瑞覚大師の部屋に案内され、素空の薬師如来像を拝顔した。
「如来様に光背が現れていますが、
玄空の言葉に、瑞覚大師がニッコリ笑って答えた。
「素空が献じたその日のうちに、真の御仏の証を見たのじゃよ。御言葉も賜った。光背は暫らく後に現れたが、以来、変わることなく現れているのじゃよ」
玄空は、暫らく言葉がでなかったが、やっと、呟くように語りだした。
「寺で見た時は、木彫りの良くできた如来様でしかなかったが、旅の途中で何やら御仏の御降臨を得るようなことがあったのだろうか?」
玄空の呟きは、瑞覚大師にも聞こえた。そして、玄空に語り掛けた。
「素空は、御仏に愛されておるのじゃよ。素空は、早くにそなたの
玄空は、この時素空が己より遥かな高みに上がるだろうことを改めて思った。
「玄空よ、そなたは幸せ者じゃよ。わしも然り。良き弟子に恵まれたものじゃよ。わしは素空にもらった如来様のお陰で分かったのじゃよお。例え2年の後、御仏に召されても、弟子の心に残る限り、わしは生き続けると言うことをな!…つまり、わしらは死して尚生きていられると言う訳じゃ…」
瑞覚大師は久々に大声で笑った。玄空は、瑞覚大師の部屋で夜が更けるまで語り合ったが、久し振りの歓談を、
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