守護神開眼 その3

 奥書院の片隅に文机が寄せられ、その上に桐箱に納められた180余体の懐地蔵が献上の日を待つだけとなった。数日後、素空と明智が文机の前に座していた。

 「明智様、お願いと申しますのは他でもありません。この懐地蔵2体を、西院の善西様と、悠才様にお渡し願いたいのです。鳳凰堂の方々は、もう大丈夫でしょう。残るお2人にも守護神建立の前に、まことの仏道に立ち返って頂かなくてはならないのです。西院では、葛藤の日々をお過ごしと聞いています。1度お会いになって、お2人をお導き下さい。このことは、明智様でなければ為せぬことなのです」

 明智は、ジッと聴いていたが、素空の話が終わると、黙して去って行った。明智が西院に赴いてから7日後、善西と悠才は晴れやかな日々を、迎えることができるようになった。

 素空の周りに憂いの種となる物がなくなり、最後の仕上げに掛かっていた。ほぼ、完成状態とは言え、日ごとに皮を剝ぐように少しだけ剝ぎ取られ、次第に精悍さを増していた。4日も経つと、仁王像の趣が違って来るのだった。

 仁啓と法垂は、絵図とは次第に趣が違って来ていることに不安すら感じていた。素空は、仁啓と法垂に瓶で熟成した柿渋の用意を頼んだ。2人は仕上げが間近に迫っていることを感じていた。

 卯月うずき(4月)の最後の日に、素空の彫りは終わった。仁啓と法垂は、柿渋を全体に浸すように塗って行き、すべてを塗り終わった後、3日を置き、更に上塗りをして、3日間乾燥させた。柿渋は、木肌に染み込み、無垢むくの木肌を黒ずんで、どんよりとした光沢のない物にした。2人は塗り終わって2体の守護神を台無しにしたような心持ちになった。しかし、素空は2人を見て微笑むばかりだった。

 仁王門の辺りは柿渋の臭いで満たされていたが、乾くにつれて臭いが収まった。

 皐月さつき(5月)の初旬になっていた。素空と仁啓、法垂の3人は鮫革さめがわで、厚塗りされた木肌の柿渋をぎ取り、その後を米糠こめぬかで磨き上げた。

 仁王像は、筋肉が浮きでて、輝いて来た。台無しになったように思えたのに、今ではこの上なく素晴らしく思えるのが不思議だった。2人は阿形と吽形の2手に分かれて磨き上げた。隅々までつるつるになって行くのが楽しかった。

 9日の申の刻さるのこく(午後4時)に仕上げが終わった。

 この日の夜から、素空は阿形尊の格子の中で禅を組んだ。その声は、新堂まで届かず、仁王門の中だけで響き、10日の朝の勤めまで続いた。次に、10日の夜から11日の朝の勤めまでは、吽形尊の格子の中で禅を組んだ。

 11日の夜は、明智も呼んで、仁啓、法垂の4人に加えて、この日だけ、良円の薬師如来を祀って祈り続けた。

 「今宵は、彫り方が全員丹精込めて彫り上げた守護神に、御仏の御心を吹き込むのです。12日の明け方には完成する筈です。阿形と吽形どちらにも行き来して頂いて結構かと思いますが、必ずお1人はお残り下さい」

 4人は素空の後に付いて経を唱え始めた。酉の下刻とりのげこく(午後7時)から始まった経は、深夜になっても衰えることはなかった。

 払暁ふつぎょう、天安寺のすべての伽藍がらんを揺らす地震が起きた。揺れはすぐに収まり、僧達の中には、地震が起きたことすら気付かない者も多かった。

 忍仁堂では、瑞覚大師が目覚めていた。お付きの僧、栄垂えいすいが遣って来て様子を伺うと、笑顔を見せて言った。

 「栄垂よ、守護神ができ上がったようじゃな。守護神に御仏が御降おくだり下さったのじゃよ。ここに至って、素空の仕事は見事成し遂げられたようじゃ」瑞覚大師は起き上がり、朝の勤めの準備を始めた。

 新堂では、4人の僧が揺れの中で、一糸乱いっしみだれぬ経を唱え続けていた。素空は、フッと言葉を切った。3人は、目を開けて素空を見た。

 「皆様、皐月さつきの12日の払暁、阿形尊と吽形尊が御降り下さいました。私達の願いは、お聞き入れ下さいました」

 法垂は、良円の薬師如来像を抱きかかえていたが、胸元が金色に輝いたかと思うと、格子の中が輝きを受けてハッキリと見えた。

 次の瞬間、吽形尊が首をかしげるように法垂の胸元を覗き見た。法垂は一瞬取って食われるような恐怖を感じた。金色の輝きの中で、吽形尊の形相は異様に生々しく、くすのきで彫られた木像とは思えなかった。法垂は次第に落ち着き、身の危険がないと感じて、素空の言葉が確かな現実として実感したのだった。

 明智と仁啓もそれぞれに確かな実感を持った。阿形尊の格子の中では、阿形尊が2人を見据えた後、明智の金剛杵こんごうしょを2人の肩口に当てたのだった。2人は、ジッと目を閉じ、阿形尊に身を任せようとした。すると、それ以上の変化は現れなかった。

 その後、格子の外に出て、今度は、外から中を見ると、金剛杵の位置が違っているように思って、素空に伝えると、さほどの驚きもなく答えた。

 「御仏が動かしたのであれば、そのままにして置くことです」

 あっさりとした答えに、仁啓は肩透かしを喰らったような気がした。

 素空が更に語った。

 「格子の中で、仁王尊の真の御姿をご覧になったお方は、今後も真の御姿をご覧になれるお方になられたと言うことです。心を今以上に高め、何時までもこの仁王尊の御姿がご覧頂けるよう精進なさいませ」3人の僧は、僅かに息遣いをを見せる2体の姿をいつまでも見ることができるよう、新たな修行を心に誓った。

 素空達は、仁王門から離れ、忍仁堂の朝の勤めに向った。忍仁堂では瑞覚大師が既に経を唱えていた。4人が入って来ると、笑顔で4人を労った。

 「素空、明智、仁啓、法垂…そして良円、ご苦労でした。完成の感謝のお祈りに、わしもご一緒させてもらうよ」瑞覚大師は優しく4人を見た。

 忍仁堂に、僧達が1人、また1人と集まって、朝の勤めの始まりがいつもと異なるものとなった。全員が揃ったところで、瑞覚大師から、新堂の守護神建立が成し遂げられたと発表されると、全員口々に歓声を上げて喜び合った。

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