第5章 守護神開眼 その1

 桜の花が散って、春の芽吹きが明るい日の光に映えていた。

 仁王像はほぼでき上がったように威容を誇っていた。明智と栄信が仁王門の前で、でき栄えをジッと見ていた。「明智様、随分でき上がって、実に見事ですね…」

 栄信の言葉に、明智は浮かぬ顔で返した。

 「おや、明智様いかがなされましたか?」

 「私は、懐地蔵の仕上げを通して、仏師が御仏像ごぶつぞうに魂を吹き込む、あるいは、御心みこころを込めると言うことの大切さと難しさを知りました。新堂の守護神となれば、なお更に難しいことでしょう。素空様の守護神は新堂の守護に留まらず、天安寺並びに都の守護をも司るよう魂を吹き込むらしいのです。如何に困難なことか、私には想像すらできません」

 栄信は言葉がでなかった。伊勢滝野の薬師寺に赴く日が、次第に近付いていた。

 「私にはもう、素空様の力になれないことが残念です」

 栄信の言葉に、明智は答えを求められていることを感じた。

 栄信には時間がなかった。瑞覚大師には了承を得ているが、当の本人の承諾を得ていないのだった。

 「明智様、灯明番の取りまとめをお願いいたします」栄信の言葉はこれが2度目だった。明智も、栄信が天安寺を去る日が迫っていることを承知していた。

 「栄信様、私は仏師方を務めて大きく変わったような気がします。素空様の下にあったからだと思いますが、私の嘗ての過ちを、もう1度見詰め直し、償うつもりなのです」この言葉も2度目だった。

 栄信は、この時を置いて説得の機会はないと思った。

 「明智様、あなたは、あなた自身がお考えのように、罪を背負ってはいないのです。素空様の師である玄空様は、その昔、当時の貫首かんじゅであった、想雲大師そううんだいしを嫌って天安寺を下られたそうです。その時、怒りの言葉を残して下られたと聞き及んでいます。天聖宗てんしょうしゅうの本山に居ながら真の仏道に触れることのない、老僧、高僧は数多いことでしょう。この度は、素空様のお考えで、懐地蔵ふところじぞう御力おちから御借おかりして、そのような老僧、高僧に真の仏道を知らしめることができましょう。明智様が嘗て嫌った方々は、明智様が魂を込め、御心を吹き込んだ懐地蔵によって、回心が成し遂げられるのです。そもそも、懐地蔵に魂を込め、御心を吹き込めるお方は、既に御仏に赦され、更なる高みに身を置いていることに違いありません。過去を振り向かず、御仏の意に適う僧になることが、真の仏道を歩む僧たる者の務めと心得るべきでしょう。あなたが嘗て従えた僧達を含め、正しき仏道を歩むようお導き下さい。これ以上、己の過去にこだわることは、御仏の御慈悲に報わぬこととなりましょう」栄信は、最後の言葉を強く言った。

 明智は迷った。迷いの中で1つの結論を得た。迷いの中では、良き人の勧めに従うのが良いと言うことに行き着いたのだった。

 「栄信様、私でよろしかったら、御仏の道具としてお使い下さい。素空様と同様、栄信様は、私を良きにお導き下さるお方であることに、早く思い至るべきでした」

 明智は、この日から灯明番の詰め所に通い始めた。

 3日後、栄信は、素空と共に瑞覚大師の部屋を訪ねた。

 「素空や、西院の暮らしはどうじゃな?」素空は興仁大師の門下に入り、西院の僧衣をまとっていた。瑞覚大師は素空を、既に悟りを得た者として処遇した。

 「西院では、興仁大師の下で修行しておりますが、守護神建立までは自由に行動させて頂いています」

 「ほう、それは良かった。ところで、栄信の後が決まったのじゃよ」瑞覚大師は、栄信を見ながら、素空に伝えた。

 素空は、少しばかり驚いて栄信を見た。

 「栄信様、明智様の貝のようなお心を開いた訳をお教え下さい」

 「明智様は随分迷われました。そして、ご自分を御仏の道具としてお使い下さい、とおっしゃり承諾なさいました」

 瑞覚大師は、ジッと聴いていたが、おもむろに口を開いた。

 「迷いの中で最も賢明な選択をしたのだな…2人共良くお聞き。人が迷った時には、信頼する者の言葉に従うことじゃよ。栄信は、明智に認められたと言うことじゃ。さらに言えば、2人は強い絆で結ばれたのじゃ」

 瑞覚大師は2人を優しく見詰め、やがて素空に告げた。

 「素空よ、明後日には、栄信を伊勢滝野の薬師寺に遣わす。そして、そなたの師玄空を西院の新堂に迎えることにした。恐らく、玄空はわしの思いのすべてを理解してくれている筈じゃよ。先ずは、裏門の毘沙門様びしゃもんさまを仕上げてもらわねばならんのう」

 瑞覚大師は、素空を気遣わし気に見ていた。

 素空は、玄空が本山に上がるのを心待ちにする一方、2年後には別れることになることを理解した。素空の心は、3年の修行の後、玄空の下で仏道を極めたいと夢見ていたのだ。瑞覚大師の言葉は、2年後に師との別れが来ることに他ならなかった。

 素空は動揺していた。その後、どのような話をしたのか殆んど記憶がなかった。栄信は、このように取り乱した素空を見るのは初めてだった。これまでにも、話しの中に玄空が絡むと、妙に子供っぽいところを見せたことがあったが、今の素空は、親からはぐれ、必死に探し求める子供にも似ていた。素空にとって、玄空の存在がどれほど大きなものかは、考えるべくもなく明白だった。

 「素空様、お察しいたします。私は、お大師様の下で10年の歳月を経て、2年後のお別れを冷静に捉えることができるでしょうか?素空様の10年は、生活のすべてだったでしょうから、言葉もありません。私と交代で来られて2年の間を大切にお過ごし頂きたいものです。玄空様には、もう暫らくで、お会いできるではありませんか」

 素空はそんな慰めの言葉に、栄信のどうしようもない寂しさを感じて、やっと自分を取り戻した。

 「栄信様、私が天安寺に上がって1年の間、常にお導き頂きありがとうございました。私は今後、人との別れを悲しむことはないと思います。私の心にうつる姿が私の心に留まる限り、私の所縁人ゆかりびととの別れはないのです。栄信様、本当にありがとうございました」

 素空と栄信は、更に強い絆で結ばれた。

 翌日、明智が灯明番のおさとして朝の勤めの前に紹介された。老僧の中に動揺が広がり、その日瑞覚大師は大忙しだった。

 「明智のような異端の者を、事もあろうに灯明番の長にするなど何たることか!」

 朝の勤めの後、天安寺の老僧、高僧が口々に抗議をしに遣って来た。東院ばかりでなく、西院からも3人の高僧が聞き付けて遣って来たのだった。

 しかし、このような問題が起こると瑞覚大師の天分が発揮され、名立なだたる老僧、高僧達も、煙に巻かれて帰るしかなかった。

 この日から、明智は灯明番の長として、天安寺で最も重要な職務を任されることになった。同時に180体の懐地蔵も奥書院の詰め所で仕上げられていた。

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