千手観音の眷属 その4

 岩倉屋惣左衛門は懐から観音菩薩を取りだして言った。

 「淡戒様、この素空様の観音様を菩提寺にお連れして、先の如来様とお比べしたいのですが、ご一緒して下さいませんか?」淡戒はここまで来たからには、すべてを見届けようと思い承諾した。

 菩提寺に着いたのは半時後(1時間後)のことだった。山門に天聖宗陽善寺てんしょうしゅうようぜんじとあり、本堂に興高院こうこういんと書かれた額が、金箔に縁取られて光っていた。住職は海童かいどうと言い50才は過ぎていたが、40才半ばのように若々しかった。住職の海童が、2人を見て笑顔で迎えた。

 「これはこれは、岩倉屋様、今日は如何なされましたか?また、こちらのお坊様は御本山から来られたお方かな?」

 「昨年、和尚様にお借りした如来様をお見せ願いたいと思って参りました。また、こちらは天安寺からおいでの淡戒様です。実は、手前がお支払いした代金のお礼にと下されたのが、この観音様です」岩倉屋は懐から、観音菩薩をだして見せた。

 住職は驚いて、手に取り角度を変えて何度も見直した。岩倉屋に戻すと、薬師如来像を持って来て比べた。淡戒には、海童和尚が驚いた訳がすぐに分かった。

 同じ人物の物としか見えないほど酷似していた。菩薩と如来の違いは歴然としていたが、表情や、彫り方に同一人物と思わせる特徴があった。

 淡戒は、薬師如来像の彫り手が誰か訊いてみた。

 住職は、1年ほど前に、岩倉屋惣左衛門に話したことと同じことを語った。

 「素空様は、鳳来山ほうらいさんに上がった翌日に、希念改きねんあらため素空となりました。素空様が、玄空様のお弟子であることは聞いていましたが、御仏の彫り方も、これほどそっくりだとは驚きました」淡戒はすべてを納得した。

 住職と岩倉屋は驚いて顔を見合わせた。ここに至って2人もすべてを理解した。

 淡戒が、住職から玄空の話を聴き、住職に素空のことを話した。

 3人はそれから2時ふたときも語らい、淡戒の帰り時刻が迫って来た。

 「淡戒様、そろそろお帰りの刻限ではありませんか?今宵はお泊り頂いても結構ですが、如何でしょう?」

 「夜になりましても帰らねばなりません。それでは、海童様ついつい長居をいたしましたが、またお会いする日を楽しみにいたしております」

 淡戒と岩倉屋が陽善寺を後にして、京屋分家岩倉屋に戻って来た。申の刻さるのこく(午後4時)をすぎていた。店に入るとおコウが出迎えたが、淡戒には嘗て病に取り付かれていたとは到底見えなかった。

 「淡戒様、これは娘のコウです。昨年秋に婿取りをして、今年は子が生まれます。頂いた観音様にお守り頂けることと存じます。まことにありがとうございました」

 岩倉屋惣左衛門は礼を言うと、立ち去ろうとする淡戒を引き止め、火種ひだね提灯ちょうちんを渡した。「途中の山道やまみちは真っ暗な筈、お役に立つと思います。どうぞお使い下さい」

 見事な細工が施された高価な火種と、屋号やごうの入っていない提灯を手にして淡戒が帰途に就いた。淡戒は急いだ、道祖神や塚に黙礼し、短い経を唱えて進んだ。急いで歩いても疲れず、心が晴れやかだった。やがて、天安寺の新堂が近くなって来たところで、胸の奥底に響き渡るような声を感じた。『素空様だ』淡戒にはすぐに分かった。

 新堂の仁王門から響く声に、暫らく佇んで聴き入った。阿形尊の方から聞こえて来たが、素空は居なかった。時刻は酉の下刻とりのげこく(午後7時)であたりは暗かったが、月明かりに加えて、宇土屋が抱える職人達の宿舎から明かりが漏れて、人の気配があれば分かる筈だった。

 不思議なのは、阿形尊の方に近付くと、吽形尊の方から聞こえ、吽形尊の方に近付くと、阿形尊の方から聞こえて来ることだ。淡戒が引き込まれるように近付くと、阿形、吽形どちらを見ても素空の姿は見えなかった。そればかりか、阿形、吽形に挟まれると、素空の声は僅かに聞こえるだけだった。ふと気になって宇土屋の宿舎に立ち寄ることにした。宿舎に近付くと、素空の声がまた耳に入って来た。

 淡戒が宿舎の戸を叩くと、甚太じんたがでて来て対応した。甚太は宇土屋喜兵衛の娘婿として、随分貫禄を付けていた。宇土屋の弟子の中では、随一の腕を持っていたところに、所帯を持ってからの責任感が甚太を少しずつ変えて行ったのだ。

 「お坊様、このような夜分に如何いかがなさいましたか?」

 甚太が怪訝な顔で尋ねると、淡戒が中の様子を気遣いながら小さな声で尋ねた。中では、職人達が夕時ゆうどきの経を唱えていたのだ。

 「私は、東院の僧で淡戒と申します。守護神の前を通りましたら、素空様のお声をお聴きしましたが、どこを捜してもお姿が見えませんでした。こちらで伺えばご存じかも知れないと思いまして参りました」

 甚太は、微笑みながら答えた。「素空様は、仁王門の2階のやぐらにおいでです。申の刻さるのこく(午後4時)までに、仁王門の櫓に経典や書籍を運び込みましたので、夕餉ゆうげの時刻にいらっしゃり、何やらお経を唱えていらっしゃいます。そのお声があまりにも素晴らしく、棟梁が夕べのお祈りを早めにして、素空様に倣おうと申しまして…」甚太が見上げた先に目を向けると、仁王門の櫓の中にかすかな明かりが灯されていた。

 淡戒は、守護神にける素空の思いが、並々ならぬものだと言うことを知った。恐らく魂を込めるためのぎょうが始まったのだろう。そう気が付くと、素空の邪魔にならないように、そっと新堂を後にした。淡戒には、素空の底知れない法力が、単に仏に与えられた物ではなく、素空のたゆまぬ努力で身に付いていることに思い当たった。

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