千手観音の眷属 その2
次の日も、素空は毘沙門天の前に座していた。昨日と同じように禅を組み、仏と眷属に思いを馳せた。だが、千手観音のところでまたしても邪念を持った。何故か分からない思いがフッと心に入り込んで来るのだった。
『千手観音菩薩は、他の御仏とはまったく違うところがおありで、鋭い目と、残像を写すような御手の動き、何が私の心を乱しているのだ?その向こうの28部衆に目が移らなかった。眷属の中に私の心を惑わす者がいたのかも知れないが、どうしてもそれ以上先に進めない…』
素空にとって、このようなことは初めてだった。禅を組み、深く心を沈めれば、やがて闇の中で仏との対話ができたのだ。嘗て、
素空は、仏の姿を追い求め、その心を考え続けた冬の間、千手観音の思いに至らなかった。素空が彫り上げる守護神は、千手観音菩薩の眷属で、28部衆の筆頭となるのだが、茫洋とした千手観音の背後に、グラグラと入れ替わりながら、姿を見せる神々をしっかり見定めることができなかったのだ。
5枚の絵図は、素空の全知を傾けたもので、間違いのない本物だろう、と思っているが、確証がなかった。禅を組み、毘沙門天の前で思いを深く静めても、心乱れるばかりだった。
素空は来る日も、来る日も、座禅を組み瞑想の中に入って行った。
素空はこの日も新堂の裏手にある厨子の前に座していた。1日に何度も禅を組み、体が次第に疲労して、続けられなくなるまで行っていた。
素空の異変は、
宇土屋喜兵衛は驚いた。弟子たちを集め、仕事を中断して出迎えた。2人の
新堂は既に天井板や
「順調である」「重畳、重畳」2人は宇土屋と職人達を労った。
2人の貫首は、宇土屋に案内されて裏門の厨子の前に来た。素空が禅を解き、2人の貫首に厨子を渡して帰ろうとした時、瑞覚大師がここに留まるよう命じた。
2人の貫首は厨子に手を掛け毘沙門天を開帳し、宇土屋は合掌して目を閉じた。
「見事なものじゃ、いつ見ても素晴らしい」興仁大師の言葉に、瑞覚大師が合いの手を入れた。「この毘沙門様があっての新堂じゃから、さもありましょう」
「瑞覚様、そろそろ仕上げをいたさねばなりませんね」興仁大師は、にこやかに言い、瑞覚大師は意味ありげに微笑んだ。
そして、2人は顔を見合わせて大声で笑った。瑞覚大師は、その後すぐに、素空を見て仏師方の様子を尋ねた。
素空が10日の間、仕上げに手を付けず、禅を組んでばかりいると聞いて、このことが気掛かりであり、疑問だった。
「素空よ、どうしたと言うのじゃな?」瑞覚大師は優しく問い掛けた。
「守護神の真の御姿を求めておりますが、未だお会いできません」
2人の貫首は顔を見合わせて訝った。その顛末を聞きだそうとし、興仁大師は心配そうに話し掛けた。「素空よ、そなたが描いた5枚の絵を見せてもらったが、上々のでき栄えではないか。何を迷うておるのじゃ?」
「守護神の彫りに掛かるまでに、我が全知を傾けて、5枚の絵図を描き上げました。冬の間、守護神に魂を込めるために修行をし、仕上げの前に守護神の実像に迫りましたが、失敗し続けております」
瑞覚大師は言葉をなくした。
興仁大師は、更に励ました。「絵図はまことを写すもののようであったが、それでよいのではないかのう?」探るように素空を見詰めた。
素空は首を振り、更に話を進めた。
「御仏とその眷属を、禅を組み思い描きました。多くを思い浮かべましたが、千手観音菩薩の御姿から先を見ることが叶いません」
ここに来て、瑞覚大師が口を挟んだ。
「素空よ、そなたは千手観音菩薩を見たと言うのか?そなたがそのような高みを歩んでいたとは…」瑞覚大師は、興仁大師と顔を見合わせた。2人は現世の如何なる高僧も、千手観音の姿を目にすることは叶わぬことと確信していた。
「素空よ、どのような御姿であったかな?」興仁大師が尋ね、素空はありのままを答えた。「千手観音菩薩は1つの御顔と2つの御手をお持ちでした。しかし、他の御仏と違っているところが2つだけあります。それは、御手の動きが緩やかなのに、残像を残していらっしゃるのです。お目は鋭く、心のすべてを覗かれていることがハッキリ分かり、最初は心が千々に乱れました。
ここに来て、2人の貫首は、素空が2人の遥かに及ばぬ高みを歩んでいることを思い知らされた。
瑞覚大師は、更に尋ねた。「素空よ、その先に進めぬのじゃな?」
「はい、何度も繰り返して瞑想し、ことごとく失敗いたしております」
瑞覚大師は、また言葉をなくした。
興仁大師は、瑞覚大師と顔を見合わせ、1つの提言をした。
「素空よ、そなたはもはや東院での修行をするべくもない身のようじゃ。これよりは、西院の門下となるが良かろう。瑞覚様、よろしいかな?」
「御仏は3年の間、天安寺で修行をすることを御命じになったのじゃ。西院への移籍も良いでしょう」そう同意すると、更に言葉を添えた。
「素空よ、わしの最後の教えじゃ…禅とは、心を深く
瑞覚大師の教えを、素空は
宇土屋喜兵衛が帰りの道々、瑞覚大師に話し掛けた。
「さすがはお大師様ですね。素空様もこれで思い悩むことはないでしょう」
隣で聞いていた興仁大師が、言葉を挟んだ。
「
2人の貫首が帰ってから、素空は、瑞覚大師の言葉通り、千手観音の手の動きを追うのを止め、心を静止させた。千手観音から離れなかった心が、スッと後方の眷属に向かって行った。後は眷属が現れるのをジッと待つだけだった。素空が心を深く沈めると、暗闇に千手観音が消えて行き、やがて眷属が現れた。
第1番に
だが、気になるのは
他に、
素空は、俗に言う
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