第4章 千手観音の眷属 その1
梅の花が咲き、やがて最後の花が落ちた時、素空は仏師方を招集した。
淡戒の鍛冶方は、冬の間に多くの農具を作っていた。「淡戒様、鍛冶方は冬の間、実に有益なことをして頂きました。これからは、鉄を
彫り方が作った
素空の中で、懐地蔵は形が整い、後は、守護神の建立に打ち込むだけだった。
素空が守護神を新堂の表門(仁王門)に移したのは、次の日からだった。表門は
「へえ、見事なものですね。素空様がこれから仕上げをなさるのが、毎日の楽しみになりました」宇土屋喜兵衛は仕上げに向けて、素空の真価を見られると喜んだ。
「宇土屋様、私は
秋から冬にかけて、心晴れやかになることがなかったように思った。脳裏に
素空は無言のまま、仏と多くの神々を見た。仏は、
次に、
素空は座して、微動だにしなかった。素空の閉じた両の目に、毘沙門天が映り厨子を出て、素空の前に片膝を落として頭を垂れ、厨子の中へと帰って行った。
次に、
仏の眷属とは、薬師如来や千手観音に付き従う者達のことで、仁王尊は、千手観音菩薩の眷属だった。
素空は、ここで目を開き、厨子の中を見た。毘沙門天は玄空の彫ったものと寸分の狂いもなかった。手と顔は仕上げられてはいなかったが、先ほどの顔は目に焼き付けていた。素空は更に目を閉じ、心を静めた。
やがて、
千手観音は1つの顔に、2本の手を持ち、想像していた姿とはまったく違っていた。手の動きが残像のような跡を残すことが他の仏との違いで、目の鋭さと、手の動きで千手観音と理解した。更に後方に率いた眷属を見て、素空の心が乱れた。すると、目の前の千手観音はスッと消え失せ、もう、暗闇から何も現れなくなった。
「いつ見ても良い物ですね。お手とお顔が仕上がれば、言うことありませんや」
「宇土屋様、もう暫らくすると、我が師玄空が仕上げの手を入れることでしょう。その時は、今の数倍見事なものになることでしょう。しかしながら、この毘沙門様は今も既に命を持ち、守護の務めを果たせるでしょう。危難の折には、一心に祈ればお助け下さいます。ご安心下さい」
宇土屋喜兵衛は、満面の笑みを浮かべて言った。「はい、その日が来ても、手前共は安心です。素空様の仁王様もお働きになる時は、さぞ恐ろしい形相をされるんでしょうねぇ…恐らく、盗人はすぐに回心し、2度と悪事に走ることはないと存じます」宇土屋喜兵衛は少し大げさに言った。素空は、宇土屋の言葉に微笑みながら相槌を打ったが、やがて、宇土屋はわが身を以って知ることになるのだった。
次の日、淡戒と栄至は
栄雪に連れられて2度来ていたが、岩倉屋惣左衛門に、淡戒の記憶はなかった。1年前の岩倉屋なら冷たくあしらい、商売に関係のないことには一顧の労も払わなかっただろう。「淡戒様のお名前を覚えませんで、まことに申し訳ございません…」淡戒は、岩倉屋惣左衛門の物腰が、以前とはまったく違うことに驚いた。「淡戒様が灯明番として2度のお起こしとは…。栄信様のご用とあれば、できるだけのことをいたしますので、ご安心下さい。本日は、先に加茂屋さんにお連れいたしますので、桐板のご注文をなさいませ。袱紗は明日、
淡戒に異存がある筈はなかったが、解かねばならない誤解があった。
「岩倉屋様、今回のご用は栄信様ではなく、新堂の守護神をお彫りの素空様と申しますお方に命じられ、お世話をお願いいたした次第です」淡戒は、実に申し訳なさそうに事情を話した。
岩倉屋惣左衛門は仰天した。「素空様のご用で!…?」
淡戒は更に恐縮して頷いた。
「ワッハッハ、それはそれは、素空様のご用であればなおのこと、身を入れてお世話いたします。ご安心下さい」
淡戒は、笑顔で言い放つ岩倉屋惣左衛門を見て、目を丸くして驚いた。
淡戒と栄至の2人は、岩倉屋の手代に案内されて加茂屋を訪れた。その間、岩倉屋は、番頭に命じて三条屋の袱紗を1枚ずつ借り受けた。店先で選ぶとなると迷いがでて来るだろうと、岩倉屋惣左衛門は確信していた。今晩中に選べば明日三条屋に赴き、その足ですぐに天安寺に帰ることができるのだった。
夕刻、淡戒は客間に通され、食事の豪華さに驚いた。部屋も、これまで手代の部屋を与えられていたが、客間とは驚くばかりだった。栄雪から少しは聞いていたが、前回と比べて大きな変わりようだった。
そして、もう一つ栄雪から聞いていたことがあった。それは、夜の勤めを仏壇を借りて行うことで、家人と一緒であれば尚よろしいと言うことだった。栄雪は、まだまだ言い足りないような顔を見せながら、微笑むばかりで話すことはなかった。淡戒は、岩倉屋で素空が何をしたのかは聞いていなかったが、岩倉屋の様子では、想像も付かない不思議をもたらしたことは察しが付いた。
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