第4章 千手観音の眷属 その1

 梅の花が咲き、やがて最後の花が落ちた時、素空は仏師方を招集した。

 淡戒の鍛冶方は、冬の間に多くの農具を作っていた。「淡戒様、鍛冶方は冬の間、実に有益なことをして頂きました。これからは、鉄を桐板きりいたに替えて箱をお作り頂きたいのです。明日より雪解けの様子を見て、京に行って頂き桐板40枚、袱紗ふくさを200枚買い求め頂きます。勘定は栄雪様に相談して下さい」

 彫り方が作った懐地蔵ふところじぞうは、180体を超え、明智は既に素空の言葉に従っていた。

 素空の中で、懐地蔵は形が整い、後は、守護神の建立に打ち込むだけだった。

 素空が守護神を新堂の表門(仁王門)に移したのは、次の日からだった。表門は宇土屋喜兵衛うどやきへえの手で、大きく造られていた。格子こうしの中に2体の仁王像を運び込むのは簡単だった。風雨が直接入らないように、軒を大きくし、内向きの格子の中に守護神を斜め前方に向けて祀った。台座が置かれ、分解された部分が組まれた。2体はその日のうちに組み上げられ、威容を誇っていた。

 「へえ、見事なものですね。素空様がこれから仕上げをなさるのが、毎日の楽しみになりました」宇土屋喜兵衛は仕上げに向けて、素空の真価を見られると喜んだ。

 「宇土屋様、私は皐月さつきの風が吹く頃、守護神を完成させるつもりです。これから2月ふたつきの間よろしくお願いいたします」素空は、宇土屋の笑顔に心を和ませた。

 秋から冬にかけて、心晴れやかになることがなかったように思った。脳裏に良円りょうえんや、善西ぜんせい宇鎮うちん西礼さいれいの顔が駆け巡り、1年の歳月を次々と思い浮かべた。素空は裏門の毘沙門天びしゃもんてんのところに行き禅を組み始めた。玄空げんくうの毘沙門天はいつ見ても見事なものだった。ジッと目を閉じると、玄空の顔が浮かんで来た。やがて心が静まり、玄空が去り、闇の中に引き込まれて行った。

 しおが引いて行くような心地よい静寂が心を満たし始め、眼下にきらめく水面が広がった。素空はその煌めきの中に入って行った。白い光は、やがて金色の輝きに変わり、素空の体を包んだ。

 素空は無言のまま、仏と多くの神々を見た。仏は、観音菩薩かんのんぼさつ弥勒菩薩みろくぼさつ文殊菩薩もんじゅぼさつ普賢菩薩ふげんぼさつ地蔵菩薩じぞうぼさつなど様々な菩薩ぼさつが現れては消えて行った。次に、釈迦如来しゃかにょらい大日如来だいにちにょらい阿弥陀如来あみだにょらい薬師如来やくしにょらいなど様々な如来にょらいが現れては消えて行った。やがて、仏が眷属けんぞくを率いて現れた。薬師如来は12神将じゅうにしんしょうを率いて遣って来た。宮毘羅大将くびらだいしょうから始まり、毘羯羅大将びからたいしょうまで、現れては消えて行った。

 次に、12天部じゅうにてんぶが現れた。伊舎那天いしゃなてん帝釈天たいしゃくてん火天かてん閻魔天えんまてん羅刹天らせつてん水天すいてん風天ふうてんまで来ると、素空の周りに風が舞い始め、厨子ずしの扉が軋みながら開いた。

 素空は座して、微動だにしなかった。素空の閉じた両の目に、毘沙門天が映り厨子を出て、素空の前に片膝を落として頭を垂れ、厨子の中へと帰って行った。

 次に、梵天ぼんてん地天ちてん日天にってん月天がってんまで12尊じゅうにそんが現れては消えて行った。

 仏の眷属とは、薬師如来や千手観音に付き従う者達のことで、仁王尊は、千手観音菩薩の眷属だった。

 素空は、ここで目を開き、厨子の中を見た。毘沙門天は玄空の彫ったものと寸分の狂いもなかった。手と顔は仕上げられてはいなかったが、先ほどの顔は目に焼き付けていた。素空は更に目を閉じ、心を静めた。

 やがて、千手観音菩薩せんじゅかんのんぼさつが現れ、素空の前に立つとすべてを見透かすような鋭い目を向けた。素空はなおも心静かに瞑想した。

 千手観音は1つの顔に、2本の手を持ち、想像していた姿とはまったく違っていた。手の動きが残像のような跡を残すことが他の仏との違いで、目の鋭さと、手の動きで千手観音と理解した。更に後方に率いた眷属を見て、素空の心が乱れた。すると、目の前の千手観音はスッと消え失せ、もう、暗闇から何も現れなくなった。

 宇土屋喜兵衛はうどやきへえ、素空の側に遣って来て話し掛けた。

 「いつ見ても良い物ですね。お手とお顔が仕上がれば、言うことありませんや」

 「宇土屋様、もう暫らくすると、我が師玄空が仕上げの手を入れることでしょう。その時は、今の数倍見事なものになることでしょう。しかしながら、この毘沙門様は今も既に命を持ち、守護の務めを果たせるでしょう。危難の折には、一心に祈ればお助け下さいます。ご安心下さい」

 宇土屋喜兵衛は、満面の笑みを浮かべて言った。「はい、その日が来ても、手前共は安心です。素空様の仁王様もお働きになる時は、さぞ恐ろしい形相をされるんでしょうねぇ…恐らく、盗人はすぐに回心し、2度と悪事に走ることはないと存じます」宇土屋喜兵衛は少し大げさに言った。素空は、宇土屋の言葉に微笑みながら相槌を打ったが、やがて、宇土屋はわが身を以って知ることになるのだった。

 次の日、淡戒と栄至は東山ひがしやまに出掛けて行った。桐板と袱紗の買い付けに行くためだったが、先ずは、京屋分家岩倉屋きょうやぶんけいわくらやに赴き、岩倉屋惣左衛門いわくらやそうざえもんに世話を願うことにしていた。桐板は、宇土屋に教えてもらった加茂屋かもやから買い付けることにしたが、袱紗は岩倉屋に頼る外なかった。淡戒が岩倉屋に着いたのは昼頃だった。

 栄雪に連れられて2度来ていたが、岩倉屋惣左衛門に、淡戒の記憶はなかった。1年前の岩倉屋なら冷たくあしらい、商売に関係のないことには一顧の労も払わなかっただろう。「淡戒様のお名前を覚えませんで、まことに申し訳ございません…」淡戒は、岩倉屋惣左衛門の物腰が、以前とはまったく違うことに驚いた。「淡戒様が灯明番として2度のお起こしとは…。栄信様のご用とあれば、できるだけのことをいたしますので、ご安心下さい。本日は、先に加茂屋さんにお連れいたしますので、桐板のご注文をなさいませ。袱紗は明日、三条屋さんじょうやさんにお連れいたします。本日は、岩倉屋にお泊り頂きますので、夜のうちに袱紗の吟味をして頂いてはどうかと存じます」岩倉屋惣左衛門は一気に話し終えた。

 淡戒に異存がある筈はなかったが、解かねばならない誤解があった。

 「岩倉屋様、今回のご用は栄信様ではなく、新堂の守護神をお彫りの素空様と申しますお方に命じられ、お世話をお願いいたした次第です」淡戒は、実に申し訳なさそうに事情を話した。

 岩倉屋惣左衛門は仰天した。「素空様のご用で!…?」

 淡戒は更に恐縮して頷いた。

 「ワッハッハ、それはそれは、素空様のご用であればなおのこと、身を入れてお世話いたします。ご安心下さい」

 淡戒は、笑顔で言い放つ岩倉屋惣左衛門を見て、目を丸くして驚いた。

 淡戒と栄至の2人は、岩倉屋の手代に案内されて加茂屋を訪れた。その間、岩倉屋は、番頭に命じて三条屋の袱紗を1枚ずつ借り受けた。店先で選ぶとなると迷いがでて来るだろうと、岩倉屋惣左衛門は確信していた。今晩中に選べば明日三条屋に赴き、その足ですぐに天安寺に帰ることができるのだった。

 夕刻、淡戒は客間に通され、食事の豪華さに驚いた。部屋も、これまで手代の部屋を与えられていたが、客間とは驚くばかりだった。栄雪から少しは聞いていたが、前回と比べて大きな変わりようだった。

 そして、もう一つ栄雪から聞いていたことがあった。それは、夜の勤めを仏壇を借りて行うことで、家人と一緒であれば尚よろしいと言うことだった。栄雪は、まだまだ言い足りないような顔を見せながら、微笑むばかりで話すことはなかった。淡戒は、岩倉屋で素空が何をしたのかは聞いていなかったが、岩倉屋の様子では、想像も付かない不思議をもたらしたことは察しが付いた。

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