仏師良円 その2
晩秋のある日、明智が造り始めた雲の土台が完成し、阿形尊が据えられた。既に阿形尊の中彫りは相当進んでいて、絵図の
「素空様、新堂の守護神が何故雲に乗り、悪を懲らしに出掛けなければいけないのでしょうか?」一同はハッとして顔を見合わせた。
素空は、胡仁に向き直って語り始めた。
「胡仁様、ご尤もなことでございます。新堂の守護神が、新堂のみの守護に留まればそう言えるでしょう。新堂は天安寺最西端に位置し、都に最も近く置かれます。都を守護する天安寺の守護神は、新堂のみならず、天安寺全体の守護を
この頃、明智は金剛杵を作り始めていた。しかし、どうにも形が掴めなかった。
「素空様、金剛杵を如何に作ればよいのか思案が付きません。如何いたしましょう」素空は、明智が絵図の通りに作ることを言っていないことは分かっていた。
「そうですね、本来御仏の遣いである守護神は、御仏の御言葉を頂いて、勤めをなしているのです。御仏の御言葉は即ち経文に他なりません。邪気を払う金剛杵は、経文の力を秘めていなければならないと思います」
明智は、素空に笑顔を向けて、頭を下げた。素空は最後に一言付け加えた。
「明智様、経文には
柿の葉が散り始め、金剛杵ができ上がった。2体の守護神にはそれぞれに金剛杵が付けられた。中彫りのため、正しく付けられてはいないが、仁王像の異様な姿は日に日に仕上げに近付いた。
「見事なでき栄えですね」栄雪が、2体を交互に眺めながら唸るように言った。
「皆様方、のお陰でございます。既に柿の葉が落ち始め、すべてが散った時から、梅の花が散るまでの間、彫りの仕事をお休みいたします。事務方は灯明番にお戻り頂きます。鍛冶方は、残りの材料で農具を作って頂きます。淡戒様は、灯明番の傍ら、時折り鍛冶方を見て頂くのが良いと思います。また、彫り方の皆様は、仕上げに向けてご自身の一層の精進をお願いいたします。冬の間に、守護神に魂を込める手立てを考えねばなりません。魂が入らねばただの置物となってしまいます」
素空の言葉に、それぞれ為すべきことを新たに見出した。
寝かせておいた
「明智様、台座の底の細工はできていますか?」素空の問い掛けに、明智が答えた。「はい、1分(3mm)の隙間にいたしました。仰せの通り、長さ6寸18cm)、幅3寸(9cm)にしております」
「ところで、お持ちの鹿革を1枚下さいませ。それから、墨と硯の用意もお願いいたします」明智が鹿革を1枚、仁啓が墨と硯を持って来た。
素空が言った。「これより、仏師方の名を残したいと思います」そう言うと、鹿革に仏師素空と書き、次に『仏師』の文字を4つ
仏師方が自筆で書き終わると、鍛冶方と事務方を呼び、名を書かせた。特に良円と法垂は、仏師の文字の下に自分の名を入れることを喜んだ。鍛冶方も事務方も、素空の粋な計らいに感激していた。しかし、明智だけが暗い顔をして、素空を見ていた。
「今年最後の仕事です。皆様、お疲れ様でした」素空の言葉で、作業の終わりを締めくくった。
皆が去って行った後、明智が話し掛けた。
「素空様、いささか早いのではありませんか?」
明智の心の内を理解していたので、素空は言葉を濁さなかった。
「はい、良円様がお元気なうちにと思いました。病が重くなってからは、良き思い出となりにくいと思ってのことです。良円様の如来様には極彩色の衣が揺れて、御顔の色が現れ始めたのです。召されるのが近いと思われます」
冬になって、吹き溜まりには、雪が2尺(60cm)ほど積もり、梅は蕾を付けて春を待っていた。
奥書院の詰め所には、仏師方が全員集まり経を唱えていた。経を唱えながら、明智も、仁啓、法垂も涙した。
皆、良円の布団を囲むように座していた。文机の上に良円の薬師如来像が祀られていたが、医者の見立てでは回復の見込みはなく、今夜が峠だろうとのことだった。枕元には素空、明智、栄雪が座していた。
良円は痩せた体にか細い声で、薬師如来像を所望した。
「栄雪、文机の如来様を枕元にお祀りしてもらえませんか?素空様がお彫りになった本当の如来様です。御覧なさい、光背が金色に揺らめくように輝いているでしょう。お召し物が極彩色に輝き、昨日からはお顔の色も表情もハッキリとするようになりました。私に何か語り掛けていらっしゃるのですが、よく聴き取れませんでした。ここなら、もう決して聞き逃すことはないでしょう」
良円は喘ぎながら多くを語った。
栄雪は、同郷の1番大切な友が、何故こんなに早く召されなければならないのかと嘆いた。もっと大切にしていれば良かったと悔やんだ。仏にすがっても、回復しないと言うことがあっていいのかとも思った。できることは手を握ってやることくらいだった。
暫らくして、良円が優しく言った。
「栄雪、何を泣いているのですか?今やっと、御仏の御声が聴こえました。すると随分楽になりました。ありがたいことです。御仏は《私と一緒に参りましょう。安心しなさい》そうおっしゃいました。私は安心してこの身をお任せいたします」
そう言うと、暫らく休んで素空を捜した。
「素空様、ご一緒できて嬉しく思います。台座に、仏師良円と
更に、明智を捜して言った。
「明智様、苦しい時の盾となって頂きました。私をお導き下さったように、嘗てのお仲間もお導き下さい。皆、良き心を持っていながら、真の御仏にで
そして、暫らく
「栄雪、そして皆様、ありがとうございました。私は本当に幸せでした」
それを最期に、良円はこの世を去った。
栄雪は、もう泣くことはなかった。1番大切な友は、幸せのうちに仏のもとに召されたのだ。
「御仏に近付くとは、斯様なことですね」
栄雪も、斯くありたいと心から思った。
良円の葬儀はしめやかに行われ、天安寺の僧達が眠る墓所に葬られた。
素空は天安寺に上がって以来、月に1度以上は墓所を訪れていた。
埋葬に参列した後、栄信と共に
墓を下る途中、良円の墓を振り返ると、明智が1人墓前に額ずいていた。栄信は灯明番の取りまとめを頼めるのは、やはり、明智を置いて他にないと思った。
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