良円の喜び その4
明智が立ち去ってから、栄信が話し掛けた。
「素空様、私は明智様を誤解いたしておりました。私が
素空は一呼吸して答えた。「私には、叶わぬことのように思います。明智様は、過去の行状を深く悔恨していらっしゃいます。恐らくは、西院での更なる修行を望まれていると思います。やがて、心の整理がつけば、天安寺を下り何れかに去るおつもりとも存じます。従って、説得することは、実に困難を極めることと存じます」
栄信は、フッと妙な不安を感じた。
「素空様、何れかに去るとは、ご自身のことをおっしゃっているのではないでしょうか?」素空は、栄信に笑顔を向けて答えなかった。
素空が作業小屋に戻ると、とんでもないことになっていた。
「素空様、大変です!法垂様が頭に大怪我をされて忍仁堂に運ばれました」
淡戒が鍛冶場から駆け寄り急を告げた。仏師方は全員付き添って、事の次第がまったく分からなかった。素空は、淡戒に後を頼んで忍仁堂に向かおうとした。しかし、妙な予感がして、良円の薬師如来像を見たが、いつもの場所に祀られていなかった。どこを捜しても見つからないまま、忍仁堂に向かった。
法垂は幸い意識があり
「明智様、一体どうしたのですか?」
「私が戻った時にはこのようになっていたのです。これは、私の犯した罪が種となっていると思えてなりません」明智はすまなさそうに肩を落とした。
「どなたか事の次第をお教え下さい」
素空の呼び掛けに、誰も答えなかった。その時、法垂がうめきとも絶叫ともつかない叫びをあげた。何かに怯えるような引きつった声は、聞いている者も暗い気分にした。3度目に絶叫した後気を失ったが、やがて、法垂が目を開いてさめざめと悔恨の涙を流した。
「皆様、申し訳ありませんでした。私は皆様方を裏切り、行動を逐一報告していました。道具を隠したのも私です。先ほどは、如来様を投げ捨てようとして、このような有様になったのです。まことに申し訳ありませんでした」
法垂は、罪を告白し、皆に赦しを願った。
素空は、法垂の枕元に座して、厳しく言い放った。
「法垂様、どなたに赦しを願っているのですか?あなたは、先ず初めに、御仏に赦しを乞うべきではないでしょうか?私も明智様も、良円様も、仁啓様も、あなたを責めてはいません。ただ、赦しを乞うべきは御仏にのみなのです。あなたは、嘗て私が
素空は少し間を置いて優しく語り掛けた。
「仏罰を受ける時、あなたは御仏をご覧になった筈です。それが薬師如来様でしたら幸いですが、如何ですか?」
法垂は涙に暮れながら答えた。
「はい、良円様の薬師如来様が、そのまま極彩色の衣をまとって、ほんの一瞬御現れになりました。怒りの形相の中に、涙を浮かべておいでの御様子でした」
法垂が力なくが答えると、素空が笑みを
「それはまことに良かったですね。薬師如来は本来慈悲深いお方です。法垂様への怒りも
医者は、頭と手の傷はほどなく治るだろうが、へし折れた腕はもう元に戻らないだろうと言っていた。明智は、素空の慰めが仇にならねば良いと案じた。
「法垂、あなたをここまで追い込んだのは私です。赦して下さい」
明智は涙を流して詫びた。
「明智様、私は心を改めました。少しばかり遅過ぎたみたいですが…。この手ではこれまでのように仕事ができる筈もありません。お赦し下さい」
法垂は、それっきり泣き叫び、悔恨の涙に吞まれて行った。医者の勧めで、仏師方は部屋を出て行った。
素空はこの日の作業を休むことにして、瑞覚大師の部屋を訪ねた。
「お大師様、今宵一夜、この薬師如来像をお貸し頂けませんか?」
瑞覚大師は機嫌よく答えた。「おお、素空に頂いた物であるよ。そなたが必要としているのであればお使いなされよ」瑞覚大師は訳も訊かずに貸し与えた。
奥書院の詰め所に運んで来ると、素空は自分の文机の上に祀り、経を唱え始めた。素空の経は部屋の外に響き、法垂の病床まで届いた。
法垂は右手の痛みが癒されたような気がして目覚めた。胸の奥に沁み込むように素空の声が入って来た。法垂には、素空の声だとすぐに分かったので、その声の後をなぞるように唱え、唱えながら涙した。
素空の声が詰め所を満たしてから間もなく、鍛冶場の3人も仕事を終えて、素空の配下が全員集まった。素空が、瑞覚大師に献上した薬師如来像だと言うことは一目瞭然だった。皆一様にその見事なでき栄えに感心した。だが、ただ1人良円だけは畏れ、仰ぎ見て、涙を流して歓喜した。『何と素晴らしい
《良円、私は法垂の傷を癒しに来ました。汝のもとに現れるのは、もう少し先のことです》良円は、薬師如来と確かに言葉を交わし、言葉の意味も理解した。そう思い、周りを見ると誰も、何も気付いていないようだった。不思議なことだった。今もまだ光背が金色に輝き僅かに揺らめいている。『みんな、御仏の光背が見えないのだろうか?それとも、見えない振りをしているのだろうか?私が召されることを哀れに思ってのことだろうか?』
皆が揃ったところで、素空が声を掛けた。
「さあ、皆様方も法垂様の傷が癒されますよう、心を1つにしてお祈りいたしましょう。…良円様、御仏は光背を現していらっしゃいますが、今は法垂様のためにのみお祈りいたしましょう」
素空の言葉で、良円はハッとした。『素空様には見えていたのだ』良円はホッとして皆と一緒に経を唱え始めた。
その夜遅くまで経を唱えた後、1人また1人と眠りに就いた。素空は1人部屋を出て、作業小屋に向かった。作り掛けの守護神は、異様な姿を現していた。阿形尊の前に座し、静かに経を唱え始めた。経は低く響いて辺りの静寂に溶け込んだ。明智がこのことに気付いたのは暫らくしてからだった。奥書院から素空の姿が消えたので、もしやと思い作業小屋に来てみたのだった。
密やかな経の響きが、夜陰に静寂をもたらしているようにも思えた。すると、小屋の先の藪の中が
明智は、素空の法力を信じた。そして、これまで誰にも感じたことのない畏怖の念を感じていた。『御仏と一体になれる人がいるとすれば、素空様を置いて他にない。素空様が望めば、御仏は必ずやお与えになり、素空様が拒めばお守り下さることだろう』明智は、素空の後ろに座し、一礼すると経をなぞった。
素空と明智の経は、その後、暫らく続き、絶妙の響きを生んだ。明智はこの時、素空に同化して、心の奥底が白く輝きだすような気分を感じていた。心の曇りが晴れ、心地よい感覚の中で仏と対話をしている気分だった。経が仏との対話だと言うことを実感した夜だった。
数日後、法垂は
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