良円の喜び その4

 明智が立ち去ってから、栄信が話し掛けた。

 「素空様、私は明智様を誤解いたしておりました。私が灯明番とうみょうばんのお役目を下りるとなると、栄雪をとも思いましたが、まだまだ至りません。明智様なら申し分はないと存じます。如何でしょうか?」

 素空は一呼吸して答えた。「私には、叶わぬことのように思います。明智様は、過去の行状を深く悔恨していらっしゃいます。恐らくは、西院での更なる修行を望まれていると思います。やがて、心の整理がつけば、天安寺を下り何れかに去るおつもりとも存じます。従って、説得することは、実に困難を極めることと存じます」

 栄信は、フッと妙な不安を感じた。

 「素空様、何れかに去るとは、ご自身のことをおっしゃっているのではないでしょうか?」素空は、栄信に笑顔を向けて答えなかった。

 素空が作業小屋に戻ると、とんでもないことになっていた。

 「素空様、大変です!法垂様が頭に大怪我をされて忍仁堂に運ばれました」

 淡戒が鍛冶場から駆け寄り急を告げた。仏師方は全員付き添って、事の次第がまったく分からなかった。素空は、淡戒に後を頼んで忍仁堂に向かおうとした。しかし、妙な予感がして、良円の薬師如来像を見たが、いつもの場所に祀られていなかった。どこを捜しても見つからないまま、忍仁堂に向かった。

 法垂は幸い意識があり、右掌みぎてのひらが火傷したように腫れ、右腕が無惨にもへし折れていた。頭の傷は、右耳の上から前後に4寸(12cm)、幅1寸(3cm)ほどで鋭く切れていて、出血は少なかったが、深い傷で回復には相当の日数が掛かるようだった。

 「明智様、一体どうしたのですか?」

 「私が戻った時にはこのようになっていたのです。これは、私の犯した罪が種となっていると思えてなりません」明智はすまなさそうに肩を落とした。

 「どなたか事の次第をお教え下さい」

 素空の呼び掛けに、誰も答えなかった。その時、法垂がうめきとも絶叫ともつかない叫びをあげた。何かに怯えるような引きつった声は、聞いている者も暗い気分にした。3度目に絶叫した後気を失ったが、やがて、法垂が目を開いてさめざめと悔恨の涙を流した。

 「皆様、申し訳ありませんでした。私は皆様方を裏切り、行動を逐一報告していました。道具を隠したのも私です。先ほどは、如来様を投げ捨てようとして、このような有様になったのです。まことに申し訳ありませんでした」

 法垂は、罪を告白し、皆に赦しを願った。

 素空は、法垂の枕元に座して、厳しく言い放った。

 「法垂様、どなたに赦しを願っているのですか?あなたは、先ず初めに、御仏に赦しを乞うべきではないでしょうか?私も明智様も、良円様も、仁啓様も、あなたを責めてはいません。ただ、赦しを乞うべきは御仏にのみなのです。あなたは、嘗て私が仏罰ぶつばつに付いて申したことを覚えてはいないのですか?あなたは、人の裁きではなく、御仏の裁きを受けたのです。心して裁きを受け止めることです。御仏の道具となるべき僧が、御仏の御姿を投げ捨てるなど罰当ばちあたりにもほどがあります」

 素空は少し間を置いて優しく語り掛けた。

 「仏罰を受ける時、あなたは御仏をご覧になった筈です。それが薬師如来様でしたら幸いですが、如何ですか?」

 法垂は涙に暮れながら答えた。

 「はい、良円様の薬師如来様が、そのまま極彩色の衣をまとって、ほんの一瞬御現れになりました。怒りの形相の中に、涙を浮かべておいでの御様子でした」

 法垂が力なくが答えると、素空が笑みをたたえて語り始めた。

 「それはまことに良かったですね。薬師如来は本来慈悲深いお方です。法垂様への怒りも一時いっときのこと、御仏に詫びて心を改めることが肝心かんじんです。一心に御仏に祈ることで、法垂様の傷も癒されましょう。私も、薬師如来様に御慈悲と癒しを願いましょう」そう言うと、明智に座を渡した。

 医者は、頭と手の傷はほどなく治るだろうが、へし折れた腕はもう元に戻らないだろうと言っていた。明智は、素空の慰めが仇にならねば良いと案じた。

 「法垂、あなたをここまで追い込んだのは私です。赦して下さい」

 明智は涙を流して詫びた。

 「明智様、私は心を改めました。少しばかり遅過ぎたみたいですが…。この手ではこれまでのように仕事ができる筈もありません。お赦し下さい」

 法垂は、それっきり泣き叫び、悔恨の涙に吞まれて行った。医者の勧めで、仏師方は部屋を出て行った。

 素空はこの日の作業を休むことにして、瑞覚大師の部屋を訪ねた。

 「お大師様、今宵一夜、この薬師如来像をお貸し頂けませんか?」

 瑞覚大師は機嫌よく答えた。「おお、素空に頂いた物であるよ。そなたが必要としているのであればお使いなされよ」瑞覚大師は訳も訊かずに貸し与えた。

 奥書院の詰め所に運んで来ると、素空は自分の文机の上に祀り、経を唱え始めた。素空の経は部屋の外に響き、法垂の病床まで届いた。

 法垂は右手の痛みが癒されたような気がして目覚めた。胸の奥に沁み込むように素空の声が入って来た。法垂には、素空の声だとすぐに分かったので、その声の後をなぞるように唱え、唱えながら涙した。

 素空の声が詰め所を満たしてから間もなく、鍛冶場の3人も仕事を終えて、素空の配下が全員集まった。素空が、瑞覚大師に献上した薬師如来像だと言うことは一目瞭然だった。皆一様にその見事なでき栄えに感心した。だが、ただ1人良円だけは畏れ、仰ぎ見て、涙を流して歓喜した。『何と素晴らしい御姿みすがたでしょう!今この時、召されても構いません。この世で御仏にお会いできるとは思いもよらないことです』良円が呟くと、薬師如来は赤い唇を開いて、優しく語り掛けた。

 《良円、私は法垂の傷を癒しに来ました。汝のもとに現れるのは、もう少し先のことです》良円は、薬師如来と確かに言葉を交わし、言葉の意味も理解した。そう思い、周りを見ると誰も、何も気付いていないようだった。不思議なことだった。今もまだ光背が金色に輝き僅かに揺らめいている。『みんな、御仏の光背が見えないのだろうか?それとも、見えない振りをしているのだろうか?私が召されることを哀れに思ってのことだろうか?』

 皆が揃ったところで、素空が声を掛けた。

 「さあ、皆様方も法垂様の傷が癒されますよう、心を1つにしてお祈りいたしましょう。…良円様、御仏は光背を現していらっしゃいますが、今は法垂様のためにのみお祈りいたしましょう」

 素空の言葉で、良円はハッとした。『素空様には見えていたのだ』良円はホッとして皆と一緒に経を唱え始めた。

 その夜遅くまで経を唱えた後、1人また1人と眠りに就いた。素空は1人部屋を出て、作業小屋に向かった。作り掛けの守護神は、異様な姿を現していた。阿形尊の前に座し、静かに経を唱え始めた。経は低く響いて辺りの静寂に溶け込んだ。明智がこのことに気付いたのは暫らくしてからだった。奥書院から素空の姿が消えたので、もしやと思い作業小屋に来てみたのだった。

 密やかな経の響きが、夜陰に静寂をもたらしているようにも思えた。すると、小屋の先の藪の中が金色こんじきに輝き、揺らめくように作業小屋に近付いていた。光は素空の頭上を越えて、阿形尊の正面の棚に納まった。明智は近付いて光の納まった場所を改めた。素空の声はなお、低く響いて、棚の上には良円の薬師如来像が祀られていた。

 明智は、素空の法力を信じた。そして、これまで誰にも感じたことのない畏怖の念を感じていた。『御仏と一体になれる人がいるとすれば、素空様を置いて他にない。素空様が望めば、御仏は必ずやお与えになり、素空様が拒めばお守り下さることだろう』明智は、素空の後ろに座し、一礼すると経をなぞった。

 素空と明智の経は、その後、暫らく続き、絶妙の響きを生んだ。明智はこの時、素空に同化して、心の奥底が白く輝きだすような気分を感じていた。心の曇りが晴れ、心地よい感覚の中で仏と対話をしている気分だった。経が仏との対話だと言うことを実感した夜だった。

 数日後、法垂は吽形尊うんぎょうそんの前でおのを振るい、のみを打ち、黙々と作業に打ち込んだ。医者に見放された傷は一夜のうちに回復し、奇跡を信じた時から、法垂が変わって行った。法垂はここに至るまで、真に仏を信じていなかったことを悔い、一心に信心した。

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