良円の喜び その3

 良円は、思い出したように、栄雪に語り掛けた。

 「ところで、栄雪、素空様はやはり素晴らしいお方ですねぇ」

 「えっ!改まって何を言うのですか?」栄雪は何のことやら見当が付かなかった。

 「これですよ、素空様の薬師如来様と観音様ですよ」良円は文机に歩み寄って見惚れるように眺めながら言った。栄雪は、微笑んで良円の側に近寄り、何のことかと覗き込んだ。行信も素空の文机まで歩み寄って来たが、2人には、良円の言葉の意味が分からなかった。

 「御覧なさい。素空様の3体の御仏はほのかに金色の輝きを発しているではありませんか。そして、時折り目を差すような強烈な輝きを放っています。これこそ、素空様が真の仏師である証です。私はこうして御仏に接することができて、本当に幸せです」良円の言葉に、栄雪と行信は顔を見合わせていぶかった。

 「良円様には見えるのですか?…?」行信が思わず問い掛けた。

 「ええ、私にはハッキリと見えます。お顔を拝見するだけで、心が晴れやかになり、力が湧いて来るような、また、幸せな気分になります。このような心持ちは初めてのことです。お2人は、いつも御仏のお側でお仕事をなさっているのですね…」

 行信は何のことやら分からなかった。「良円様には、この御仏像が金色に輝いて見えるのですか?私には何も変わったところなどないように見えますが…」

 行信の言葉で、自分だけが金色の光を見ることができるのだと理解した。良円は不思議で仕方がなかった。

 作業小屋に戻ると、早速、素空にこのことを告げ、上気して笑みをたたえた。

 素空はまゆを曇らせ、黙って聴いていた。そして、良円に微笑み返して、さり気なく語った。「良円様、御仏の証を目にすることは、とても良いことです。心清い人の中でも極稀ごくまれにしか体験できません。良円様が御仏に一歩近付いた証でしょう。よろしければ、お好きな御姿を一体お手元にお置き下さい。更に信心が深まりましょう」

 素空の言葉に、良円は歓喜した。

 翌日、奥書院の詰め所から、薬師如来像やくしにょらいぞうが持ちだされ、素空と良円の仕事場に祀られた。薬師如来像は、阿形尊のおぼろげな形を見守るように祀られ、良円は、仕事の合間に幾度も拝み見た。やがて、阿形あぎょう吽形うんぎょうは、同時に始めたとは思えないほど、作業の進捗しんちょくに差がついていた。明智はそのことをいつも気にしていた。3人で作業をしても、素空と良円の仕事振りには敵わないのだ。

 ある時、明智が素空に尋ねた。

 「素空様、どこでこれほどの差が付くのか私には分かりません。お分かりでしたら、お教え下さい」

 素空は微笑んで答えた。「明智様、気になさることはありません。明智様の吽形尊は予定通りに進んでいるのです。阿形尊が先んじているのは、私が己の構想で仕事を進めているからに他なりません。それに加えて、良円様がたいそう浮き立って仕事に掛かっておいでだからでしょう。呼吸がピッタリと合っているのです。ですから、こちらが進み過ぎているだけなのです」

 仕事の遅れは、仁啓も法垂も承知していた。この時、傍らで聞いていた法垂の目がキラリと光った。

 良円は心の浮き立つような日々を過ごしていた。この頃には、素空を心から尊敬してそのすべてを倣い、己の中に取り込もうとした。素空の技法を上手に真似て、仕事の合間に彫る懐地蔵ふところじぞうと呼ばれる小さな地蔵菩薩じぞうぼさつは、素空の作と見まがうばかりのでき栄えだった。

 ある日、明智が良円に問い掛けた。

 「良円、近頃の精進振りには感心していますよ。随分と腕を上げ、私も舌を巻くほどです。一体どう言う訳ですか?」

 「明智様、御仏にお会いして、いつも見守られているからなのです」

 明智は一瞬眉を曇らせて更に問い掛けた。

 「ほほう、それは良かったですね。一体どう言うことですか?」

 すると、良円が仕事場に祀っていた薬師如来像を、布にくるんでうやうやしく運んで来た。

 「これは素空様の如来様ではないですか」明智が即座に言った。

 「はい、素空様に頂きました。この如来様は、まことの御仏なのです。金色こんじきの輝きを放っていましたが、今では、光背こうはいを輝かせていらっしゃいます。私が信心すればするほど、御姿を御現しになられます。私は、毎日がとても幸福でなりません。皆様にはご覧頂けないのですか?」

 良円は、居合わせた全員の顔を見た。素空と事務方の二人は居なかったが、他の者すべてが黙ってうつむいていた。ただ1人、明智だけが目に涙し、その場を立ち去った。

 明智は、新堂の裏手に来ていた。毘沙門天びしゃもんてんの顔を拝みながら、良円との別れが近いことを悲しく思った。己の罪の巻き添えをさせた悔恨の涙が止めどなく溢れ、心の中で経を唱えるのだった。

 「明智様、ここにいらしたのですか?」突然声を掛けられて、振り返ると素空と栄信えいしんが立っていた。

 明智の涙を見て、素空が何があったのかと心配して尋ねたのだった。

 明智が答えて言った。「たった今、良円の命があと僅かであると分かったからです。素空様はご存じだったのですね?」

 「私が彫った3体の御姿を詰め所でご覧になった時、金色の光を目にしたそうです。そのことを聴いた時に分かりましたので、仕事場に祀ることをお勧めしました。ご本人がこのことに気付かれるのは、御仏の御前みまえに召される前でしょう。その日まで、御仏に近付かんと精進することは幸せなことなのです。人は何時如何なる時も、御仏の御前に召されても良いように生きなければなりません。大いなる喜びの内に召されたいものです」

 素空の言葉は、明智の心に沁みた。

 「私は良円を、いや、多くの者を己の罪の巻き添えにしてしまったことを心から悔やんでいます。そして、私に付いた多くの者が、今なお苦界くかいに居ることを私はどうすることもできないのです」

 「明智様、人は己の身の始末をどう処するか、己自身が責任を負っているのです。人に動かされたと言って人を恨むことは、御仏の前で厳しく罰せられるのです。己が欲を持って人に動かされたと言うのならば、欲を捨てることです。理不尽を盾に動かされたのであれば、憤る心を捨てることです。善意に溢れた決意も、偽善を憎む心も、信義を求める姿にも、闘う心があれば身を引くべきかと存じます。人は1人ひとりに心の弱さを抱えています。ある時は徒党を組んで団結し、またある時は、その行き過ぎた行動に反省もできるのです。明智様、以前のお仲間をお信じなさいませ。人は誰しも、救われる者は救われ、救われぬ者は救われないのです。すべては、己の身の育て方にあるのです。物心付いてより、1人前となるまでに、己自身の育て方をしっかりしなければならないのは、誰しも同じなのです。お1人おひとりにお任せすることです。余人が何を言うべきでしょうか?」

 明智の涙は晴れていた。

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