#1ー2 お気は済みまして?(ルイーズサイド②)
「それで、今日は何をすればいいの?」
鏡台の前に座られたイングリッド様が、物憂げな表情で
こうして静かになされていれば、イングリッド様は聖女に相応しい気品とお美しさを兼ね備えた方でございます。
艶を帯びた柔らかい黒髪と深い光を湛えた大きな黒い瞳。
雪のように白く滑らかな肌に覆われたお顔の中心には整った鼻筋が通り、その下には小さく可愛らしい唇が結ばれています。
「本日は王宮まで慰問と祝福にお出ましになる予定でございます」
私がイングリッド様の髪を
「慰問と祝福って……もしかして一ヶ月くらい前にも行ったアレ?」
「はい、前回は東部国境地帯で隣国の偵察隊を撃退した騎兵隊でしたが、今回は北部の獣人国への遠征を終えた旅団への慰問と祝福とのことです」
次の瞬間、イングリッド様のお顔が見る間に青白く変わっていきました。
「い……いやあああああああああっ!」
「と、言われましてもご聖務ですので」
お身体をガクガクと震わせながらイングリッド様が首を横に振ります。
「それって怪我人の傷を治したり、死人が迷って出てこないように祝福与えたりするヤツでしょ⁉」
「はい、そうでございますが」
「いやいやいやいやいや! 取れた腕や脚を繋いでくれとか、割れた頭を塞いでくれとか普通に頼まないでよぉっ。焦げた死体とかも見たくないわよぉぉっ」
「ええと、僭越ながらそのような事は日常茶飯事なのでは? 私も男爵様のお屋敷に居りました頃にはよく怪我をした兵士の傷の縫合などお手伝いしておりましたし」
イングリッド様は何か恐ろしいものでも見たような表情を浮かべながら頭を掻きむしられました。
「ああっ、それ! この世界の人間ときたら切った張ったが当たり前みたいに思ってるけど、ワタシんとこではそんなの外科医か救急隊員でもなきゃまず見ないわっ! 内蔵がまろび出ちゃってるのとかもう見たくないのよぉぉ。グロいのダメなのよぉぉぉ」
無学の私にはイングリッド様の仰る「キューキュータイイン」が何かは解りかねますが、そういえばイングリッド様はそもそも公爵家のご令嬢ですから、そのような場に慣れておられないのかもしれません。
「イングリッド様、心をお鎮めくださいませ。今お茶をご用意いたします」
お茶の用意をしながら私は、どのような手管を用いてイングリッド様をなだめすかすかを思案しておりました。
「そういえばイングリッド様、城下の菓子工房で、新しい焼菓子が売られているとのこと――」
振り返った私の視界にイングリッド様の姿はありませんでした。
「イングリッド様?」
その時、パタパタと何者かが回廊を駆けていく足音がします。
「イングリッド様!」
お部屋を飛び出すと、イングリッド様が回廊の先の階段を駆け上がる姿が一瞬だけ見えました。
「お待ちください、イングリッド様!」
私が階段まで辿り着くと、螺旋状に延びる階段の上方からペタペタと階段を登る足音が聞こえます。
イングリッド様は高貴なご令嬢ですので、体力的にはあまり優れてはおられません。
私は迷わず階段を駆け上がっていきました。
すぐにイングリッド様に追いつくはず――。
そう考えていたのですが、私は浅はかでした。
本日、私の靴には鉄板が仕込まれていたのを失念していたのでございます。
思いのほか距離を詰めることが出来ないまま、私はイングリッド様の後を追いました。
それにしてもよりによってこの聖女宮で一番高い尖塔へ逃げ込まれるとは、何をお考えなのでしょうか。
塔の最上部は物見のテラスがあるだけで逃げ場はありません。
ようやく私が尖塔の上端へ辿り着いたとき、イングリッド様は外のテラスに手をかけてよじ登ろうとされていました。
「ハァ、ハァ、イングリッド様、いったい何をなさっているのです?」
「もうウンザリなのよ! 訳もわからない内に聖女とかにさせられて、人の怪我や病気直したり一日中祈らされたり、早起きも嫌いっ、あーっ、もうイヤ、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ァッ」
イングリッド様がテラスの縁に立ち上がって絶叫します。
「落ちついてください、イングリッド様! どうかこちらに降りてくださいませ」
ですがイングリッド様は遠くを見るような眼差しで口角を上げました。
「イヤ。ワタシはこんなところとはサヨナラしたいの」
そのまま「じゃあね」と言われると、イングリッド様は虚空へと身を踊らせます。
「イングリッド様⁉」
テラスに駆け寄り下を覗くと、遥か眼下の地面の上に伏すイングリッド様の姿が見えました。
「イングリッド様……そんな……なんて、なんて無駄なことを!」
イングリッド様の周りには、物音を聞きつけた付近の人達が徐々に集まりつつありました。
「はっ⁉ いけませんわ、早く回収しなければ!」
私は急いで階段を駆け下りると聖女宮の入口へと向かいます。
「ああ、申し訳ありません、ちょっと通してくださいませ!」
既に二重三重となった人垣をかき分け輪の中心へと抜け出ると、そこにはまるで馬車に轢かれた蛙のような格好で地面に貼り付いたイングリッド様が居られました。
「お気は済みまして?」
私の声に、伏したままイングリッド様は小さく頷かれます。
「さあ、それではお立ちになって。このままでは皆様が心配されますわ」
私に促され、イングリッド様は地面に手をつくとスクッと立ち上がられました。
あの高さから落ちてなお、そのお顔とお体には傷一つございません。
人垣から「おおっ」とどよめきがあがります。
「皆様! 本日は特別に聖女様が奇跡を見せてくださいましたわ。聖女様のご厚意に盛大な拍手を! さあ、聖女様も皆様にお手をお振りになって」
力なくブラブラと手を降るイングリッド様を拍手の輪が包み込みます。
「それでは聖女様ご退場ですわ。少し道を開けて頂けますかしら。ご協力感謝いたします。あ、お代はけっこうですのよ。お気持だけで――」
私に肩を押されながら、イングリッド様が拍手に見送られトボトボと左右に分かれた人垣の間を歩き出しました。
私は何度か観衆の皆様にご挨拶をしながらようやく聖女宮の入口をくぐり、イングリッド様を押し込めるように扉を閉めます。
「はぁ……何とかなったようですわね。イングリッド様、
華奢な御身体が更に小さくなられるほどうなだれたイングリッド様は、小さく「うん」と頷かれました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます