泡沫

@cactas

第1話

 降っている。雨が。


 この雨に身を晒せば、熱は冷めていくのだろうか。


 この雨は、全てを流してくれるのだろうか。


 経験も、過去も、記憶も、想いも、後悔も。


 全部全部全部全部全部。


 初めからなかったみたいに。


 ここから始まるみたいに。


 そんな訳はない。


 流れていくのは、土とか、葉っぱとか、虫とか、その辺に捨てられた紙とか、『有る』ものだけで。


 本当に流れて欲しいものなど、流してはくれない。


 雨の中に身を晒しても、清めるように全身で浴びても。


 雨が止んだら、必ずそこに『在る』。


 迷いも、憤怒も、憎悪も、失敗も、過ちも。


「……なんで、傘ささないんですか」


「さぁ、なんでだろう」


 私は降りしきる雨の中、傘をさしてこちらに歩いてくる男子生徒にそう返す。見覚えない顔だけど、制服を見るに、私と同じ学校に通う生徒らしい。


「風邪、引いちゃいますよ」


 私を守るように差し出された傘。おかげで彼は私の代わりに雨に晒されていた。


「大丈夫。肉体的な意味でなら私はとても恵まれているから」


 それにこれだけ濡れてしまっているのに、傘をさす意味なんてない。


 私は傘の中から出て、もう一度雨の中に躍り出る。


 男子生徒は差し出した傘と、また雨に打たれている私を交互に見た後、徐ろに傘を閉じた。


 当然、男子生徒は雨に打たれ始めた。


「風邪、引くんじゃなかったの?」


「物心ついた時から引いた覚えはないので大丈夫です。それにもう、濡れちゃいましたから」


 それはそうだと思う。少し悪いことをしてしまったかもしれない。


「ねぇ、この雨。どこに流れていくと思う?」


「その辺の側溝とかどっかの穴とか……まぁ、最終的には川とか海辺りに着くんじゃないですか? 大体は植物の栄養とかになると思いますけど」


「それで無くなると思う?」


「なにが?」


「私の嫌なもの全部」


 そう答えてると男子生徒は押し黙った。黙るしかないだろう。


 同じ学校の生徒とはいえ、面識のない相手の、よくわからない質問。


 適当にお茶を濁して、ここから去るのが彼の正解で、以後関わらないのが吉だ。


 自分のことながら、酷い自己評価だと言わざるを得ない。


「流れはするんじゃないですか?」


 しかし、返ってきたのは意外な回答だった。


「でも、いずれまた帰ってきますよ。雨になって、この場所に」


「その心は?」


「自然の摂理ならともかく、『良いもの』や『嫌なもの』は必ず帰ってくるものなんです」


「信賞必罰、因果応報。どっちにしても全然歓迎できない」


「嫌なことって言うのは、なにか悪いことでも?」」


「さぁ。相手の気持ちは一ミリもわからなかったけど、私がされたらできるだけ相手を苦しめてやりたいとそう思うかも」


「それ、悪いことをしたって告白しているようなものじゃないですか?」


「向こうからしてみれば、そう見えるかも。でも、私はそうじゃない。自分なりの信念を持ってた……つもり」


 とはいえ、結果はこのザマ。自分にとっても、向こうにとっても、形容し難い、もやもやとした暗い感情だけが残った。


 ふと、外を見たら、ちょうど雨が降り出してきたところだった。


 だから、出た。なにも持たず、体一つで。


 走って。走って。走って。


 ここにいる。


「今はクールダウン中って事ですか?」


「火照りが収まらなかったから。それに付いた汚れも落ちてくれるかと思ったんだけど」


 そううまくはいかなかったみたい、とごちる。


 どれだけ雨に打たれても、依然として、収まる気配はない。収まる理由わけなんてない。


「で、あなたはどうするの?」


「どうする、とは?」


「私の奇行に付き合う義理はないでしょう?」


 雨の中。傘もささずにぼうっと佇んでいたから、彼は私を心配して声をかけただけで、それ以上それ以下の理由はないはずだ。


 雨に打たれてやる理由なんてないはずだ。


「それはまあ」


 だったら、と続ける前に彼は朗らかに笑う。向日葵が咲き誇るように。


「でも、こうしてると気持ち良いなと思って」


 彼は両腕を大きく広げて天を仰ぐ。


 そうやって気持ちよく雨を浴びる彼を見て、映画のワンシーンを切り抜いたような幻想的で、神秘的ですらある。


 それと同時に僅かに苛立ちを覚えた。 


「雨がそもそも汚いけど」


 だからつい、魔が差した。


「特に降り始めは色んなものが混ざってるから」


「色んなもの? ああ、そう言えば、テレビでそんなことを言っていたような気がする」


「詳しくないけど、空気中の埃や花粉、後工場から出る化学物質……それと、とか」


「え?」


「だって、帰ってくるんでしょう? 『良いもの』も『嫌なもの』も。この雨だって、誰かが流したものを持ってくるんじゃないの?」


 心底、自分が意地の悪い性格だと思った。


 それもそうだ、と頷く彼を見て、溜飲が少しだけ下がるのがわかったから


 元々、性格の良いやつなんていないけれど。その中でも特筆して、自分は性悪というか、ねじ曲がった性格をしていると思う。


 こんなことで自分の中にある暗い感情を鎮めるのはお門違い。彼からみれば八つ当たりも甚だしい行為だ。


 罵倒されなくても、嫌味くらいは言われるかもしれない。


「自信はないけど」


「?」


「誰かにとっての『良いもの』も『嫌なもの』も自分にとってそうであるとは限らない。巡り巡って、こうして流れてきたもの全部が、やっぱり気持ちが良いんだよ」


「『嫌なもの』なのに?」


「受け取る側次第で、『嫌なもの』が間違っているとは限らないんじゃない? 今回の場合は特にそう思うよ」


 知ったふうな事を、と口をついて出る前に、はたと気づく。


「……もしかして、口説いてる?」


「そういうつもりはなかった、と思う。……あ、いや、少しはあったかも」


 なんとなく、そう感じたから。

 

 その程度の理由で、半ば冗談混じりに言ったそれを一度は否定したものの、すぐに肯定する。


「……今の、普通は誤魔化すところだと思うけど」


「それは……うん。その通り」


 申し訳なさそうに、それでいて照れ臭そうに頬を掻く仕草を見るに、嘘はついていない。


 歯に衣着せぬというより、そもそも、彼は嘘をつけない性格なのかもしれない。馬鹿正直、と言ってもいい。


 けれど、その性格には好感が持てた。


 虚偽や欺瞞を含まない、ありのままの心。


 彼のことを何一つ知らない私でも、彼が多くの人間から好かれるであろうことは想像に難くない。


 このようなご時世でも謹厳実直な様はまず好印象を持たれることだろう。


 だからこそ、私は問う。


 自分が抱いた疑問を。包み隠すことも、誤魔化すこともせずに。


「あなたは、何?」


「うーん……厳密には違うけど、有り体に言えば、死神、かな」


 嘘は、ついていない。


 ただ、あまりにも現実味がない台詞。


 戯言、妄言の類いと切り捨てることはできる。


 けれど。


「そう」


 それが、妙に腑に落ちた。


 違和感を覚えることなく、抵抗感を覚えることなく。


 頭ではなく、心で理解するように。


 彼の言葉は私の中にすとんと落ちた。


「怖くないんだ?」


「怖がる理由がないもの」


 死神、という名前は確かにおどろおどろしいものだとは思う。そして、それが目の前に現れたのなら、怖がるのも当然かもしれない。


 見た目がでなければ。


 それこそ、禍々しい黒い靄の塊であったり、大きな鎌を持った骸骨なら、恐怖で腰を抜かしたり、走って逃げ出したりしたかもしれない。


 でも、私の前にいる死神は、話はできるし、見た目も普通の男の子。


 『ああ、死神ってこういう感じなんだ』という感想こそあれど、怖がる要素は実のところ、ほとんどなかった。


 そう答えると、顎に手を当てて、考えるような素振りを見せる。


「んー…………理由理由……なにかあったかなぁ……………あ、そうだ。キミには僕が?」


「どうって……男の子? 私と同じ歳くらいの」


「キミには僕がのか。成る程。それじゃあ、怖がる道理はないな」


 合点がいったように、手をパンと叩く。


「キミの死生観の問題かな。多分、キミにとって、死は特別じゃないんだ。身近にあって、意識するほどのことでもない。それこそ、日常の一部と感じているくらい。だから」

 

「あなたが普通の男の子に見える?」


「そういうこと。会話が成立する人間はよくいるし、として視られることもあるけど、そう視られたのは久しぶりだ」


「嬉しそうね。それともそう視えるだけ?」


「半分正解で半分不正解。嬉しいというのは事実だけど、キミが相手だから僕が人間みたいに見えるこうなっているというのが正しいかな」


 相手によって姿形だけじゃなく、感情中身まで変わるのか。


「それはまた、不便そう」


「どうだろう。僕が見える時点で、基本的に死は免れないから、利便性について考えたことはないかな」


 確かに。


 見えた始まった瞬間に死が決まっている終わっているのなら、彼がどんな姿形をしていても、彼にとってさしたる問題にはならない。人間であろうが、動物であろうが、化物であろうが、ゴールは一つしかないんだから。


 それでもやっぱり、不便だという印象は変わらなかったけれど。本人が気にしていないのなら、声高々に主張する意味もないだろう。


 それに今は誰かと言い争いをする気分にはなれない。


 というか、私としてはそろそろ家に帰ってお風呂に入りたい。彼と話しているうちに少しは頭が冷えたのか、雨に濡れて普通に気持ち悪いし。


 こちらの気持ちを察したのか、それとも露骨に顔に出ていたのか、彼は持っていた傘を私に差し出してきた。


 こんな状態じゃ、雨風をしのぐ意味はないけれど……まぁ、傘をさしている方が目立たないか。


「……ありがとう。えーと……死神さん?」


「ははっ、死神は別に名前じゃないよ」


「じゃあ、何?」


「僕の名前……個体名は特にないけど、無いとキミは困るよね」


「それは……困る」


 それはそうだ。仮に話しているのを見られた時、死神、死神と連呼していれば、本当におかしい人扱いされる。最悪、病院送りもあるかもしれない。


 もっとも、何もない空間に向かって話しかけている時点ではたから見ればおかしい人なのは間違いないけれど。


 死神を称する彼は、どうしたものかと首を傾げ、ぐるりと辺りを見回し……何かに気づいたように空を見て、うんと頷く。


「夕立、と言うのはどうかな?」


「夕立? ……ああ、そういうこと」


「ちょうど良いと思うんだ。キミとの出逢いを覚えておくには」


「なら、良いんじゃない」


 私から特に思うことはない。本人が納得しているし、呼び辛いわけでも、痛々しいわけでもない。適当な名前。


 ――別にいいか。彼との関係もいつまで続くかわからないのだから。


 そんな事を考えながら、それと同時に死神を名乗った彼――夕立とは長い付き合いになりそうだと私は予兆めいたものを感じていた。


「ああ、そうだ。キミの名前は?」


「? 言わなくても知ってるんじゃないの?」


「もちろん。でも、僕としては、キミの口から教えて欲しいな」


「その言い方、誤解されるからやめた方が――」


「ごめん。今のはわざと」


「……」


 無言で睨むと、夕立は肩を竦める。


 ……本当にこれ。私が相手だからこうなってるだけなの? あまり信じたくないというか、お願いだから別の要因があってほしい。


 そう思いつつ、聞けないのは『純度百パーセント。キミの影響だよ』と答えられたら、悶死しそうだから。いくら死ぬことがわかっていても、そんな終わり方はごめんだ。


「はぁ……小春紫苑。好きに呼んで」


「ああ、よろしく。紫苑」


 そう言って、夕立はおよそ死神とは思えない屈託の無い笑みを浮かべた。


 その日出会った、私は、私の死神と。


 これは一人の人間死神に恋する終わるためのお話。


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