第六章 事故物件 ~その二~

 冷たい手でいきなりうなじを撫でられたような悪寒に、反射的に後ろを振り返る。

「風丘さん――」

「ちょっと静かにしてて」

 雨の中、葉月たちは幹線道路沿いの歩道の上にいた。スーパーが近いこともあって、天気の悪さからすれば人の行き来もそれなりにある。

 そんな傘をさして歩く通行人たちの群れに、エローダーが交じっている――特に根拠もなく、葉月はそう感じた。もしかすると、これが重信がいう、殺気を感じるということなのかもしれない。とにかく葉月はこの時初めて、自分に向けられる鋭い針のような、刺すような視線を浴びているのを実感していた。

「あ、あの! 風丘さん――!」

「ちょっと来て」

「えっ?」

「いいから」

 葉月は美咲の背を押し、足早に歩き出した。

「な、何を……?」

 戸惑う美咲をよそに、葉月はスマホですみれに連絡を入れた。

「――すみれさん、お嬢は? お嬢は来られない?」

『どうしたの? 何かあった?』

「まだだけど……たぶん、すぐ近くにいると思う」

『えっ!? あ、あの子は?』

「そばにいるけど、でももうバレないように守るのも限界かも。近くに敵がいるのは何となく判るんだけど、わたしじゃお嬢ほどはっきりと判別できないから――」

『だけど、お嬢さまはまだ……』

「……判った。こっちでどうにかしのいでみる」

 葉月はスマホをバッグに押し込み、唇を噛んだ。

 すでにエローダーがこちらに向かっているという情報は聞いていた。ただ、その接近が予想していた以上に早い。すでにかなりの至近距離にいると考えたほうがいいだろう。いつ攻撃されてもおかしくはない。

「あの、風丘さん――」

「あなた、彼のことどう思ってる?」

 何かいいかけた美咲をさえぎり、逆に葉月は尋ねた。

「幼馴染みよね? どう思う?」

「…………」

 葉月の漠然とした問いに、葉月はうつむき、ぼそりと答えた。

「のぶくん……何か変わった気がする」

「変わった?」

「うん……うまくいえないけど」

 幼馴染みをどう思うかという問いに対する答えとしては、それは少し見当はずれのように聞こえる。しかし、葉月が思い切るには都合のいい答えでもあった。

「……あなたも感じてはいるわけね」

「えっ? 風丘さん……何か知ってるの?」

「……多少は」

 何も知らない美咲にリターナーやエローダーのことをしゃべるのは、“機構”の一員としては間違っているかもしれない。ただ、最優先すべきことが美咲の身の安全であるなら、それも許されるだろうと葉月は自分に言い訳をあたえた。

「どういうことなの? ねえ、風丘さん?」

「詳しい話はあとでね」

 無事に生き延びられたら――というひと言を呑み込み、葉月は美咲と先を急いだ。

 美咲の護衛を任された時点で、葉月は美咲の自宅周辺の地理について軽く調べておいた。エローダーと戦うのに都合のいい場所の目星もつけてある。

「あ、あとって……え? わたし、のぶくんの晩ごはんを――」

「それもあとでね」

 事情を理解できていない人間はこうも呑気なのかと、葉月はついつい苦笑しそうになってしまった。

「な、何なの、風丘さん?」

「別に。……ただ、ちょっと覚悟しておいて」

「……どういう意味?」

「退院してきた林崎はやしざきくんが、今、どういう世界で生きているか――それを知ったら、あなたはたぶん驚くと思う。それをあなたは目にすることになると思うから」

「のぶくんが生きてる世界って――何いってるのかぜんぜん判らないよ! だから、それってどういう意味なの?」

「言葉で説明するのは難しいし、その暇もないから」

 少し焦れ始めた美咲を横目に、葉月は足を止めた。

 重信や美咲の自宅まではまだ距離があるけど、日没後の住宅街には人気はなく、激しさを増す雨がアスファルトを鏡のように黒光りさせている。ときおり通過していくクルマの、水に濡れたタイヤ音を聞きながら、葉月はスチール製の仮囲いに囲まれたマンションの建設現場を見上げた。

 完成形が見えてきたこのマンションの建設現場も、葉月が目をつけていたステージのひとつだった。建築施工も販売も、すべて戸隠財閥の系列で請け負っているというのが何より都合がいい。

「ここがいいか……」

 もう一度あたりに人の目がないのを確かめ、葉月は傘を捨てると同時に美咲の腰を抱いて跳躍した。

「えふぇ!?」

 唐突な加速に、少女の口からおかしな声がもれた。

 三メートルはありそうな仮囲いをかるがると飛び越えた葉月は、地下駐車場へと続く乾いたスロープの上に美咲を下ろすと、自分のリュックを少女に投げ渡した。

「持ってて」

「そっ……いや、そうじゃなくて!」

 しばらく呆然とへたり込んでいた美咲は、はたと我に返ってぶるぶると首を振った。

「い、今! 風丘さん、わた、わたしをかかえて、しゅばって……」

「そういうのも全部あとでね。……ほら、こっち出てくると濡れるから」

「いやちょっと! まずはちゃんと説明して――」

「あ・と・で!」

 食い下がる美咲を黙らせ、美咲は雨に濡れて張りつく前髪をかき上げた。

 ほとんど厚みのない仮囲いの上に、誰かが傘をさしたまましゃがみ込んでいた。

「最近の女子高生はこういうところで遊ぶの?」

 にこにこしながら葉月に語りかけたのは、少し太り気味の、アラサーとおぼしいサラリーマン風の男だった。

 もっとも、ふつうのサラリーマンならあんなところによじ登ることもできないだろうし、そこから胡散臭い笑顔で少女たちを見下ろしたりもしない。

 その異様さに気づいたのか、葉月の背後で美咲が息を呑んだのが判った。

「よっ、と」

 前のめりにぐるんと回転しながら仮囲いから下りた男は、危なげなく両足で着地すると、安物の傘をたたんで地面に突き刺した。

「――――」

 霧華のような特殊な感覚はなくても、もはや疑いの余地はない。間違いなくこの男は学校に現れたエローダーのひとりだった。

 見たところ、その体型とは裏腹に身のこなしは軽い。それに、工事のために硬く押し固められたこの地面にあのビニール傘をふかぶかと突き刺せるというのは、単なる腕力だけで考えても常人のそれをはるかにしのいでいる。

 ただ、このくらいならさほど驚くようなことではない。葉月を含め、戦いを得意とするリターナーたちなら同じようなことができるし、それはエローダーたちでも同じことだろう。重要なのは、この常人離れした身体能力のほかにどんなスキルを持っているのかということだった。

「!」

 男がブリーフケースを無造作に放り出した直後、葉月の鼻先に何かが飛んできた。

「ひっ!?」

 葉月の代わりに悲鳴を呑み込んだのは美咲だった。反射的に葉月が雷の鞭で叩き落としたナイフが、美咲の目の前に転がってきたからだろう。さもなければ、葉月の雷光に驚いたのかもしれない。

 だが、葉月にはそれを気遣っている余裕がない。

 今、この男は何をしたのか。あんな刃渡り二〇センチはありそうなナイフをどこに隠し持っていたのか。さっき捨てたブリーフケースか、あるいはだぼっとしたスーツのどこかか。

 そんなことを考えていた葉月は、男があらたなナイフを手にするのを目撃して目を見開いた。

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