第五章 母校に不審者 ~その二~
「――わたしはいまだにマスターのお店に行ったことがありません」
「それは仕方ないよ。高橋さん、高校生でしょ?」
「もう一八歳ですが」
「成人年齢は一八歳でも、さすがにセーラー服でお酒は飲めないねえ」
「いろいろと面倒です」
鈴木の勤め先と高橋の通う学校は、同じバスの沿線にある。ふたりはロータリーにすべり込んできたバスに乗り込むと、最後尾に近いシートに並んで座った。
「はいこれ。高橋さんに行き会ったら渡そうと思ってたんだあ」
バスが走り始めると、鈴木はポケットから小さく折りたたんだメモを引っ張り出し、高橋に差し出した。
「何です?」
「佐藤くんがさ、クロコリアスくんを出し抜きたいんだって。で、高橋さんもちょっと手を貸してくれないかなって」
「出し抜く……ですか?」
文庫本を開こうとしていた高橋は、メモを一読して眉をひそめた。
「……いいんですか、こんなことをして?」
「佐藤くんはその気なんだよね。田中くんもだけど」
「佐藤さんはともかく、田中さんがやる気になっているというのが意外です」
「まあ、佐藤くんは単にクロコリアスくんが気に食わないんだろうけどね」
鈴木は膝の上にかかえているリュックの中からチョコバーを取り出し、もにゅもにゅとかじった。
「――田中くんは田中くんで、クロコリアスくんに不信感を持ってるみたいなんだよね」
「それは判りましたけど、そこでどうしてわたしを巻き込むんですか?」
「それはたぶん、高橋さんが特に鼻が利くからじゃない?」
「そのいい方やめてください」
メモをくしゃりと丸めて鈴木のリュックの中に放り込んだ高橋は、文庫本を開いて読書に移った。
「……わたしはあんまりクロコリアスさんに睨まれたくないのですが」
「そこは佐藤くんのせいにすればいいんじゃない? いざという時はぼくや田中くんも口添えするし」
「それならいいですけど……例の新入りは、わたしたちの仲間をすごいペースで倒していると聞きますし、わたしもこのまま放置できないと考えていましたから」
「助かるよ、高橋さんに手伝ってもらえなかったら、相手を捜すだけでひと苦労だからねえ」
「……どうでもいいですけど、朝食を抜いてきたんですか、鈴木さん?」
「ん? 食べてきたよ? これはおやつの先取り」
鈴木はもう一本チョコバーを取り出し、パッケージを開けながら降車ボタンを押した。
「――それじゃあとでまた連絡するから」
「学生のわたしとフリーターの佐藤さんはともかく、鈴木さんと田中さんは退勤時間とか大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫、ぼくも田中くんもホワイト企業勤めの勝ち組だから。いざって時は何か理由でっち上げて半休取るし」
「……こういう社会人にだけはなりたくないですね」
「だったらさっさとやることやって、帰宅すればいいんじゃないかな? 食べ物がおいしいから、ぼくもこの世界は実はそんなに嫌いじゃないんだけど、それでもやっぱり実家の味が一番なんだよねえ」
「判ります」
「じゃあまたね」
停車を待って、鈴木は高橋にあいさつしてからバスを降りた。
☆
美咲はいい顔をしないだろうが、学校を長期間休んでいた事情のせいで、頭が痛いといえば、たいていの教師は重信が保健室に行くことをすんなり認めてくれる。そのおかげで、受けたくない授業の時には抜け出し放題で、おまけに鍵も預かっているから、時には保健室ではなく屋上で時間を潰すこともできる。
「……すごいものを持ち込んでるのね」
給水塔の影にデッキチェアを広げて昼寝をしていた重信は、やってきた
「おれが使っていない時ならきみらも自由に使っていいぞ。ふだんはたたんでそこにしまってある」
「けっこうよ。わたしはあなたほどここに来ることはないから」
「きみもサボりにきたんじゃないのか?」
「自分がそうだから他人もそうに違いないと思い込むのは危険」
「かもな」
重信は身を起こし、首を軽く回した。
「……で、きょうは何か話があるのか?」
「田宮さんの護衛の件、もうしばらく待ってくれる?」
「
イレギュラーな要求を突きつけたのは重信のほうである。満足のいく対応が取れるまで時間がかかるのは織り込みずみだった。
「……そういえば、きみは人の心を読む“スキル”を持っているんだったか?」
「厳密にいうとそこまで便利なものではないわ。現にわたしには、今あなたが何を考えているのか判らない」
「そうか」
「……わたしの力がどうかしたの?」
「自分でも自分のことがよく判らないんだ。……お察しとは思うが、具体的にいうと、田宮くんのことなんだが」
「彼女が……?」
「おれは、彼女のことが好きなんだろうか?」
「……それをわたしに聞かれても困る」
さほど困っているとは思えない、変化に乏しいいつもの茫洋とした表情のまま、ただ、わずかな間を置いて霧華はいった。
「……まさかあなた、それをわたしに判断してもらいたかったの?」
「きみに人の心を読む能力があって、そこに信頼が置けるのであれば、はっきりさせるには一番いいと思ったんだが」
「……好きも嫌いも、あなたが感じるままだと思うけど。ただ、大事な存在ではあるのでしょう? あなたはわたしたちに、彼女の護衛と引き換えに“機構”に入るといってきたわけだし」
「それはそうなんだが……確かに好悪でいうなら好きに決まっている。彼女は大切な存在だ。問題は、好きの種類というか――」
「そこをはっきりさせることに意味があるの? あなたのいう好きの種類が何であれ、わたしたちは田宮さんを守る」
「そういってくれるのはありがたい。ただ、田宮くんも健康な思春期の少女だ。対応を間違うとおれが彼女に嫌われかねない」
「……あなたがなぜそこでそんなに悩むのかがわたしには判らない。わたしには恋愛経験はないけど、それでも想像することはできる。彼女を見ていて胸がときめくならそれは恋心なのでしょうし、そうでないなら、それは古い友人や幼馴染みに対する友愛というべきものではないの?」
「それはそうなんだが」
「客観的にいって、田宮さんは見た目も性格もいい。あんな可愛い子とつき合えるなら、ふつうの男の子はどきどきするものだと思うけど」
「だから前にもいっただろう? おれの感性はすり減っているんだ。おれはもうふつうの一七歳じゃない」
重信は数々の異世界を渡り歩き、とても長い間、とても多くの人生を送ってきた。時には幼児として、時には老人として、あるいは女として生きたこともある。たったひとりで何十人ぶんもの人生をすごしてきたのである。
重信は肩をすくめて苦笑した。
「――そんなにいろいろな人生経験を積んできたにもかかわらず、いったいどういう偶然なのかは知らないが、おれがいわゆる思春期の少年としてすごしているのは、今この瞬間だけなんだよ」
「……若者として生きていたことはないの?」
「あいにくと、一七歳男子としての人生はこれが初めてでね。……そのせいか、恋愛感情に根差すときめきがどういうものだったか、よく思い出せないんだ。おまけにたちが悪いことに――あー……」
「……どうしたの?」
「その……たぶんきみの感性からすると嫌な顔をされると思うんだが、軽蔑しないでくれよ?」
「何なの、その前置きは?」
「つまりおれは……いい方が難しいな。とにかく、少年としてのまともな恋愛をする前に、ベテラン傭兵だの剣士だの、要は男臭いおっさんとして、やることはさんざんやりまくってしまったというか……女性という生物に対するあこがれだの幻想だの、そんなものはとうの昔になくなってるわけで」
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