第五章 母校に不審者 ~その一~
食欲をそそるいい匂いに鼻先をくすぐられ、
「――――」
使い慣れない枕に頭を預け、ぼんやりと薄目を開けて天井を見上げること数十秒。美咲は慌てて身を起こした。
美咲が横になっていたのはどう見ても
「……え?」
あちこちにしわができているものの、美咲の恰好はゆうべこの家へ来た時のそれと変わらない。学校指定のブラウスに制服のスカート、それに黒いタイツ――ただ、その恰好の自分がなぜ重信のベッドで寝ているのかすぐに理解できず、美咲は頭をかかえてしまった。
「……あれ? わたし、ゆうべ……?」
美咲が覚えているのは、帰宅した重信がグラタンを食べたあと、彼が作ったミルクティーをいっしょに飲んだあたりまでである。ソファに並んでミルクティーを飲みながら、何かおしゃべりをしていたような気もするけど、具体的な内容は思い出せない。
ただ、今の状況からすると、ソファで眠り込んだ美咲を、重信がここまで運んでくれたんだろう。少なくとも美咲が知るかぎり、自分には夢遊病の気はない。
「ちょっ……!」
カーテンの隙間から射し込む陽射しとベッドサイドの時計の針が、今が朝の七時すぎだということを物語っている。美咲は這いずるようにしてベッドを出ると、手櫛で髪の乱れを直しながら階段を下りていった。
「おはよう、
「ご、ごめん、のぶくん……寝坊しちゃって、お弁当とか――」
首をすくめてやってきた美咲は、ダイニングテーブルの上に並んでいるふたつの弁当箱を見て口をあんぐり開けた。
「……これ、どうしたの?」
「きのうのグラタンの礼というわけではないが、きょうはおれが作ってみた」
「え!?」
「きみがあまりに安らかな寝顔で寝こけていたから、起こすに忍びなくてな」
「あ! そ、それ!」
「どれだ?」
「ちがっ……ね、寝てたよね、わたし!? その、の、のぶくんのベッドで――」
「そうだな」
「何かごめんね……のぶくんのベッドなのに、わたしが占領しちゃって――」
ふたを斜めに乗せて粗熱を取っている弁当の中身を覗き込みながら、美咲は重信に詫びた。でも、ベーコンエッグを皿に移した重信は、平然とかぶりを振り、
「気にすることはない。別にきみだけに独占させていたわけではないからな」
「……え? ど、どういう意味?」
「だから、おれも自分のベッドから追い出されていたわけではないから、そんなことは気にしなくていいという意味だが」
「ちょっと待って!? そ、それじゃゆうべは、わたしはどこで寝てたの……?」
「だからおれのベッドだが」
「じゃ、のぶくんはどこで?」
「おれもおれのベッドで寝たが」
「わたしは!?」
「……どうしてそんなに何度も確認する? きみは、ゆうべ、おれのベッドで、おれの隣で、ぐっすりすやすや寝ていた。理解したか?」
「…………」
絶句した美咲の顔が一気に熱くなっていく。美咲は自分の頬を両手で押さえ、反芻するように繰り返した。
「い、いっしょ……に? わたしが、のぶくんと……?」
「妙な想像をめぐらせかねないからあらかじめいっておくが、おれはきみに何ひとつ不埒な真似はしていないぞ?」
「ふらっ……」
「そういうことを心配して取り乱していたんだろう? 違うのか?」
「ちっ、違う……じゃない、違わない、けど、でも、それはそれで――」
美咲の声がごにょごにょと消え入る。重信は怪訝そうに眉をひそめ、エプロンをはずしながらいった。
「何がいいたいんだ、田宮くん? まさかまだ寝ぼけているのか? なら、食事の前に冷たい水で顔でも洗ってくるといい」
「……そうする」
ひとりで顔を赤くしている自分とこともなげな重信のギャップに軽いめまいを覚え、美咲は洗面所に向かった。
ふつう、男子高校生が女子高校生と同じベッドで寝るなんてことになれば、ふつうは、ふつうだったら、絶対に平然とはしていられない――はずに違いないと、美咲は思う。女である美咲でさえ、そういうシチュエーションを想像するだけでドキドキして仕方がないというのに、これがふつうの思春期の少年なら、ふつうはドキドキするだけじゃすまないはずだった。
けど、けさの重信の様子からは、そういうドキドキがあったようには見えない。というか、不埒な真似はしなかったという重信の自己申告もあったし、そもそも美咲の服が特に乱れていなかった時点で、そんなドキドキ必須のイベントが発生しなかったのは明白だった。
「うー……」
冷たい水で顔を洗い、鏡の中のほぼすっぴんの自分を見て、美咲は小さく唸った。
これは果たしてどういうことなのか。もしかすると重信はふつうの男子ではなく、鈍感系主人公のような精神構造の持ち主で、すぐ隣に無防備な寝姿をさらしている少女に対して勃然として込み上げてくるものが何もなかったのか。あるいは何かあったのだけどそれを驚異の克己心で抑え込み、ああして平然としているだけなのか。
はたまた――これは一番考えたくはないけど――重信がまったくそういう気にならないくらいに、自分には女としての魅力がないのか。
「……そこまでダメとは思わないんだけど……」
少しずつ角度を変え、美咲は鏡に映る自分の顔を見やった。
決して自慢じゃないけれど、美咲だって男子から告白されたことぐらいはある。それも一度や二度じゃない。それこそ古くは小学校の高学年の頃から体育館の裏に呼び出されたり、最近ではつい二週間ほど前にも、男子から呼び出されてつき合ってほしいといわれたりした。そのすべてにごめんなさいを繰り返してきた美咲だけど、でも、だからこそ自分に魅力がないわけではないと思っている。
なのに重信は、そんな美咲が隣で寝ているのに何もしなかったのだ。
「田宮くん」
「ひゃいぃ!?」
不意に声をかけられ、美咲は鏡に見入っていたことを隠そうと、慌てて蛇口をひねってばちゃばちゃと顔を洗った。
「紅茶が冷めるから早く食べよう。……どうでもいいが、豪快な洗顔方法だな」
「……ん」
憮然としてタオルで顔を拭き、美咲はわざわざ呼びにきてくれた重信といっしょにダイニングに戻った。
自分は重信に嫌われていない、むしろ好かれている――という自覚は何となくある。ただ、重信との距離感が、特に退院してきてからなんだけど、美咲には今ひとつうまく掴めずにいて、それがモヤモヤしていた。
☆
何度もあくびを繰り返しながら、
「ふわぁ……」
人目もはばからず、また大きなあくびをした鈴木の背中が、背後から軽く叩かれた。
「鈴木さん、お疲れですね。夜更かしでもしましたか?」
大きな丸い眼鏡をかけた女子高生が、ぼそぼそと小さな声で尋ねる。小柄で猫背、いかにも内気そうな黒髪の少女だった。
「あ、
「おはようございます」
「いや、実はきのう、
「深酒ですか。うらやましいですね」
眼鏡を押し上げ、高橋と呼ばれた少女は学生カバンの中からカバーのかかった文庫本を取り出した。
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