第四章 真実の指摘は人を不機嫌にさせる ~その六~

「――あの時は腹が空いていて、いつになく苛ついていた。人間、食うものは食っておかないと駄目らしい」

「あんたでもそんなことあるんだ?」

「ああ。――とにかくおれがいいたいのは、田宮くんへのおれのこだわりを、他人に理解してもらうのはなかなかに難しそうだということだ」

「確かにワケ判んないわ。家族でもないし恋人でもない、でもあの子のために、あんたはエローダーと戦う道を選んだってこと?」

「きみは存外に詮索好きだな。もっと超然としているのかと思っていたが」

「は?」

 スマホをポケットに押し込み、葉月が怪訝そうに目を細める。重信は数メートルの距離を置いて自分も屋根の上に座り込み、星の少ない夜空を見上げた。

「――何というか、きみはあまり仲間とつるむようなタイプには思えなくてね。戸隠さんといっしょにいるのも、それこそ護衛役としてだろう? このいい方が正しいかどうかは判らないが、一匹狼系のギャル? のようなものじゃないのか、きみは?」

「何それ?」

 葉月は重信の言葉に軽く舌打ちしたが、強く否定はしなかった。おそらく、彼女自身も思い当たる節があるのだろう。

「他人には干渉せず、他人から干渉されることも嫌い、ただひとり我が道を行く――おれはきみがそういう人間だと勝手に思い込んでいたんだが、そのわりにはいろいろと詮索してくるから、それが意外だなと思っただけだ。……それとも、きみもやはり年頃の少女だから、誰と誰がつき合っているというような話題には目がないわけか?」

「は!? あ、あんた、何いってるわけ!?」

「だから、別に馬鹿にしてるわけじゃない。むしろ、そういう感性がうらやましいと思っているくらいだ」

 顔を赤くして腰を浮かせかけた葉月は、それを聞いてすぐに怪訝そうな表情を作った。

「……うらやましいってどういう意味よ?」

「詳しくは知らないが、きみは、飛ばされた先の異世界にはあまり長くいなかったんだろう?」

「……それがどうかした?」

 それはやはり葉月にとってはデリケートな問題なのか、彼女の眉がひくりと震えるのが重信にも判った。

「つまりだ、たとえるなら、風丘葉月という一七歳の少女の身体の中には、ほぼ同じ年齢の少女の心が入っていることになる」

「……当たり前じゃないの、それ?」

「そうでもない。聞けば戸隠さんは、病気で昏睡状態にあった半年の間に、異世界で三年分の時間をすごしてきたという。それからこの世界に戻ってきてリターナーとして覚醒したということは、戸隠さんの場合は、一八歳の肉体に二一歳の精神が入っているといえる」

「それは……まあそうかもだけど」

「だが、きみも聞いただろう? おれはほかのリターナーと違って、複数の異世界を渡り歩いてきた。この世界の時間に正確に置き換えることはできないが、大雑把にいって、数百年ぶんの時間をすごしてきている。だから……身体は一七歳のままでも、おれの心は数百歳ということになる」

「あ……」

「きみは、おれが平然とエローダーを斬り伏せることが気に食わないだろう? そうしなければ自分が危ないと理屈では理解できても、それをためらう心がブレーキをかけるというのは、きみがまだ充分に人並みの倫理観をキープしている証拠だし、何ら恥ずべきことでもない。……ただ、おれはもうそのあたりが完全に摩耗してしまっている。死なないために敵を殺すことが当たり前の世界で戦い続けてきた。しかしそれは、この世界の尺度でいえばただの人でなしだよ」

 そう語る重信の腹の底で、少し前に飲んだミルクティーが――何気ない日常のあたたかさを感じさせてくれた懐かしい味が、氷のように冷たくなっていく感覚がある。

「たぶん今のおれは、人間を殺すことにもさほど躊躇しないだろう。人間と入れ替わったエローダーじゃない、ごくふつうの一般人をだ」

「え……?」

「殺人が日常的な世界で長くすごしてきたからな。これまでそうしていたように、おれに向かってくだらないことをいう奴を殴って黙らせたくなることもあるし、実際に手が出そうになることもある。そういう衝動が走るたびに、おれはもうもとの世界に戻ってきたんだ、ここではそれはやってはいけないことなんだと自分にいい聞かせて、澄まし顔の下で現代人らしい倫理観を必死に思い出し、どうにかなけなしの理性で野蛮性を抑え込んでいる」

「それ……今の話?」

「もちろん、今現在の話だ。今のおれはそういう人間だ」

「…………」

「おかしなことをいっているように聞こえるかもしれないが、おれはいまだに、ここがおれがいたもとの世界じゃなく、それとよく似た別の異世界なんじゃないかという妄想に襲われることがある。一番深いつながりがあった両親に同時に死なれたせいなのか、ここがおれの故郷だという実感が希薄なのかもしれない」

「…………」

 唐突な重信の告白を聞いて、葉月はただ目を丸くして息を呑んでいたが、それも当然だろう。たとえるならそれは、自分がいつ爆発するか判らない危険な不発弾だといっているのにひとしいのである。彼女が重信を凝視するまなざしの中に、単なる苛つきだけではない、かすかな畏怖のようなものも混じっている気がした。

「――ただ、そんな不確かな世界の中で、おれには田宮くんだけが本物のように見える。彼女がいることで、ここがおれの居場所なんだと信じてもいい気がしている。だからおれは戸隠さんに正直にそういった。田宮くんが無事でいるかぎりは、おれは彼女が住むこの世界を守るために戦ってもいいと」

 美咲がいるかぎり、自分はまだこの世界の人間でいられる。自分がもともと林崎重信という少年だったこと、この国に生きていたということを、田宮美咲が思い出させてくれるかぎり、重信はまだ人として戦っていられるだろう。

「……もしあの子に何かあったらどうするの?」

「さあな。実際にそういう状況になってみないと判らない。――ただ、少なくとも積極的にエローダーと戦うことはなくなるだろうな。自分の身を守るため以外に戦う意味がなくなるわけだし」

 おそらく“機構”は、ほかのリターナーに対してはここまでの“サービス”はしていない。重信のわがままが聞き入れてもらえたのは、それだけ霧華が重信を重要視していることの表れだろう。

 だから重信は、それに見合うだけのはたらきはしようと思っている。霧華たちが重信の信頼を裏切らないかぎりは。

「…………」

 長い溜息をつき、葉月は立ち上がった。

「“機構”のほうであの子を守る件だけど、それってあんたの目が届かない場所ではって話よね?」

「そうだな。おれがいっしょにいるなら、ほかの誰かに彼女の護衛を頼む必要はない」

「てことは、今夜はどうするわけ? あの子が自宅に戻ったあとは、わたしが朝まで見守ってればいいの?」

「その必要はない。彼女はとっくに熟睡している。今から叩き起こして自宅に帰れというのも可哀相だろう? ……だが、きみの気遣いには感謝する。ありがとう」

 重信が素直に頭を下げると、葉月は毒気を抜かれたかのようにしばし言葉を失ったあと、軽く身震いしてきびすを返した。

「……あんたも余計なことしないでさっさと寝なよ!?」

「おれの行動に余計なことなんか何ひとつないんだが、まあ、今夜はおれももう寝ることにするよ。きみも気をつけて帰ってくれ」

「あんたに心配される覚えなんかないから」

 小さな声でそう吐き捨て、葉月は林崎家の屋根を蹴って大きく跳躍した。民家の屋根から屋根へとほとんど音を立てずに高速で移動し、あっという間に遠ざかっていく。

 無言でそれを見送っていた重信は、やがて自分の部屋へと戻ると、律儀にパジャマに着替えてベッドに入った。美咲は自分の頭の上で重信と葉月が相対していたことも知らぬげに、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。重信が隣に横たわっても目を覚ます気配はない。

「……本当に呑気だな、きみは。ほかの世界では半日と生き延びることができないタイプだ」

 特に意味もなく少女のつむじの匂いを嗅ぎ、重信は目を閉じた。

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